第8話「そんなに好きって言わな過ぎですか?」

 翌日の昼休み。

 教室には、窓から差し込む柔らかな日差しが広がり、カレーの香ばしい匂いと弁当の甘い卵焼きの香りが入り混じっていた。

 スプーンが容器に当たる音に交じって、廊下の向こうから響く購買の呼び込みの声や、廊下を走る生徒の足音が微かに聞こえた。

 私は窓際の席でお弁当のふたを開けながら、正面に座る千鶴ちづるをちらりと見た。


「あのさ、千鶴は恋人に好きって言ってる?」


 なるべく何気ないふうを装って尋ねたが、自分でも少し声がこわばっているのがわかった。

 普段なにか訊くときはこんな緊張することはないのに、目が泳いでしまう。


「それって莉那りなが聞く側なの? 私じゃなくて?」


 千鶴は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべると、すぐに冗談めかしてそう言うと自分を指さした。

 まあ私の印象から考えるとおっしゃる通りで、以外に言葉は見つからない。

 けど千鶴も誰かと付き合ったことがあるはずだし、言えないはずはない。


「そうだね、なんか付き合ったら好きって言ってるのかなって思ったら気になっちゃって」


 付き合ってまだ数日しか経っていないのに、和泉いずみは日に何度も「好き」と言ってくる。

 それこそおやすみとかおはようとか、日常の挨拶なんじゃないかと私が勘違いするくらい。


 和泉の『好き』が耳に馴染むたびに、自分の心がふわりと揺れるような気がした。

 でも、それが何の感情なのかはまだわからない

 和泉は私が言わないことを気にしているみたいだし、そもそも普通は付き合ったら言うものなの?


 ただいきなりめちゃくちゃな回数『好き』と言うのは不自然すぎるし、しないけど。

 常識的な回数の範囲内でなら言ってもいい。


「私は多分結構言う方かな。まあ言わない理由がないし、好きだと思ったら言ってる気がする」


 千鶴は少し恥ずかしそうにパックの紅茶に口を付けながらそう言った。

 もしかしたら和泉も千鶴と同じようなタイプなのかもしれない。

 そう納得しかけてしまったけど、多分違う。


 和泉が『好き』と言ってくれた瞬間を思い返す。

 キスをしているとき、別れ際、ふとした瞬間……。

 とても思ったから言っているようには思えなかった。


「で、莉那は? 私ばっか話してるけど、ちゃんと答えてくれるよね?」

「いや、私はあんまり言ってなくて……」


 千鶴は大分期待したように訊いてくるが、多分私の答えは彼女を満足させるようなものじゃない。

 和泉に『莉那は私に好きって言ってくれないよね』と言われて思い返したけど、和泉の言う通り彼女に対して好きと言った記憶は全くと言っていいほどない。

 ただ全くと言うのもなんか変な気がしたし、適当に誤魔化すと千鶴は少しつまらなそうにため息を吐くと言った。


「まー遊びならいいんじゃないの? 莉那のことだしどうせ遊びでしょ?」

「あー。うんまあ遊びならいいよね……」


 千鶴は端からこの話題にあまり興味がなかったのか、普段よりも大分投げやりな感じで話していた。

 ただ私の返事を聞くと千鶴は驚いたように飲みかけの紅茶を置いた。

 彼女の目にはさっきまでなかった好奇心が映っていた。


「え、莉那もしかして本気なの?」

「なに、そんなに驚くこと?」


 千鶴のことを睨みつけるが、彼女は私の視線も気にせずさっきとは全く違う笑顔になると言った。


「いやだって莉那って今まで本気で誰かのこと好きになったことなさそうだったし」

「まあそうだけどさ……」


 誰かに本気で惹かれたことはおろか、軽い気持ちですら好きになったこともないけど……。

 告白されたことがないと言うと嘘になるけど、どうせ全員私が遊んでるから自分も付き合えるんじゃないかという気持ちで告白してくるだけだし。

 そういう人とは付き合うとか考えずに断っていた。


 どうせ相手も私を好きで告白してるわけじゃないから、質の良いナンパみたいなものでしょ。

 振ったらすぐ諦めてくれるし。

 あ、けど今更だけど和泉もその類か……。

 一位という甘い言葉に惹かれただけで、多分そういうのがなければ彼女とも付き合ってなかったと思う。


「で、莉那を惚れさせた人ってどんな人? 写真とかないの?」


 千鶴はよっぽど興味があるのか、身を乗り出して訊いてきた。

 別に惚れたわけじゃないけど、姿が見たいなら私の背後にいる人を見てもらえば見れますよ。

 千鶴を驚かせるためにそう言ってみようかと思ったけれど、絶対に碌なことにならない。


 下手したら和泉に直接聞きに行きかねないし、ここで二人一緒に公開尋問なんか始まったら私の胃と心臓が持たないと思う。


「いや、ないない……。それに」

「それに? なに?」

「いや、何でもない」


 私は愛想笑いで誤魔化すと、「それよりさー」と別の話題を切り出した。

 クリスマス終わったら別れるから写真なんて持ってても意味がないなんて言えるわけない。

 どうせ捨てるならもともと撮らないほうがいいし。


 和泉の姿が見たいならお母さんに言えば写真の一枚や二枚簡単に出てくると思う。

 まあ小学校の頃の和泉の写真だけど。


 千鶴と取り留めのないことを話し始めたが、さっきから背中に向けられていた視線が刺さっているような気がして集中できない。

 直接見たわけじゃないけど、どうせ和泉だろう。

 ちょっと声大きすぎたかな……。

 和泉も友達とごはん食べてるみたいだし油断した。


 和泉は大分ご立腹なのか、視線にプラスしてさっきからスマホの通知が止まる気配はない。

 確認してないけど、どうせ全部和泉からだろう。

 彼女からと思われる視線を背中に浴びながら、私は話題を昨日のドラマに逸らす。

 これだったら適当に相槌を打ってれば、千鶴がずっと話してくれるはずだ。


 ただ、適当に相槌を打つ間も、さっきの話題が脳裏にちらつく。

 それにしても、私は和泉のことが好きなんだろうか。

 付き合った以上そういうことを言った方がいいのはわかる。

 一方で別れることがほぼ確定的なのに言う意味があるのかとも思ってしまう。


 ただまあ恋人の良さを教えるならやっぱり言った方がいいだろうし。

 だめだ、だんだんわからなくなってきた。

 これ以上考えないようにしよう。


 一つ確かなのは、和泉が『好き』と囁くたびに、私は心のどこかで温かさを感じていたこと。

 もちろんウザいと思うこともあった。

 和泉は元々可愛いからウザいを差し引いても可愛いが残っただけかもしれないけど。


「莉那?」

「ごめん。なんだっけ?」

「さっきの話さ、莉那あんまり好きって言ってない言ったじゃん」

「言ったね」


 私が考え込んでる間に、いつの間にか話が戻っていたらしい。

 その話は今は……。と思ったけれどいつの間にか和泉からの視線は消えていた。

 後ろを振り返っても和泉が座っていたと思われる席はすでに空っぽになっていたし、千鶴の話に乗ることにした。


「本当に好きなら、しつこいくらい言った方がいいと思うよ」

「そうだよね……」

「昔、言わなさすぎて振られたことあるんだよね。だから、今はちゃんと言おうって思ってる」

「そう、なんだ……」

「『好かれてるかわからなくなった』だって」


 千鶴はご丁寧に彼女を振った元恋人の真似をして言うと、少し悲しそうな顔をした。

 彼女の中でその理由で振られたのがよっぽど記憶に残っているんだと思う。

 きっと後悔として。


「だから、まあ多分積極的に言うタイプのが長続きするし、言った方が言わないよりいいと思うよ」


 千鶴の言葉が、胸の奥に引っかかる。

 好きかわからないのに好きと言うのは変だと思ってた。

 でも、千鶴みたいに何も言わないままでいたら――気づいた時には手遅れ、なんてことになるの?


「その言わないよりってさ……。やっぱ好きかわからなくても言った方がいいよね?」

「え? 結局今付き合ってる人も遊びなの?」


 千鶴は首を傾げながらそう尋ねてきた。

 まあそうなるのもわかるけど、遊びかどうかは今はそんなに大事じゃない。

 強いて言えば一位を取るためなら本気だ。

 私の方が劣勢な気もするけど。


「いや多分遊びではないけど、私が好きなのかわからないって言うか。けどその人はたくさん言ってくれるし……」


 自分で言っていて、どこか釈然としなかった。好きだから言っているのなら、私も言うべきなのかもしれない。

 でも、好きかどうかわからないのに言うのは、言葉の重みを失わせる気がして怖い。

 じゃあ、私はどうしたいんだろう。


「あーまあ、少しでも好きだと思ったら言っていいと思うけど。向こうも好きだからこそ好きって言うんだろうし。莉那のことだし相手が遊びなら、それくらい察するでしょ」

「……多分ね」


 千鶴の言った、「好きだからこそ好きって言う」という言葉が張り付いて、気のない返事をするのが精いっぱいだった。

 確かに遊びで好きって言われれば態度とかからなんとなくわかるとは思う。

 そして和泉からあんまり遊ばれているような感じはしなかった。


 けどそれだと、私に好き好き言ってきた和泉って……。

 言葉が頭の中で絡まる。


 なんで、なんでそんなに簡単に言えるんだろう。私は、ただ唇を噛んだ。

 私と今まで接点なんてなかったのに。


 私が会わなくしてから、高校入ってからもちゃんと距離置いてくれてたじゃん。

 いやそれよりも、好きだったらなんでわざわざクリスマスまでという期限を決めたんだろう。

 わからないことが多すぎる。


 もし和泉が本気なら、私は軽々しく「好き」なんて言えない。

 でも、本気じゃないなら――そもそも、キスをされたとき、抵抗していたはずだ。

 けれど、今ではもう自然と受け入れてしまっている。


 それはつまり、私は和泉のことを――なんて考えたけど、そんなわけない。

 好きかと言われれば嫌いではないけど、嫌いでないことと好きであることは同じではない。

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