2 白い髪
地下鉄の駅をいくつか過ぎて地上に上がると、生暖かい風が頬を撫でた。
頻繁に車が通り過ぎていく。排気ガスの臭いはあまりしないけれど喉に違和感があった。はっきりと分かるほど空気が汚染されているようだ。道の両側には、比較的小さな雑居ビルと商業施設が陣取り合戦をするかのようにひしめき合っている。
音羽は迷いのない足取りで、古びて荒れたコンクリートの歩道を歩いていく。立ち止まった所にネットカフェがあった。
「まさか、入るのか?」
「そうよ。お客を待たせてある」
「大丈夫か? 昨日、あんな事件があったばかりなのに」
「この店はPCの電源をすべて落として営業を続けているの。元々、コミックスやダーツ、ビリヤードなんかがメインの店舗だから、それでもやっていける」
重いガラスドアを押すと、いくつもの小さなカウベルが乾いた音を鳴らした。まるで喫茶店だな、と祐司は思った。
音羽は自動受付機を使い、祐司は新たに会員証を作った。
店内の様子は、祐司が働いていた所とよく似ていた。黒やブラウンなどの落ち着いた色で統一された床、壁、インテリアを、天井に取りつけられた電球色の照明が柔らかく浮かび上がらせている。
BGMは鳴っていない。しん、と耳が詰まったように感じられる静寂の中、音羽に続いて通路を奥へと進んだ。
二人用の個室のドアを音羽がノックした。少し変わったリズムだ。何かの暗号なのだろうか。薄く開いたドアの隙間から、怯えた小動物のような目をした男が音羽を覗き見た。その視線が祐司の方を向いた。
「誰だ、そいつは」
「婚約者」
音羽にそう言われて、祐司は少し焦った。了承したつもりはない。
「信用できるのか」
「あなたよりは」
男は渋々という様子で二人を部屋に入れると、すぐさま鍵をかけて手を差し出した。
「慌てないで。ちゃんと持ってきたから」
神経質そうに頷いて、男は懐から封筒を取り出した。音羽が切手ほどのサイズのプラスチックケースを指先で開くと、男は目を細めてそこに入っている小型メモリを凝視した。
取引が終わるなりさっさと部屋を出ようとする男に、音羽は声をかけた。
「中身を試さなくていいの?」
「冗談はやめてくれ」
音羽は口元に笑みを浮かべた。あなたにそんな度胸がない事は分かっている、とでも言うように。
「自己紹介ぐらいしましょうよ。これからお付き合いが始まるんだから」
音羽は祐司の方を向いた。
「え? ああ、僕は、鳴沢祐司です」
「
男は小さな声で早口にそう言って目を逸らした。
「最近はこんな部屋があるのね。しっかりとした防音で、しかも鍵がかかる。広いマットも。まるで、何かを誘っているみたい」
音羽がそう言うと、蚤跳の目は落ち着きなく動いた。
浴衣のように合わされた音羽の胸元に視線を流した蚤跳の頬が、細かく震えた。
「冗談はやめてくれ、とは言わないのね」
つまらなそうに音羽が呟いた。
ふいに、蚤跳が口元だけで笑った。
「面白いものを見せてやろうか」
蚤跳のスマホの画面が音羽に向けられた。祐司からは見えない。
ほどなく、女の悲痛な叫び声が繰り返し聞こえ始めた。子供、とまではいかないが、かなり若い感じがした。音羽は眉一つ動かさないで画面を見つめている。
「魅力的な女の子だろ? それに、流されている涙は演技には見えない」
蚤跳は少し興奮気味だった。
「ずいぶんレアなものを持っているのね」音羽の声は静かだ。「合法のルートでは流通していないはずなんだけど」
「これをネットに流すのは簡単だ。あんまり俺をからかうのはやめた方がいい」
音羽は一つ、息をついた。
「安く見られたものね。なんでもかんでもネットに流すと脅せば言う事を聞かせられるとでも思っているの?」音羽は蚤跳の目を真っ直ぐに見つめた「あなた。どういう人たちがそれを制作したか、分かってる?」
蚤跳は目を合わせようとしない。
「もう一つ言っておく。髪の色がすべて抜けて白くなるほど私を絶望させた男は、もうこの世にいない」蚤跳は、はっきりと分かるぐらいに体を震わせた。「無闇に他人の過去を刺激しない事をお勧めするわ」
*
ネットカフェを出た後、音羽はしばらく口を開かなかった。祐司も無理に問いかける事はしなかった。
小さな橋の上に出た。音羽は水が枯れてコンクリートが剥き出しになった川底を見下ろしながら、ぽつり、と呟いた。
「訊かないのね、さっきの動画は何だ、って」
祐司は音羽と並んだ。視線を下げる。二匹の犬にリードを引かれて息を切らしている中年男が橋の下を通り過ぎた。
「それが君にとって忘れたい過去なら、僕は詮索しない」祐司は音羽の方を向いた。俯いた横顔に静かに語りかける。「たとえ、婚約者でも」
音羽の口元に寂しい笑みが広がった。瞳が潤んでいる。橋の上を渡る風が音羽の艶やかな白い髪を揺らして、香木のような匂いを運んできた。
祐司は音羽の肩に優しく手を置いて、ゆっくりと言葉を継いだ。
「音羽。さっきのは君にぶら下がっているとんでもなく重い荷物の一つなんだろうね。そしてその影は、どこまでも君についてくるのかもしれない。でも、そんな副次的な要素じゃなくて、もっと本質的な、透き通った君そのものを僕は知りたいんだ」
一族をまとめる当主として。髪が白くなるほどの辛い過去を引きずった一人の女として。音羽は必死に生きてきたに違いない。初めて会った時はその身に纏った威厳に圧倒されたが、落ち着いて接してみれば自分と歳の変わらない普通の女の子なのだという事が分かる。そんな音羽が重い荷物をいくつも背負っているのなら。
祐司は、あどけなさの残る音羽の顔を改めて見つめた。
結婚だのなんだのといった先の事は分からないけれど、音羽という人物を傍で感じて理解したい。そういう思いが、祐司の心に静かに広がっていった。
「本当に私の事を知りたいと思ってくれるの? 私はとんでもないバケモノかもしれないのに」
祐司は音羽の肩に置いた手にそっと力を込めて身を寄せた。温もりが伝わってきた。
「最初はね、得体が知れなくて、ちょっと怖かった」
凄く恐かった。
「正直ね。やっぱり、そう見えるんだ」
音羽の寂しげな顔が、すぐ目の前にある。
「最初は、だよ。今は違う」
「そうなの?」
音羽は少しだけ、表情を明るくした。
「弔律の話を聞かされた時は、あまりの怪しさに怯んだ。当主だ、と言われて、ますます腰が引けた。それなのに、結婚してくれの圧力がすごい。反発の方が強かった」
「そうよね。私、逸材を見つけて焦っていたのかもしれない。祐司の気持ちを考えなかった。ごめんなさい」
「いいんだ。僕にはそれだけの価値があると思ってくれた、という事だろ」
音羽は、真剣な顔で黙って頷いた。
「音羽、君は当主としてだけではなくて、たくさんの荷物を背負っているようだね。そのうちの一つでも二つでも、持ってあげたくなった」
「それじゃあ……」
「期待に応えられるかどうかは分からないよ。なにせ、自他共に認めるダメ男だからね」
音羽は花が咲くように笑顔を広げた。祐司は眩しさに目を逸らした。
「修行は厳しいわよ」
「え、修行があるのか?」
祐司は思わず音羽の肩から手を放した。
「あたりまえじゃない」
屈託なく笑いながら、音羽は祐司の胸を叩いた。笑い声を聞いたのは、それが初めてだった。
「僕らはお互いの事をほとんど知らない。だって、昨日出会ったばかりだから。でも僕は、短い時間に過ぎないけども共に過ごした事によって、音羽の一番、芯の部分は掴めたという手応えを感じている」
「私も。祐司を祐司たらしめている部分が見えた気がする」
祐司と音羽は真っ直ぐに向き合って互いを見つめた。
照れたように、どちらも視線を外した。
「というわけで、さっそくだけど」祐司はなるべく冷静な声を出そうと努力した。「仕事の話をしようか、音羽」
「そうね」
「まず、蚤跳に渡したメモリーカード。あれは何だ?」
「いくつかの弔律を記録した音声データよ」
「用途は?」
「あの人は、ゲームソフトメーカーにサウンドデザイナーとして勤めている」
「おいおい、まさか」
「そう、ゲームに仕込まれる。でも、プレイヤーを凶暴にしたりはしない。楽しい気分を少し盛り上げてあげるだけ。そのように精密に調整されている」
「なんでそんな事を?」
「どうせお金と時間を使って遊ぶなら楽しい方がいいでしょ? 現代人は疲れている。たとえ僅かでも、それをほぐしてあげたいの」
「メーカーは自社の製品に人気が出る。お客さんは楽しい」
「そういう事よ。ゲーム自体がちゃんと面白ければそんな事しなくてもいいのかもしれないけど」
ご当主さまは、サラっと辛辣なことをおっしゃる。
「優れたゲームを作りだすのは簡単じゃないと思うよ」
「だから弔律師の出番、というわけなの」
「弔律を使えば、クソゲーでもそれなりに遊べてしまうのか」
「さすがにそのレベルだと厳しい。クソゲーはクソだもの」
うわ。
「映画やドラマには仕込まないのか?」
「どう思う?」
音羽は眉を上げて、とぼけたような顔をした。
「こんなものの何が面白いんだろう、という作品に妙に人気があって不思議に思う事があるんだけど」
「そうか、祐司には弔律が効かないから」
含み笑いのような表情を浮かべながら、音羽は頷いた。詳しくは訊かないでおこう。
「蚤跳はゲルト・フェアディーネンの担当なのか」
「違う。会社は同じだけど別のタイトルよ。家庭用ゲーム機のチームに所属しているし。あれには関係していないはず」
「蚤跳の他にスキゼニーで君が取り引きしている人はいないのか」
穏やかだった音羽の顔に、ふいに薄く影が差したように祐司には感じられた。何か事情がありそうだ。
「いない。取り引きをしている人は」
音羽の様子を不審に思いながらも、祐司は一つの可能性を挙げた。
「蚤跳から話を聞いた誰かが、君以外の弔律師と接触して起こした事件じゃないか」
「あの男は小心者だから。誰かに話したら組織の者が会いに行く、と言ったら、慌てて頷いていた。まず、その線はない」
音羽に睨まれて蚤跳が顔を引きつらせている場面が目に浮かぶような気がして、祐司はなんだかちょっとかわいそうに思えた。
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