第8話 憎しみの視線

 一年C組の四時限目は体育。五〇メートル走。


 校庭のトラックの直線部を利用して、男女別に只今、タイムの測定中。


 男子側からは「俺の方が早い」だの「まだ本気じゃねーし」だの「腹減った」だのと聞こえ、トラックの向かいの女子側もキャッキャッと雑談しているグループが目立つ。


 授業中の態度とは言い難いが、担当の教員のいい加減ともとれる寛容さのお陰で、教室でノートを取り続ける一日の中では、生徒達には良いガス抜きになっていた。


「……はぁ~ぁ――」


 その中でタイム計測を終えた上条悠斗は青空に流れる真っ白な雲を眺めながら、大きく長い溜息を漏らした。


 彼は昨日の放課後、物心ついた頃から好きだった一ノ瀬綾乃と中学生時代の疎遠を経て、ついに恋人となった。


十代半ばの人生に置いて幸せの絶頂期だと言える。


 ――言えるのだが、苦労も同等だ。


 朝礼前に、綾乃の友人である水原佳織に見得を切るような事を言ってしまいクラス中の注目を浴びてしまったが本心だし、綾乃との事を隠す気も無かったので、後悔は無い。


 だが、『一ノ瀬綾乃』は悠斗や綾乃本人が思うよりも校内の有名人だった。


 一時限目の休み時間には隣のクラスにも話が届き、三時限目が終わる頃には噂好き連中が授業中にメッセージアプリでも使ったのか、一年全クラスに広まっていた。


 既に、『美少女の一ノ瀬綾乃は御門光輝の告白を断り、平凡な幼馴染の上条悠斗と付き合っている』とも周知されている。


 お陰で、校庭に移動する間に、嫉妬交じりな好奇の目に晒された。

 

 まぁ、それはそれとしても――。


「位置に着いてー、よーい――!」


 女子のスターターの掛け声の直後のピストルの破裂音で、その恋人がクラウチングスタートから走り出す。


 隣のコースを走る女子の上下左右に暴れる胸部を「ぁん?」と、呪詛をかける様に一瞥して加速。


 グングンと距離を離しつつ、ゴールに向けて疾走する。


 風を切り、僅かに上下に揺れる体育着に隠れた綾乃の胸の中にあるのは、柔らかくも張りのある母性的なたわわな実り――では無く、フカフカのパッドの重なり。


(アレには見事に騙されたよな……)


 『B』から『E』とはかなりの差がある筈だが、それを巧みに盛る技術は脱帽した。


 事情を知っている悠斗でも、見た目に違和感は無い。あれを看破出来る思春期男子は居ないだろう。


 仮に周囲にバレたとしても、彼女の恋人であり続けると断言出来るので、悠斗からすれば『些細な問題』で済んでしまうが、本人にしてみれば死活問題だ。


 女子には男子には分からない“しがらみ”があるらしい。


 彼氏として、綾乃の助けになりたい所ではあるが、


「――ぁ……」


 悠斗の視線の先、八秒後半台で走り終えた綾乃は頻りに自身の胸元を気にしていた。


 その違和感を察する事が出来るのは、この場では彼だけだ。


 だが、男子である悠斗は女子グループの中に駆け寄る事は出来ないし、例え駆け寄ったとしても出来る事はそもそも無い。


 寧ろ、彼が変に気遣えば逆に周囲にバラすようなもの。

 

 ――自分が彼女に余計な苦労をさせているのに、見ているだけなのだ。


 あの時、照れ隠しであんな言葉を吐かなければ、直ぐに謝る事が出来ていれば今の様な思いをさせずに済んだかもしれない。


 自責の念に駆られつつ、無意識に綾乃を目で追っていると彼女の友人である水原佳織がその視線に勘付いた。


 佳織は綾乃を守る様に抱き着いて、


「コラァー上条―! 自分の彼女をエロい目で見んなーっ!」


「見てませんけどぉ!?」


 確かに見てはいたが、エロい目では無かったので冤罪なのだ。


 反論し、女子達の「男子ってやーね」という視線から逃れる様に、秋元冬樹達の輪の中に逃げ込んだ。


「……会いたくて会いたくて、震えてんのか?」


 冬樹がニヤニヤと聞き覚えのあるフレーズを問いかける。


「震えてねぇーよ。綾乃を想うほど遠くに感じた事もあったけどもね」


 ニヤニヤと冬樹の聞き覚えのあるフレーズに、悠斗も続くフレーズで返した。


「彼女の弁当が楽しみなのは分かるけど、後二〇分我慢な?」


「だからそういう訳じゃねーよ。いや、楽しみなんだけども……。ってか二〇分って割と長ぇな!」


 別の友人にも冷やかされる。


 学年一の美少女と幼馴染な上に恋人なのだから多少のイジリは宿命なのかと甘んじつつ、そのまま談笑をしていると、不意に視線を感じて悠斗は顔を上げた。


「――?」


 上条悠斗は、少年漫画の主人公の様に特別な『力』など無い。


 誰かと視線が合った訳でも無い。


 だから、気のせいだ。


「…………」


 ただ、見上げた視線の先が校舎の左端の教室――一年A組だったのが、妙に心をざわつかせたのだった。



――――――――――――――

あとがき


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