第10話 夜の呼び出し
その日、俺の見る限りでは、神楽坂には特に変わったところはないように思えた。
「ふう、今日も働いた働いた」
夜。一通りの仕事を終え、帰宅してゆっくりと風呂で汗を流していた俺。風呂上がりは、やっぱり冷たい飲み物をグビッと一気飲みするに限るな、などと思いながら、パンツ一丁の姿で冷蔵庫を漁る。
非常に品がないが、幸いというかなんというか、うちは父子家庭だ。家には親父と俺しかいないわけだから、こういう行動をしても咎められることはない。
「おう、絢斗。今日もご苦労さまだったな」
「あ、親父。帰って来てたのか。そっちこそお疲れ」
すると、俺が風呂に入っている間に帰宅していたらしい親父が、リビングでテレビを見ていた。
「どうだ? もうバイトに慣れてきたか? ああ、政臣にはもう会ったんだったよな?」
「うん。会ったよ。政臣さん、すごい優しくていい人だった」
「そりゃよかった」
本当は、政臣さん、親父のことすごい褒めてたよ、と教えてやりたいところだったが、息子からそんなことを聞かされるのも照れ臭いだろうし、ここは口を噤んでおくことにする。
「お嬢さんがいるんだろ。どんな人だった?」
「ああ、そのことか。驚くことに、それが俺と同じクラスの女子だったんだよ」
「何ィ?! 絢斗と同い年だってことは聞いていたが、まさか同じ学校で同じクラスだったとは、俺も知らなかったな」
親父は驚いた様子で、ヒゲの生えた顎を撫でた。
「根暗なお前が年頃のお嬢さんに嫌われないかだけが心配だったが、同じクラスってことなら心配いらなさそうだな」
「いや、それがそうでもなくてさ……あ、根暗は余計なんだけど」
ちょっと引っかかるが、それは一旦置いておくとして。
「娘の美織ってヤツが、その、結構クセ強いっていうか、その……」
「ん? どんなふうに?」
「いやぁ、それは、えっと……」
人を見るとすぐ破廉恥だとか、不潔だとか罵倒してきて、かと思えば手の平を返したように未来の旦那だとか、キスしたいとか言ってきて――とにかく、変なヤツだ。あと、脳内まっピンク。
いやしかし、よくよく考えると、どれもこれも親父の前でできる話ではない。
「ま、まあ、ちょっと不思議ちゃんっていうか、ハハ……」
軌道修正しなければと、適当に愛想笑いで誤魔化す俺。親父は不思議そうな顔をしつつも、「ふうん」と納得した様子で、それ以上追及されることはなかった。
「そ、それよりさ……」
話題を変えようと切り出した瞬間、ピロン、とメッセージアプリの通知音が鳴る。
……誰だ? こんな夜遅くに。
いや、普通の高校生は知らないが、俺は友人が少ないから、基本的にメッセージアプリで連絡を寄越してくるのは親父か、企業の公式アカウントばかりなのだ。親父は今目の前にいるし、公式アカウントはこんな時間にメッセージを配信しないだろう。
怪訝に思いながら光るスマホを手に取り、内容を確認する。
「……あ、」
「どうした?」
「例の、神楽坂さんちの……娘さんからだ」
アルバイトとして神楽坂家にお世話になる都合上、念のため政臣さんだけでなく、娘のほうとも連絡先を交換しておいたのだ。
神楽坂自身があまりアプリを使いこなせていないのか、今まで頻繁に連絡が来るようなことはなかったのだが。画面に表示された文字は短くて、
”たすけて”
「……助けて?」
メッセージの内容を声に出して呟いた俺は、そのまま固まった。
しかしすぐにハッと我に返り、考えを巡らせる。詳しい状況はわからないが、神楽坂の身に何かしらの危険が及んでいる可能性がある。
慌てて時計を見る。時刻は午後11時。まだ電車は動いている。
――もしこんな時間に外を出歩いているのだとしたら、そのへんの酔っ払いやチンピラに絡まれたり、乱暴されそうになっているのかも……。
そう考えると、いてもたってもいられなくなった俺は、慌てて服を着て、玄関に駆け出した。
「お、おい、どうしたんだよ、絢斗!」
「親父、ごめん! 俺、ちょっと出てくる!」
「出てくるってお前……こんな時間にどこへ!」
「大丈夫! 心配しないで! 俺は平気だから!」
俺はいい、男だし、そんなに力自慢というわけではないが、そもそも男だという時点で、変な輩に狙われる可能性自体が低くなる。
だけど神楽坂は違う。神楽坂は女で、しかも誰もが振り返るほどの美少女。学園内に限ったって、彼女を狙う男は数多くいる――学園外、それも人気のない場所やシチュエーションとなれば、もしかすると――。
無意識に、悪い方向に考えが及んでしまい、ゾッと背筋が寒くなる。
「クソッ……そう言ったって、どこを探せば」
やみくもに探したって見つかるはずがない。
どうする。とりあえず、家に行くか……? 自宅の場所は当然知っているし、こんな時間に家から遠く離れた場所にいるとも考えづらいから、家の中にいなかったとしても、近くのコンビニか何かにいる可能性もある。
そうと決まれば、一旦は神楽坂の自宅を目指そう。
「無事でいてくれよ……!」
俺はスマホと財布を乱暴に服のポケットに突っ込み、家を飛び出した。
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