最終話① そして未来へ

 青い空に薄雲が流れ、初夏の陽射しが柔らかく庭先を照らしていた。グランデュール家の広大な敷地には、季節の花が賑やかに咲き誇り、穏やかな空気が漂っている。その庭園をゆっくりと歩むコーデリア・フォン・グランデュールの姿は、以前の彼女からは想像もつかないほど穏やかで、自信に満ちていた。


 王太子レオナルドとの因縁の一件がすべて片づいてから、既にいくつかの月日が過ぎている。王太子は公的な場から遠ざけられ、ほぼ軟禁に近い形で監視下に置かれたという噂だ。周囲の貴族も、かつては絶対と思われた王家の威光より、いまやグランデュール家の存在感を優先するようになっていた。ある者は口をそろえて「時代が変わった」と嘆くが、コーデリアからすれば、変わるべくして変わっただけのこととも思える。


 社交界では、大規模な催しが行われるたびに、彼女が姿を現すと一瞬で注目が集まる。かつては「婚約破棄された娘」という冷たい視線があったが、それも今は昔。もう誰も、王太子の側に立ってコーデリアを軽んじるような真似はしない。むしろ、彼女が隣国の王子やアシュレイとの連携を深める姿を見て、「あの方こそいまの社交界を牽引する存在」と評する声すらあるくらいだ。


 そして、その影には相変わらず熱心な二人の男――アシュレイ・フォン・グランデュールと、隣国王子ルシアン・リエストリアがいる。どちらも「妹を守る」という情熱をそのままに、王太子の失脚後も飽きずに大がかりな行動を続けている。グランデュール家が隣国と結んだ同盟は、当初の想定をはるかに超える規模となり、それが故に国中の貴族や民衆が恩恵を受ける形で平和が促進された。大掛かりすぎる動きにあきれる者もいたが、結果的に「いい方向へ動いているなら文句はない」という認識が広がっているらしい。


 庭園の入り口では、そのアシュレイとルシアン王子が何やら熱心に言い合っていた。どうやら、次の祭典に関して「妹たちが安心して楽しめるように、警護の体制を徹底したい」と盛り上がっているらしい。二人の姿はどこか微笑ましく、そして大仰でもある。コーデリアは少し離れた場所からそのやり取りを眺めながら、わずかに肩をすくめた。


「二人とも、相変わらずね……わたしを守りたい気持ちが強いのはありがたいけど、そこまで大がかりに準備しなくても大丈夫だと思うんだけど」


 庭の花が風に揺れる。桃色や白の花弁がふわりと落ち、足元を飾る。その様子を横目に、コーデリアは遠くで笑い合うアシュレイとルシアン王子の背中に微かな感謝と呆れを交えた視線を送る。彼らの行動力と規模の大きさには呆れる一方、事実として何度も助けられたのも事実だ。もしこの先また、王太子の残党や外部の強硬派がわたしを狙おうとすれば、二人が再び立ち上がってくれるだろう。


 以前はそんな兄の情熱を「やりすぎ」と感じることも多かったが、今は心のどこかで安心を覚えている自分がいる。自分がもう王太子におびえる必要もなくなったのは、確かに兄たちの力によるところが大きいのだから。あの婚約破棄の夜から続いた日々は、ときに大変で、ときに勢い余って国中を巻き込む大騒動となったが、最終的には平和と安定をもたらしてくれたと言える。


 その足取りを緩やかに進めながら、コーデリアは庭園の奥へ向かった。噴水のそばには木製のベンチがあり、そこに腰を下ろすと、少しだけ息を吐く。頭の中には、この数カ月の波乱が鮮明に蘇っていた。はじめは王太子の婚約破棄により心底傷つき、悔しい思いをしながら泣き寝入りをするしかなかった。だが、兄の怒りと行動力が王太子を追い詰め、隣国王子の協力がさらに騒動を拡大し、結果的にあの男の不正が全国に知れ渡る形で終わったのだ。


 重苦しい審議を経て、王太子は地位を大幅に下げられ、周囲から見放されることになった。取り巻きの令嬢たちも軒並み逃亡や立場の喪失に追い込まれ、あれほど色めき立っていた社交界が、一夜にしてコーデリアへ向かって手のひらを返した。矛盾だらけの展開には呆れを通り越して笑いすらこみ上げたが、これで自分が受けた屈辱はきれいに晴れた――少なくともそう思える。周囲の冷たい視線は消え失せ、むしろ兄や隣国王子と結託して王太子を倒した手腕が称賛されるほどだ。


「まったく、あのとき婚約破棄を言い渡された夜は最悪の気分だったけど、人生どう転ぶかわからないものね。別にこっちが格別何をしたわけでもないのに、結果的にはみんな王太子を見限ってわたしを持ち上げる。……まぁ、兄さまたちの手腕が大きいんだけど」


 静かな噴水の音を聞きながら、コーデリアはひそかに微笑む。思い返せば、あの晩に味わった悔しさや屈辱がなければ、ここまで行動を起こすこともなかっただろう。王太子に逆らうだけの勇気も手段もなかった自分が、この数カ月で大逆転を果たしたのは、皮肉な巡り合わせかもしれない。だが、そのおかげで未来が変わったのは紛れもない事実だ。


 この先、彼女にどんな縁談が持ちかけられるかはわからない。王太子との婚約破棄を乗り越えた今、むしろ名家からの申し込みが増える可能性だってある。だが、コーデリアはあまり焦っていない。かつては王太子の婚約者として振る舞うのが当然だと思っていたが、いまはそうした「当然」がすべて覆された世界で生きているのだ。選択肢は無数にあるし、自分が本当に何を望むかはまだ探し出せていない気がする。


「もしまた結婚の話が出たとしても、もうわたしが振り回されることはないわ。何しろ、兄さまやルシアン王子がいるんだもの。相手がうかつにわたしに変な態度をとったら、国を巻き込んでも止めてくれるでしょうね」


 それが幸せかどうかは一概に言えないが、少なくとも彼女が再び一方的な婚約破棄に泣かされる可能性は、極めて低い。この国の大半は、いまや「妹を守る」という公爵家と隣国の連合に畏敬を抱いているのだから。ほんのわずかな言いがかりでさえ、相手が国を動かして封じ込めるかもしれない。あまりに大げさな仕組みだが、コーデリアの心には不思議と安堵がある。


 王太子がいなくなった後の社交界は、当初の混乱こそあれ、現在は落ち着きを取り戻しつつある。かつて取り巻きとして名を馳せていた令嬢たちの多くが姿を消し、中にはコーデリアへ詫びを入れて新たに仲間として振る舞おうとする者もいるが、彼女はあまり深く関わろうとしない。お飾りの交友関係など、もう必要ないと思っているからだ。むしろ、自分の信じた少数の友人や兄と隣国王子、家臣たちだけで十分事足りる。


 かすかに吹いた風が、ドレスの裾を揺らす。コーデリアはベンチから立ち上がり、そのまま噴水の横へ進んだ。水面に映る自分の姿は、以前よりほんの少し凛々しい印象になった気がする。王太子の傘から離れ、自分の意思で戦い、勝ち抜いてきたからかもしれない。今ならば、もう誰にも譲らない自分らしさを築けると感じるのだ。


「それにしても、わたしも随分と変わったものね。あの日までは、王太子と結婚するための立場を守るのが当然だと思っていたのに、今ではこんなに自由になっている。兄さまのおかげでもあるし、自分自身の成長もあるのかもしれないわ」


 ふと、視線の先にアシュレイが立っているのが見えた。いつの間にかルシアン王子との話を終えたのか、こちらへ向けて歩んできているようだ。やはり妹の居場所が気になるのか、その動きは速い。コーデリアは「もう少し静かにしていてほしいのに」と思いながらも、心の奥では彼の存在が頼もしいのも否定できない。


「ルシアン王子との打ち合わせはまだ続きそうだが、一旦休憩することにしたよ。……そういえば、おまえのところにも縁談の話がちらほら届いているらしいな?」

「縁談ですって? ああ、そういえば昨日もそんな手紙が来てたわね。わたしは正直、乗り気じゃないんだけど」

「おまえが嫌なら断ればいい。無理に嫁ぐ必要などないぞ。俺がいれば、この家を支えていけるし、ルシアン王子も協力してくれる。おまえが本当に相手を見つけたいと思うなら、そのときこそ力を貸すが」


 妹思いの言葉を当然のように返され、コーデリアは肩をすくめた。嬉しいような、面倒くさいような、複雑な感情がやはり混じり合う。だが、少なくとも自分の将来を自分で選べるのは確かだ。かつてのように王太子の一存で振り回される人生ではない。


「ありがとう、兄さま。でもまあ、まだそういう話は早いわ。今は自分の足で立っていられるこの自由を楽しみたいもの」

「そうか。……まぁ、おまえが笑ってくれていれば、それ以上の望みはない。いつか本当に結婚したくなったら教えてくれ。相手を見極めるのも、俺の務めだからな」

「そこまでしなくても。自分でちゃんと見極めるわよ」


 二人で軽く笑い合い、噴水のそばを少し歩く。かつてのコーデリアであれば、兄とこんな会話を交わす余裕などなかったかもしれない。王太子の存在が影のようにつきまとい、常に心を乱していた時期が確かにあったのだから。でも今は、その影が消え、明るい光が差し込んでいる。もちろん、兄の行動が大げさなのは変わらないが、それをうまく生かしていくのがこれからの自分の役目だと感じる。


「これからわたしは、自分らしく生きていくわ。おそらく周囲はわたしのことを、色々な印象で見ているでしょうね。でも、それならそれでいい。わたしはわたしのやり方で、いま手にした自由と立場を使っていくだけ。兄さまもルシアン王子も、心強い味方だしね」


 そう口に出して言うと、アシュレイは静かに微笑んだ。彼女がかつて抱えていた苦しみが消え去ったことを、確かに感じ取っているのだろう。ルシアン王子も同様に、妹が笑顔で暮らせる環境をつくるため、今後とも大規模な施策を打ち出していくつもりだとか。呆れるほどの規模でも、今やそこに大きな抑止力と安定があると証明されているから、コーデリアとしても強く否定はできない。


「悪くないわね。王太子がいなくなった世界というのも、意外と居心地がいいわ。今ならそう素直に思える」


 静かに目を閉じ、風を感じる。あれほど重苦しかった日のことを思えば、この季節の風がどれだけ爽やかに肌を撫でるかわかっていなかったのだろう。苦しんだ日々はもう遠い過去。コーデリアは大きく息をつき、新たな一歩を踏み出そうとする。


「ところで、コーデリア。ルシアン王子が、いずれ大陸全土を結ぶ『妹優先』の共同宣言を発案しているようだが……参加する気はあるか?」

「また極端な話ね。世界を巻き込む勢いなのに、さすが殿下と言うべきかしら。でも、少し興味はあるわ。女性たちが暮らしやすい世界が実現するとしたら、それは大いに素晴らしいことだし、わたしも一役買ってみても悪くないかも」

「おまえが乗り気ならば、俺は全力で支援する。……もちろん、無理強いはしないが」


 アシュレイの視線に、コーデリアは思わず微笑みを深める。かつての自分だったら、笑うより先に面倒が勝っていたかもしれないが、今は心に余裕があるのだ。王太子との因縁が切れただけでなく、兄や隣国王子の行動力を「危険」ではなく「頼もしさ」として受け止められるようになった。大きな成長を自覚しながら、コーデリアは思い出す。あの日、すべてが変わってしまったと嘆いた夜から、こんなにも世界が変わるなんて誰が予想しただろうか。


「結局、あの時に婚約破棄を言い渡されたからこそ、いまのわたしがあるのね。あれだけは屈辱だったけれど、その分、学べたことも多いわ。そして兄さまと王子がここまでしてくれたのも、全部『妹を守るため』……まったく呆れてものが言えないけど、それでも、ありがとう」


 そっと庭石の上に腰をかけて、小さく口にする感謝の言葉。隣に立つアシュレイは驚いたように振り返るが、コーデリアは構わず続ける。


「わたしも、もう昔のように萎縮してはいないのよ。王太子を倒した今、何を恐れる必要があるの? ここから先はわたしが自分で決めて、わたしの歩みたい道を進んでいく。兄さまや殿下がやりすぎるなら止めてあげるし、わたしが少しスケールの大きなことをやりたいなら協力してもらう。それだけで十分よ」

「おまえがそう言うなら、俺も文句はない。……ただし、おまえに危険が迫ったら、いつでも呼ぶんだぞ。何もかも投げ打って駆けつける用意はあるからな」

「ええ、ありがとう。でももうそんな事態は来ないんじゃないかしらね? あんなに大騒ぎして、わたしを傷つける者には容赦しないって、国中が知っているんだから」


 二人は顔を見合わせ、ふと笑い合う。あれほど血の気が多かったアシュレイも、コーデリアが笑っているときは穏やかだ。ルシアン王子にしても、妹に害が及ばないなら、それこそ軍も動かす必要などないと落ち着いている。つまり今こそが、コーデリアが静かに幸せを築ける好機というわけだ。

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