2日目、木曜日午前 〈重い荷物〉

1 弱気なレストラン

 目の前に三階建てのビルがある。敷地面積で言うなら、郊外型の大きめのコンビニぐらいの感じだろうか。

 焼けたアスファルトに陽炎の立ち上るメインストリートから二本、裏に入った広めの路地に面している。人通りは多くないが、さびれているという印象はない。古い民家やビルなどが雑多に建ち並んでいた。

 ビルから突き出した縦長の看板によると、一階はイタリアンのレストランで二階はバーだ。三階の表記はない。住居だろうか。

 建物の左端にコンクリート製の狭い階段がある。その隣にイタリア国旗と同じ配色の布製のシェードが斜めに突き出していて、店の入り口である事を示していた。

 ほどなく、階段を上ってくる人影が見えた。音羽だ。地下にも何かあるようだ。

 音羽からの呼び出しなど無視してもよかった。祐司に、それに応じる義務はないのだから。でも、悲しみの色を浮かべた思い詰めたような音羽の瞳が瞼の裏にちらついて、一晩中、離れなかった。翌日の朝、祐司はメッセージに記されていた場所へと向かった。

「来てくれてありがとう、祐司。お腹すいてない?」

 昼飯にはまだ少し早い時間だった。だが、昨夜ゆうべよく眠れなかったせいで気分が悪かったので、朝食を抜いた。だから腹は減っていた。

 音羽の案内で一階のイタリアンレストランに入った。

「やあ、音羽。恋人ができたのか?」

 陽気に声をかけてきたエプロン姿の男は、裕司の方に視線を向けると眉を寄せた。裕司も、あ、と声を漏らした。

「君は昨日の夕方、商店街で少しお話をした人だよね?」

 ネットカフェでの事件の後、駅に向かう祐司に声をかけてきた男だった。

「ええ、そうですね。音羽の知りあいなんですか?」

「君こそ音羽の彼氏だったとは。すごい偶然だ」

「いや、彼氏、というわけじゃないんですが」

 祐司は慌てて手を振った。

「音羽、シャイな青年だね」

「そうなの。鳴沢祐司くんよ」

 音羽は祐司とだけ話している時よりも、安心したような明るさを見せている。この男を信頼しているのだろう。だが祐司は、二人がかりで強引に恋人だという事にされそうな気配を感じて、少し腰が引けた。

「僕は音羽の母親の妹の夫だ。要するに叔父だね。恵神伸介しんすけという。音羽のお父さんと同じく、婿養子だよ」

 当主の家に入った、そういう事か。もし音羽と結婚したら、僕も婿養子として恵神姓になるのか。祐司は、なんとなくそんな事を思った。

「レストランとバーを両方、経営されてるんですか」

「そうだよ。音羽のおかげで繁盛している」

 確かに、ピーク時間ではないはずなのに、レストランの席はほとんど埋っている。表通りでさえ、こんなに盛況になる事は珍しいのではないだろうか。

 だが、客はすべてカップルだ。看板娘として音羽が手伝っているのが人気の理由なら、男性客で溢れかえっていそうに思えるのに。

「さあ、こっちへ。奥の席でいいね?」

 窓際はお客さんの為に置いておきたいのだろう。祐司に異存はなかった。伸介に導かれるままに席についた。

「なあ、音羽。BGMは変えた方がいいか? それとも、そのままの方が都合がいいのかな?」

 意味ありげに伸介がウィンクした。

「変えなくていいよ、伸介さん」

「ほう、そういう事か。頑張れよ。恵神家は安泰だな」

「音羽、なんの話?」

「気にしないで。それについては、あとで話す」

 祐司は天井に設置されたスピーカーから流れてくる音楽に耳を傾けた。

「オーケストラの曲だね。聴いた事のないものだけど」

「このレストランで流れている曲は、すべて伸介さんのオリジナルよ。元々、音楽家を目指していた人なの」

「そうなんだ。でも、作曲はともかく演奏はどうしたんだ。プロのオケを雇ったのか」

「そうじゃない。市販されているオーケストラ音源を使った打ち込みよ。いわゆるDTM。私が少しだけ手を加えてるけど」

 料理は本格的なものだった。専門家ではない祐司でさえ、レベルの高さを感じた。それなのに、客たちの回転は妙に早かった。もっとゆっくり味わえばいいのに。カップルたちは何かに急かされるように、そわそわと席を立っていく。

 音羽はパスタとピザとリゾットとグラタンを軽々と腹に収めた。デザートはチョコブラウニーとバニラアイス、そしてプリンアラモードだ。見かけによらず、なかなかの食欲だ。頭を使うと腹が減ると聞いた事がある。弔律はかなりの神経を使うのかもしれない。食事代は二人とも請求されなかった。

「お店に出たりするのか?」

「時々ね。仕事を持っているから、毎日というわけにはいかないけど」

 秘術を伝承する一族のご当主さまも働くようだ。

「君がいない時に来ちゃった男は残念がるだろうね」

「どうして?」

「看板娘だろ」

「そんな事はない。私目当てのお客さんなんていない」

 祐司は食後の珈琲を飲む手を止めて音羽を真っ直ぐに見つめた。

「ねえ、音羽。こんな事を言うと誤解されて余計に結婚を迫られそうだけど。君は女の子としてすごく魅力的だよ? きっと目当ての客がいるよ」

 音羽は驚いたように顔を上げた。そして目を伏せた。口元から柔らかな笑みが広がっていく。

「ありがとう、祐司。素直に嬉しい」

 音羽の微笑みは、すべての辛さを忘れさせてくれそうなほどに温かなものだった。こんな顔もできるんじゃないか。祐司はなぜか、ほっとした。そんな音羽に冷たい目をさせてしまう何者かの存在が気になった。

 食事を楽しんだ祐司と音羽は、ビルの左端にある地下へと続く階段を下りた。突き当たりの踊り場を左へぐるりとターンして、下りきった所で左、つまり店のある側を向くと男子トイレの入り口が見えた。その左隣は女子トイレだ。さらにその奥に、灰色に塗られた金属製のドアがあった。

「ここが私の部屋よ」

 軽い金属の軋みと共に、重厚な扉が手前に開いた。

 八畳間ぐらいの広さだろうか。奥に向かって細長い形をしている。壁はコンクリートの打ちっぱなしだ。壁紙はない。左側にシンプルな装飾のベッドがあって、その右隣で大きな机が場所を取っている。祐司にはよく分からない機材が山積みだ。

 正面奥にはドアがある。血を塗りつけたように赤くて不気味だ。祐司はその向こう側から流れてくる気配が、なぜか心の深い所を引っ掻くのを感じた。だがもちろん、開けて見せろ、だなんて、いきなり言えるはずもない。そのうち見せてもらう機会もあるだろう。

 赤いドアの右側にはクローゼットや物置棚などが並んでいる。右の壁際にあるのは、よく使い込まれた感じのするアップライトピアノだ。自然の木目が活かされていて、優しい温もりを感じさた。

 室内には残り香のようなものが漂い、満ちていた。それは匂いなのか、具体的に何かの物質なのか、あるいは氣のごときものなのかは判然としない。だが、紛れもなく音羽の部屋であるという事を、強く意識させられた。

 祐司のイメージする女の子の部屋とは、ずいぶん趣が異なっていた。普通、女の子の部屋はもっと華やかなものではないだろうか。入った事はないけれど。あまりにも機能的であり、悪くいえば殺風景だった。

「机の上に積んである機材は何なの?」

 正面には大きなモニターが二面あり、その手前に音楽用とPC用のキーボードが前後に並べて置いてある。左右には、様々な色のLEDや液晶パネル、そしてスイッチとノブなどがびっしりと並んだ、金属製の黒くて薄い箱が何段にも積み上がっていた。祐司にはよく分からないが、おそらく、シンセサイザーやエフェクターの類いだろう。

「弔律を調合する為のDTM環境よ。昔はいわゆる生楽器で演奏していたけど、今はコンピューターであらかじめ作っておく事ができる。もちろん、それだけじゃ細かい制御はできないから、リアルタイムに音を変化させられるプログラムも組んだ」

「自分でスマホのプログラムを作ったのか」

「簡単よ。その為の本がたくさん出てるしネットにも情報はある。AIを活用すれば効率よくコーディングできるから、昔ほど大変じゃないの。公式ストアには大量のフリーアプリがあるでしょ? 個人でアプリを自作する人は少なくない」

 祐司のイメージしていた秘術を守り続ける闇の一族とは、ずいぶん趣が違う。

「そうかもしれないけど。僕には想像もつかないよ」

「弔律ってね、IT技術との親和性が高いの。音は物理現象だから科学の領分でしょ」

 そのせいだろうか。魔法使いが鍋を掻き回しているというよりは、マッドサイエンティストの実験室を彷彿とさせる雰囲気があった。

「まさに、秘密基地だね」

「そうね。私がここに住み始めて以来、人を招いたのは、あなたで二人目だし」

 もう一人については訊かない方が良さそうに思えた。

「腰に下げてる白い笛は弔律に使わないのか」

「これは緊急用。普段はこの部屋で組み上げた弔律を使用する」

「そこにあるピアノでも弔律を発動できたりするのかな」

「このピアノは特別なものなの。触らないでね、何が起るか分からない」

「物騒だな」

「三代前の当主は技術者として楽器メーカーに勤めていた。恵神家の英知と近代科学の粋が詰め込まれている、らしい」

「使った事はないんだね」

「怖くて使えない」

 音羽は、静かな笑顔を見せた。

 祐司は部屋を見回した。秘密の作業を黙々とこなすのにちょうどよさそうな環境に思えた。

「いい部屋を見つけたね」

 赤いドアは気になるが。

「そう。ここで何があっても、誰も気づかない」

 音羽は祐司を見つめた。瞳が揺れている。

「何があるんだよ」

 祐司は少し動揺した。

「何があったら、嬉しい?」

 音羽は祐司に身を寄せて上目遣いに見つめた。甘い匂いが漂ってくる。音羽の体臭だろうか。

 スピーカーから何やら音が鳴り始めた。

「今、この部屋には私たちしかいない。二人きり」音羽は、ちらりとベッドに視線を送った。「何が起きても、誰にも分からない」

「スピーカーから鳴らしてるのって、弔律なのか?」

「さあ、どうかしら」

 花か昆虫でも観察するように、音羽は祐司をじっと見つめている。

「どうかしたのか、音羽」

 音羽は、ふ、と息を吐いて、音を止めた。

「間違いない。あなたの素質は本物ね」

「もしかして、性欲を煽る弔律を放って試したのか。僕が君に襲いかかるかどうか」

「そうよ」

「軽く言わないでくれ。もし僕が弔律に反応してしまったら、君はどんな目に遭うが分からないんだぞ。バカな事をするな」

 勢いに押されたように、音羽は微かに動揺を見せた。左手の拳を握っている。癖だろうか。

「私は当主として、自分の夫となるかもしれない人物の能力を確かめる義務がある」

「だからって、自分を危険に晒すな」

「心配してくれるの?」

「あたりまえだ。それに、弔律に操られて、自分の意思でもないのに君を抱きたくない」

「弔律に操られていないのなら、抱きたい?」

「え? あー、そうじゃない」いや、そうなのかな。「ま、まあ、自分自身でそういう気持ちになったなら、その時は」

「その時は?」

 音羽の瞳に妖しい光が灯った。なし崩し的に結婚に持ち込む作戦か?

「いや、あの……」

 音羽は、ふいに笑顔を見せた。

「何だよ」

「やっぱり、あなたは強い」

 音羽は、両手を広げてその場でクルリと回ってみせた。

「元は倉庫だった所を無料で貸してもらってるの。光熱費込みで。この街に出て来るにあたってもいろいろと伸介さんには便宜を図ってもらった。その代わり、お店が繁盛するように手伝ってる」

「やっぱり看板娘か」

「そうじゃない」

「ところでさ、昨日、どうして僕が勤めているネットカフェに来たんだ? まるで、弔律で誰かが暴走するのを予想していたみたいに」

「予想ではなく、感じたの」

「それも、弔律師の能力の一つか」

「分からない。強く導かれるように、あの店に入った」

「僕を見つけたのは、偶然?」

「どうかしら。弔律以外にも何かを感じた気がするけど。はっきりしないの」

 その時、呻き声のようなものが聞こえてきた。

「何か、声が聞こえたね」

 祐司がそう言うと、音羽は桜色の小さな唇の前に人差し指を立てた。右の壁に近づいていく。ピアノの隣だ。手招きされた。耳を澄ます。

 女の声だ。苦し気に喉から絞り出されている。

「この隣って、女子トイレだよね?」

 祐司は音羽の耳元で囁いた。

「そうよ。個室と接している」

 音羽の声が至近距離から祐司の耳たぶをくすぐった。

 壁の向こうから男の声も聞こえ始めた。

「壁、薄いんだね」

「通常の半分以下。しかも密度も低い。スカスカらしいわ」

 女子トイレの個室の中から、男女が濃密な時間を共にしている気配が伝わってきた。

 なぜよりによって音羽の部屋の隣でそんな事が行われているのだろう。祐司は隣に立っている音羽を見た。ニヤけたりはしていない。ましてや、興奮している様子もない。ただ真剣に、耳を傾けている。

 やがて大きな波が男女をさらい、静かになった。

 音羽は納得したように頷いた。

「一応、順調ね」

「何が?」

「言ったでしょ、弔律は、心に秘めた思いを煽る事もできる、と」

「よく分からないんだけど」

「隣にいた二人は、伸介さんが経営する店に来ていたお客さんなの」

「まさか、店のBGMに弔律を?」

 音羽は口元に薄く笑みを浮かべた。

「このレストランで食事をしたカップルは想いを遂げられる、というのがコンセプトなの」

 なんという便利な……もとい、恐ろしいコンセプトだ。

「それって、なんかまずくないか? 犯罪とまでは言わないけど」

「少し気分を盛り上げてあげる、という程度の効果しか持たせていない。そっち方面の雑誌を一緒に見るのと大差ない感じかな」

 女神さまもそういうものを見たりするのだろうか、と少し思った。

「だったら、それなりの施設に行って見れば済む話なんじゃないか?」

「それができるところまで既に進んでいるカップルならね。でも、本当は結ばれたいのに、あと一歩を踏み出せないでいる弱気な恋人たちもいる。一緒に食事をするのが精一杯、みたいな。その背中を弔律でそっと押してあげるの。あとは本人たち次第。それより先を強要したりはしない」

「レストランのコンセプトを知らないで入店する人もいるんじゃないか。望まないのにそういう事になっちゃうのはよくないよね」

「大丈夫。本気で大人のお付き合いをしたいと真摯に願う気持ちを互いに持っているカップルにしか効果を発揮しないようにしてあるから。それに、全席予約制なの。そして利用条件が設定されている。既に配偶者が居る、なんていうのは論外として、フリー同士であっても、利用者両名の意思確認が必須。同席する相手と真剣に誠実にお付き合いする気持ちはありますか、ってね」

 音羽は青いスマホを取りだして、予約サイトの画面を祐司に見せた。

「レストランを利用後に結婚まで進んだカップルの、体験記事が載ってるんだね」

「効用を明記はしないけど、どういう人たちの利用を想定しているかを知ってもらう為なの。このサービスを始めた二年前とは違って、今では口コミでかなり広がっているから、そんな事をしなくてもちゃんと理解している人が予約してくれるんだけど」

「でもちょっと効き過ぎじゃないか。ホテルに行く間も我慢できないで店のトイレで、って事だろ」

「そうね、さっきのは効果が出過ぎてしまった例。たまにある。そこが難しいの。感受性って個人差が大きいから。一応、ここから40メートルぐらい行った所にあるファションホテルまで辿り着けるように調整してるんだけど。不特定多数に完全に狙い通りの効果を発揮させるのは不可能」

「弔律する対象がはっきりしていれば、もっと精密にコントロールできちゃったりするのか?」

「できる。その人物を深く知っているほど、ピンポイントで効果を発揮させられる」

「その力を悪用したくなっちゃったりしないのか」

「悪用?」

「たとえば音羽に好きな男の子ができて、自分に振り向かせたい、とか」

 音羽は口を閉じて俯いた。眉を寄せて床を見つめている。

「ご、ごめん。そんな事を考える奴が、当主になれるわけないよね」

「え? ああ、そうじゃないの。ちょっと、昔の事を思い出しただけ」

 秘術だ当主だ言っても、恋をして悩んだりもする普通の女の子なんだな、と祐司は思った。それにしては少々、反応が強過ぎるような気もしたが。

「ウェイトレスさんとか、従業員の人は大丈夫なのか?」

 祐司は話題を変えた。

「互いにそういう気持ちを持ってる者同士以外にはなんの影響も及ぼさないから、心配いらない」

「ああ、そうか、そうだったね。そうでなきゃ、大変な事になる」

「逆に言えば、従業員同士で芽生えた恋は成就じょうじゅしやすい」

「まあ、それなら問題ないか」

「福利厚生だ、と言って伸介さんは笑う」

 祐司はコンクリートの壁を撫でた。

「弱気な恋人たちの背中を押してあげる、か。なかなかロマンチックな仕事だね」

「他にもやっている。ちょうど今から納品なの。一緒に来て。弔律師の仕事を知ってもらいたいから」

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