第9話「ねぇ、においなんて嗅がないで」

「今日はどうする?」


 予備校での一悶着ひともんちゃく以来、気づけば放課後に私のほうから連絡を取るのが当たり前になっていた。

 習慣とは不思議なもので、最初はどうせ何か話すのだったら私から送ったほうが楽だったのが、いつしかそれが日常になっていた。


 和泉いずみには放課後忙しい日を教えてあるし、彼女もいつ私が連絡するかわかっているのだろう。

 何か送ると、数秒以内に返信が来る。


『会いたい』


 どうしても済ませないといけない用事を終えると、私は普段より少し遅れて彼女の家を訪ねた。

 私服姿になった和泉は、いつも通り玄関で出迎えてくれた。


「お邪魔します」


 私が靴をそろえ終わると、彼女は後ろから急に私のことを抱きしめてきた。


「なに?」

「ちゃんと振ってくれた?」


 低く落ちた和泉の声が、湿った吐息とともに鼓膜を震わせる。

 ぴたりと密着しているのに、まるで氷の刃が背骨をなぞるような悪寒が走る。

 息が詰まり、喉が鳴りそうになるのを必死で堪えた。

 心臓も和泉に聞こえるんじゃないかというくらい音を立てて拍動する。


 振ったと訊いてきたということは、和泉は私がなんで遅くなったか知っているんだろう。

 なら変に誤魔化さないほうがいいかな。


「振ったよ。でも……どうしてそれを知ってるの?」


 名も知らぬ同級生から『伝えたいことがあるから放課後会いたい』というメッセージが届いたのは今日の朝だった。

 そのことを私は和泉には伝えてないし、それどころか、千鶴ちづるを含む友達にも誰一人として伝えていない。

 告白された前後で誰かにバレたりもしなかったし、和泉が気が付くとは思えないんだけど。


「ちょっと前から好きって相談されてたから。今日告白するつもりってのも聞いた」

「友達だったんだ」

「そうだね。その子が莉那りなのことを好きって言うまではね」

「相談された時に自分の恋人って言えばよかったじゃん」


 そうすればさすがにその子も告白はしなかっただろうし、和泉が相手だとわかれば意外と簡単にあきらめてくれたんじゃないだろうか。


「けど、莉那はまだあの千鶴って子に私と付き合ってるって言ってないよね?」

「……言ってないけど」

「なら、私も言わない。フェアでしょ?」

「……フェアね」


 でも、もしあの場で言っていたら……千鶴は絶対に面倒なことをし始める。

 それが目に見えていたから、言わなかっただけ。

 ただそういやって張り合われると、私も内緒にしておけばいいかなと思ってしまう。

 どうせクリスマスを過ぎれば他人に戻るんだし。


「けど、振ってくれてよかった。約束守ってくれてありがとう」

「……。どういたしまして」


 日本語としてこれが正しいのかはわからない。

 何か言わないとと考えて出てきた言葉がこれしかなかった。


「ところでさ。麻央まおはいつまでくっついてるの?」


 肘で軽くわき腹を突く。

 でも、彼女は微動だにせず、逆に腕の力を強めてくる。

 ぴたりと貼りつく体温が、じわりと肌に馴染んでくるのを感じた。


「私の気が済むまで。今私たちしかいないし、気にしなくていいよ」


 ……そう言われても、「あー、よかった」とはならない。

 それどころか、誰にも見られないという事実が、かえって和泉の大胆さを後押ししているように感じる。

 彼女の腕の力が、私を簡単には逃がさないとでも言うように、じわりと強まった。


 だからって、ずっと抱き着かれながら、和泉の体温を押し当てられていると、私が落ち着かない。

 初めはただ抱きついているだけだったのに、やがてふっと首筋に温かい吐息が触れる。

 背筋がぞくりとした。

 さすがに恥ずかしいから臭いを嗅ぐのはやめてほしい。

 今日は特に……。


「あのさ、麻央?」

「なに?」


 彼女は私が声を掛けてもやめることなく嗅ぎ続ける。

 というか、私が言ってからのほうが露骨に嗅いでる気がする。

 彼女は今バックハグみたいな状態になっていることをわかっているんだろうか。

 さっきは手加減して突いたけど、今度は思い切りわき腹にぶつけても、私は一向に構わないんだけど……。


「麻央さ~ん?」

「あとちょっとでいいから……」


 和泉がそう言うので、その言葉を信じて少し待つが、彼女は一向にやめる気配を見せない。


「……あの、麻央さん? いくら真夏よりは涼しくなったとは言っても、私外歩いて来たんですけど」


 しかも最悪なことに、告白されたのもエアコンが利いてない蒸し暑い教室だった。

 どうして、今日に限って——。

 わざわざ家で着替えてくればよかったと思うが、今さらそんなことできるわけない。


「……莉那の匂い、すごく好き」

「いや、そういうことじゃなくてっ……」

「汗気になる?」

「……答えないとわからない?」


 別に普通に一緒にいる分には私だってそこまで気にしないけど、嗅がれるなら話は別だ。

 特に首筋とか絶対はっきりわかるし、嫌だ。


「私はもうちょっとこうしてたいんだけど」

「……私は、離れてほしいんだけど」


 心臓がうるさい。

 こんな至近距離で、和泉の体温を感じながら、まともに冷静でいられるわけがない。

 彼女はむぅ~というなんだかよくわからない声を出しながらようやく離れてくれた。


 よかった。

 さすがに私も思い切り肘をぶつけるなんてことはしたくなかったし。

 付き合って二カ月で別れた上、彼女をぶったなんていわくが過ぎるだろう。

 ただ彼女は反省していないのか、今度は前から抱き着くと言った。


「あのさ、もう一回いい?」

「嫌だ。離れて」


 私が和泉を離そうと強く押しても彼女はびくともしない。

 それどころかさらに強く抱きしめると言った。


「お風呂入った後でいいから」

「……入らないよ」


 和泉は当たり前のようにお風呂場の方を指さしたけど、そもそも入るつもりなんかないし……。

 着替えもなければ、なにもないし。

 ただ和泉はわざとらしく私のうなじに掛かる毛を持ち上げると言った。


「なら嗅いでいい?」

「嫌だって……」

「じゃあ私に嗅がれるか、入るか好きなほう選んで」


 なにその嫌な二択……。

 嗅がれるのは絶対嫌だから選ぶとしたらお風呂だけど……。

 本当に貸す気なんだろうか。


「どっちも嫌なんだけど……」

「恋人の家のお風呂使うなんて普通じゃない?」


 和泉はそう言うとさっきまでただ抱きしめていた手を服の下に入れ、背中に直接触れた。

 もっと先に進めば普通なんだろうけど……。

 私たちにはまだ早い気がする……。


「普通かもしれないけど、もうちょっと進んでから」

「ふーん」


 和泉は、わずかに眉をひそめ、つまらなそうにつぶやいた。


「友達だった頃はよかったのに、恋人だとダメなんだ……」


 その言葉に、私は一瞬息を詰まらせた。


「……いつの話?」


 昔はただの幼なじみだった。何も考えずに、当たり前のように同じ湯船に浸かっていた。

 でも、今は——違う。


「今だよ」


 そう言うと、和泉は全体重を私に預けてきて、押し倒すような格好になると言った。


「ねえ……。私、どこで間違えたの? どうすれば……許してもらえる?」


 いつもより低く沈んだ声に、思わず息をんだ。

 震える声を抑えて私は言った。


「麻央が何かしたからとかじゃない……」


 逆光になっているせいで、和泉の表情を見ることができない。

 今どんな顔をしてるんだろうか。

 和泉が何かしたわけじゃななくて、私がなにもできなかっただけなのに……。

 相変わらず私を見下ろしたまま動かない彼女に私は言った。


「いいよ。お風呂入る。ただ昔の話出してきたってことは、一緒に入ってくれるってことでいいんだよね?」


 私だけ入るなんて不公平だし、どうせ入るなら和泉も一緒だ。

 そうすれば私だけお風呂上がりの姿を見られることもないし、匂いも近くなるから嗅ぐ意味だって薄くなる。


 さすがにここまで言えば少しはひるんでくれるんじゃないと思ったけれど、和泉は平然とした態度で言った。


「いいよ、今日は誰も深夜まで帰ってこないし。ゆっくり、入ろうか」


 あれ?

 和泉は、私の考えを見透かしたように口元を緩めた。

 それは微笑みというには甘すぎ、笑みというには鋭すぎた。

 動揺の欠片もなく、余裕たっぷりに私を見下ろしている。


 ゆっくりって言われても……。

 けどここでやっぱりって言ったら臭い嗅がれるしな……。


「あのさ、やっぱ一回帰ってまた来てもいい……?」

「え? 帰さないけど」


 和泉は私の腕をしっかりとつかむと、抑揚の消えた声でそう言った。

 まあそうだよね……。

 元々帰してくれる気があるならこんな無茶な提案しないだろうし。


「……わかった。入ろう」


 私が諦めてそう言うと、和泉はようやく手を放してくれた。

 私たち以外誰もいない彼女の家でお風呂に入る。


 これだけで何かの法を犯してるんじゃないかと心配になってくる。

 そういえば服の問題が残ってた……。


「ねぇ麻央。私変えの服とか持ってないんだけど」

「私のを貸すよ」

「わかった……」


 そこまで言うならもういいや。

 多分和泉の中でお風呂に入るのは決定事項だし、ここで私が何か言っても変わらない。

 それだったらさっさとお風呂に入って臭いを落とせた方がいい。


「わかった。じゃあ入ろうか」

「お湯はシャワー浴びながら張ればいいよね?」

「いいよ、それで」

「私着替えとってくるから、先に入ってて」


 独り脱衣所に残されると、ドアの向こうから和泉の足音が遠ざかっていくのがわかる。

 脱がないとなんだよね……。

 ブレザーを玄関に置いたままにしていたバッグの上に置き、ワイシャツのボタンに手を掛けた時点で本当に入っていいんだろうかと言う思いが湧き出てくる。


 確かに、小学生だった頃和泉と一緒に入ったことはあるし、一緒に寝たこともあるけど……。

 あの時はお互いただの友達だったし……。

 和泉がいいって言ってるしいいんだろうけど……。

 和泉私の裸見るんだよね……。

 絶対私よりスタイルいいじゃん……。


 鏡に映る中途半端にボタンが外れ素肌が露わになった状態の私を見ると、つい裸になった和泉の姿を想像してしまう。

 小学校の時は大して私と変わらなかったはずなのに……。


 高校で再会したらモデルみたいになっていて、時代が時代なら和泉をモチーフにした大理石彫刻が出来ていてもおかしくないんじゃないかと思ってしまう。

 そんなことを考えながら一つのボタンを外すのに普段の何倍も時間をかけていると、私の目の前のドアが急に開いた。


「え?」


 喉がひくりと震える。


 私がかすれた声を漏らしたときには、もう遅かった。

 目の前には、ためらいもなく一糸纏わぬ姿の和泉が立っている。


「何してるの? 早く入らないと風邪ひくよ」


 彼女は、裸のまま何でもないように言う。

 いや、わかってる。

 私より和泉のがスタイルいいのは想定通りだったし、私の想像はなにも間違ってなかった。


 けど、目の前で世界史の教科書に載っている彫刻のような身体を見せつけられると、無意識に自分の身体と比較してしまう。

 身体を少し丸めて一歩だけ和泉と距離を取ったのに、彼女は私の考えを知ってか知らずがすぐに距離を詰める。

 和泉は残っていたボタンを手早く外すといつも通りの声で「背筋伸ばして」と言ってきた。


 言われるままに背筋を伸ばすと、するりと指がシャツの端にかかる。

 慣れた動作でボタンが外され、ひんやりとした空気が肌に触れた。

 そのままさも当たり前のようにスカートに手が伸ばされたので、慌てて私は言った。


「下は自分で脱げるから」

「わかった」


 和泉はそう言うと、私の体を値踏みするようにじっと見つめてきた。

 脱ぎづらい……。

 片手で胸を隠しながらなんとかスカートのチャックを下ろすと、彼女は言った。


「綺麗なんだから隠さなくてもいいのに」


 何のことかわからず、私が何も言えずに和泉の顔を見ていると、彼女は私の鎖骨をなぞりながら言った。


「私は、莉那の裸、好きだよ。すごく綺麗」

「ありが、とう」


 こんな時なんて返事をしたらいいのかわからずそのまま全部の服を脱ぐと、和泉は完全に裸になった私を見ながら言った。


「やっぱり綺麗だよ。私以外の誰にも見せないでね」

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