春風に死す

紺野紬

 




「松崎帆花」



少し冷たくて甘い声が、小さな黒子の浮かぶ薄い唇の上に初めて私の名前を形づくる。


窓に掛けられた汚れの目立つカーテンがはためいて、春風が淡い匂いを運んでくる。ついでに誘われてきた花粉に、彼は可愛らしいくしゃみをひとつ落とした。



「花粉症のくせに、またティッシュ持ってないんですか」


「松崎がいつもくれるから」



ずるい大人は、私の気持ちに応えるつもりもないくせに今日もティッシュを受け取った。噛み過ぎで赤くなっていた鼻のために、わざわざ私が隣の駅の薬局まで少しお高いティッシュを買いに行っていることになんて、彼はきっと気付いていない。


もう一つくしゃみを落とした彼を横に手元に積まれた本と右隅に"10"の数字が印字された小さなカードを指先でなぞれば、彼の掌が手元のそれを奪い去る。


あ、と声を小さく上げた私に彼は目尻に皺を寄せてくしゃりと笑んで見せた。



「すげぇな。カード10枚目なんて初めて見たわ」


「…おすすめされたのを読んだだけですよ」


「それがすげぇんだわ」



お疲れさん、と私の大好きな笑顔が数十センチ先で惜しみなく広げられる。この笑顔を見るためだけに毎日通い詰めたと言っても、きっと戯言にはならないだろう。


ベッドの中のぬるくて薄暗い世界よりずっときらきらしていて、でもちゃんと棘から守ってくれる、そんなここは私にとって唯一の安らぎの場所だった。



実は、私は読書があまり好きではないのだと告白したら彼はどんな顔を見せるのだろうか、とふと思った。


消去法で逃げ込んだ場所で出会った、普段は気怠げなくせに本の話をするときだけは子供のように目を輝かるひと。そんな彼に恋をした矮小な女の子が、彼に少しでも近づきたくてたくさんページを捲ったのだと告げたら。


彼の見ている世界を少しでも覗き見たいと、そんな邪な気持ちだけでおすすめされた数百冊の本を全て読んでしまったのだと告げたら。



―――きっと、彼はいつものように「えらいな」と笑って頭を乱雑に撫でてくれるに違いない。



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