第10話
『日本がドクトル・A8の脳の切片の保管場所を変えるらしい』――その噂を聞いた俺は地球の裏側からすっ飛んでアジアの島国に来ていた。否、アジア自体は俺の故郷でもある。大陸の方だが、島国にも住んでいた経験があるので、パスポートのやり取りに時間は掛からなかった。流暢に喋り、ホテルの場所を示せば、にっこりと迎えられる。
大災害からこっち、この国は緩くなっていた。それまでは日本人が殆どを占めていた税関だって、今では南米人や欧州人、そして俺と同じ中国人もいる。日本人の人口が五分の一になったほどの災害だったから、労働力を求めて日本は移民に寛容になった。
今では人口の三分の一程度に回復しているらしい。黒白鳥機関、もとい、児増局のお陰で。収集していた精子や卵子に火の粉が回らなかったのが良かったことだろう。せめてもの。
もっとも俺が提供した『ドクトル・A8直系の精子』と言うのは、随分希少がられていたが、結局それも使われた。それほどまでに追いつめられていたのだ、日本は。未曽有の大災害を被った、この島国は。
自分の知らない自分の子がいると言うのはぞっとしないではないが、了承してのことだった。俺は中継ぎでしかない。中継ぎの凡才でしかない。母の遺伝子が本物なのは鑑定済みだが、俺自身には何の才能もなかった。語学も化学も凡庸。
世界中の言葉を話し、物理や天文学、化学や科学に新しいメスを入れて行った母とは大違いだ。母が俺の年齢の頃にはもう死んでいたが、その際遺している遺言は俺を気遣う物ではなかった。全人類を気遣う偉大なものだった。『不謹慎な恋』計画の失敗予言。そしてそれは事実になっている。十年前、二億四千万分の一の悲劇で。
ホテルに着き、俺は早速仕事道具を入れているアタッシュケースを開いた。この国にも持ち込みやすくなった拳銃。弾はフルメタルジャケット弾。アンダーにケブラーを着込んで、シャツはごく普通の白シャツに。ホルスターを肩に着けて、ジャケットを着れば、俺はもうごく普通の民間人だった。
元々民間人ではあるが、施設でさんざん勉強を詰め込まれた挙句使い物にならないと世に放たれた俺は、裏の仕事で食いつないでいくしかなかった。人殺し、誘拐、傭兵、その他諸々。そんな中でこの国の人間と恋愛関係に陥ったこともある。今は総理大臣まで上り詰めたと言う、琴弾奏だ。
今はこの国にしかない法律、『必要悪法』に関して熱心に議論をしているらしい。『必要悪』、と言うのが黒白鳥機関で育てられていた子供たちであることは俺も知っていた。俺も黒白鳥機関の職員だったからだ。精子提供者と言う立場で関係し、子供たちとも関わって来た。奇形児や精神薄弱で廃棄された子供も見ている。第一期から第四期まで、三年ずつ間を開けて作られた子供たち。
最終的には十二人に達したが、事故で半数以上が死体で見付かったと聞いている。それでも生き残った者だからこそ、『必要悪』なんてラベリングされて探されているのだろう。一人のことは俺が属する組織でも聞いたことがある。絶対の殺し屋。否、すべてを『事故』にしてしまうのだったか。大規模すぎて使い勝手が悪いとぼやかれていたのを思い出す。良いか、奴が仕事中には絶対に近付くなよ。巻き添えを食うことになるからな。
日本にいた目的は様々だった。仕事だったり私事だったり。その私事の最たるものが、俺の遺伝子と母の遺伝子の結合だったが、残念ドクトル・A8ほどの遺伝子は勝手に持ち出せなかった。俺の精子は奏との子供にもならなかったのだ、心から、どうでも良い。
だからこそ今回の運搬を奪取して、今度こそ母と俺の遺伝子を掛け合わせたかった。マザコンの誇大妄想だとからかわれることもあるが、そのための施設は組織にもある。その子供が天才性を発揮すれば、俺もまたただの中継ぎでなかったことが証明される気がしたからだ。
父親の顔は知らないし、誰かは母も教えてくれなかった。ただ、愛した人の子供だからと、俺が隔離されていた施設にはよく遊びに来てくれた。その時受けた薫陶で人並み以上の知識は得られたが、人類離れしたトリッキーな実験を行うのが常の母とは、やはり違っていた。
凡人の自分を今は認めている。しいて言うなら射撃が得意なだけのよくいる殺し屋だと思っている。だからこそ母の遺伝子を継いでいる証明が欲しかった。血が近すぎて拒絶反応が起こるかもしれないが、それでも繰り返せばまた母のような『天才』を生み出すことが出来る気がしていた。母のように。母に会うために。
俺は結局、母の才能にまた会いたいだけなんだろう。そこに自分の遺伝子が入っていても何の曇りも見せない、金の卵を所有したい。だから今回の移動計画の事前タレコミは俺にとってとびっきりのチャンスだった。母を手に入れられる。脳の切片にまでされてしまった母。それでも母には違いないから、遺伝子を得られるだろう。あとはそれを増殖させれば卵子の生成ぐらいできる。
笑っていた母の年を越して二年。やはり女の子が良いのだろうか。それとも『最初』の天才であるアインシュタインに倣って男の方が良いのだろうか。両方作ればいいか。一気に二人の子持ちになることを考えれば、スイス銀行の預金も少し心許ないな。まあいい。それは成功してから考えればいい。
※
そろそろ時間か、と俺はホテルマンにキーを預けて外に出た。外に停めていたドゥカティのレプリカは、俺の名前が
むしろ地肌は黒めなので、もう少し西の民の血のような気もしたが、母は父に関することは一切口を噤んでいた。元々クローンから自然妊娠で子供が生まれるか懐疑的だった連中も、膨れていく母の腹にそれを認めなくてはならなかったらしいとは聞いている。その子供の俺だって、精子採取が出来たのだから子供は作れるだろう。実際作ったのだ。この国で。
奏の元に寄りたい気分もあったが、首相官邸を銃付きで抜けられるとは思っていない。そう言えば先日重役が殺されたと聞いているから、脳を奪取したらこの国を出る前に会って行こうか。少しは慰めになってやれるかもしれない。
自分にそんな感傷があったことにちょっと驚きもしたが、母以外で唯一愛せた女性が奏だった。恋しいと思った人間が奏だった。だが民間では国際結婚は推奨されていなかった時代だった。純潔の日本人は残さなければならない。だからこその裏口が黒白鳥機関だった。
もしも機関が俺と奏の子供を作ってくれていたら、俺もここまで母の遺伝子に拘りはしなかったかもしれない。自分の子供だと慈しめたかもしれない。だが現実は違った。俺の精子は見知らぬ女と、奏の卵子は見知らぬ男と受精させられた。
だが第四期まで、発達した才能を見せる者はいなかった。俺の精子は中継ぎにもならなかったと言うことなのだろう。そのことには多少絶望したりもしたが、過去の話だ。もう十年以上も前の話。俺の子供は天才じゃなかった。母の孫じゃなりえなかった。だから今度はもう一度。今度こそ失敗しないように、俺の子でも母の子であるように。
やっぱり歪んだマザコン気質なのか、と笑った所で、俺はフルフェイスのヘルメットを少し直す。前を走る輸送コンテナに、母がいる。筋繊維一本単位で保管されている母の、脳の切片だ。俺には何も残されなかった母の、形見だ。アルベルト・アジモフ計画のハイエンド。この世に二度と表れないかもしれない天才の脳。
慎重に俺は運転を片手に切り替え、ジャケット下のホルスターから銃を取り出す。マグナムは少し強すぎるかもしれないが、どうせ一筋縄ではいかないだろう。思いながら狙うのは、タイヤだ。高速道路を抜けて速度が落ちたところで、サイレンサーからぱしゅっと音をさせて弾丸を飛び出させる。
案の定タイヤは銃弾を弾き飛ばした。日本政府もバカじゃない、ちゃんと手段は講じていたと言う事だろう。ならば次は後ろの鍵だ。脳自体は内部で固定されているだろうから、飛び出して来ることもあるまい。ぱしゅっともう一発。鍵に当たったが、開かない。こっちも合金使ってるのか。車を止めるのが先決だな、と、俺はサイドミラーを狙う。ぱしゅっ。
当たった。だが車は止まらない。まるで何事もなかったかのように走ってる。まさか、母の脳を運ぶのに自動運転の車を使っているのか? それで事足りると、思っているのか? 母を侮辱された気分になり、もう一つのミラーも打ち抜く。それから断続的に同じ場所を穿つようにタイヤを狙った。三発。弾切れになる。すると、トラックの上に人影が見えた。
そいつは輸送コンテナの上に立ち上がり、俺に銃を向けて来る。
ぱしゅっとサイレンサー特有の音がして、撃ち抜かれたのはバイクのタイヤだった。
まさか人間が対人兵器として載っているとは思わなかった俺は、パンクしたタイヤに振り回されて落ちていく。ヘルメットがなければ首を追っていたかもしれない、ぞっとしながら立ち上がると、輸送車も止まっていた。今頃になって何で。骨が折れたかもしれない腹を抑え。ひょい、とコンテナから降りて来る影を注視する。夜中なのにサングラスをしていて、格好は黒ずくめ。茶色がかった髪に、日本人的な体格をしていた。
右手にはスミス&ウェッソンのS&W・M500が握られている。こんなもん撃てる奴がいるのか。しかもあの風圧と速度の中で。細い腕だが筋肉は張っていると言う事か。
「紅文稔だな?」
喋る言葉は中国語。
「黒鳥黄酉が死んだ。彼女は琴弾奏の娘だった。お前の娘でもあったかもしれない」
「はっ」
けふっと血を吐いて、俺は笑った。
「奏の娘でも俺の娘じゃない。スタッフだった俺はそれを知っている。そんなこと伝えるために、お前、あんな所に張り付いていたのか?」
「そうか――やはり、そうとしか思えないか」
「何?」
「琴弾奏はお前の子供も預かっている」
子供。
俺の。
凡才だった、誰か。
けけけっと俺はまた笑う。
「母さんの才能を受け継いでいない子供なんて、いらないね。どうでも良い。俺は母さんと俺の遺伝子を掛け合わせて、本当の俺の子供を作るんだ。母さんの才能と俺の血を受け継いだ子供を。だから大人しく母さんの脳を渡せッ」
俺は反対側のホルスターに入れていた銃を取り出し、男の頭を狙う。それは外れて、がん、とコンテナに当たった。傷一つ付きもしないでぽろっとそれは落ちる。チタン製か? まあ、母さんに敬意を表するならば、それぐらいのガードは必要だろう。
少し満足しながら俺は立ち上がる。肋骨、折れてるな。下手をすると肺に刺さってる。早いところ病院に行った方が良い気もするが、それは母さんを手に入れてからだ。母さん。母さんの、欠片。
ふう、と男は息を吐く。
「大体予想通りの言葉だ。お前は黄酉の父親じゃない。
赤青斗? 第三期にいた名前だ。生きていたら今頃二十歳程度だろうか。いつもにこにこ笑って脱走しようとしては捕まることを楽しんでいた。子供が親に心配されたがるように。あれが俺の子供だったのか?
無邪気なだけで何の取り柄もない子供だった。ただ、自分のものに対する執着は強かった。突然沸騰したように喚き散らすのだ。第三期のほかの子供はそれが恐ろしくてあまり近付こうとしなかった。だがそれさえなければ、ただの、本当にただの子供だった。
俺そっくりの。
母の遺伝子はどこに行ってしまったのだろう。母の遺志はどこに行ってしまったのだろう。途方に暮れたような気分になりながら、俺は銃を下ろす。ぜーぜーと息が覚束なかった。頭に酸素が回って行かない。頭は打たなかったはずなのに、何故だろう。びちゃ、と音がして下を見ると、血だまりが出来ていた。足からもだらだらと血が流れている。ドゥカティの下敷きになったからか。
痛みは遮断されるものだ。致命的であればそうであるほどに。そうか、俺は、死にかけているのか。たった一発の弾丸を、受けたわけでもないのに死にかかっている。
「文稔」
呼ばれた声は懐かしい。輸送コンテナの助手席から出てきたのは、いつか似合うと言った黄色いワンピース姿の奏だった。
「赤青斗は中学をスキップして今は内務省で働いているわ。けっして出来損ないじゃないし、あなたのお母様の血を受け継いでいないわけじゃない。必然、あなたの血を受け継いでいないわけじゃない。黒鳥赤青斗として、ちょっと怒りっぽいところを抱えながらもそれを抑制しながら生きている。努力でね。それでもあなたは、あの子が自分の子ではないと言うのかしら。手のひらを返して、自分の子だと言うのかしら。どっちにしても、あの子はもうあなたに渡せなくなった。あなたが母親の遺伝子を求めているだけだとしたら、それは出来ない。赤青斗は赤青斗よ。紅を受け継いだ、赤と青。あなたはあくまで遺伝学上の父親でしかなくなってしまった。それをしたのはあなた自身なのよ」
悲しそうに俺を見る奏は、俺が南米へ渡る船を見送りに来た時のようだった。
時間が逆行していく感覚。
そうか、生まれた時からの天才なんていなかったのか。
ピカソだって数字が言えなかったって言うしな。
そうか――そうか。
母さんは赤青斗の中で生きている。
なら、良いか。
こんな『事故』死でも、悪くない。
俺はばたんっと大の字になって倒れ、やっと痛み出した足の感覚に顔をしかめた。
※
目が覚めたのは病院ではなく、個人宅だった。
腹にはコルセットを、足には包帯を巻かれ、目を覚ますと同時にがばりと起きて痛みに生を実感する。ベッドサイドには見知ったような知らないような顔が座っていて、あ、と声を上げた。
「お母さん! おじさん起きたよー!」
声変わりしているが、分かる。赤青斗だ。そして母さんと呼ばれて部屋に入って来たのは、奏である。黄色いエプロン。やっぱりこいつにはその色が似合う。黄酉と同じように。
「目は、覚めて? 文稔」
「ああ――悪夢を見たみたいにすっきりしてるよ。そうか、母さんか」
「黄酉は議員宿舎にいたのだけれど、赤青斗は官邸で寝起きしてもらっているの。私の息子と言うことにしてね。あなたの子供と私の子供、姉弟のように育てていたつもりだったんだけど――」
「黄酉は、死んだ」
「……ええ」
「赤青斗。俺が分かるか?」
「? 事故に遭った知らない人じゃないの?」
ちょっとだけ、心臓がずきりと痛む気がした。でもこれは天罰だろう。十年前日本を逃げ出していった俺への、自分の子供が見付からないと思った俺への。
「中学スキップして、内務省で働いてるんだってな。とんだ天才だ」
「天才じゃないよ、努力! 天賦がないから自分の力で頑張るしかなかったんだよ。最初から天才なんて呼ばれる人、いるわけないじゃないか。嫌なおじさんだなー」
そう言えばアルベルト・アジモフ計画も、経過は三歳まで見極めてからって話だったもんな。こいつはちょっと遅かったけれど、自分の才能を自分で引き延ばしたってことだろう。嫌なおじさん。本当にな。俺も何かに打ち込めば、そこそこの成績を出せたのかもしれない。
あれも駄目、これも駄目、次々目標を変えて来た。そのツケが自分の子供に『嫌なおじさん』呼ばわりされることだっていうなら、仕方ない。
「奏。あれは、『ツバサ』だったよな」
「……ええ」
「なんで俺は生きている? 『ツバサ』に関わったら死ぬのがセオリーだって、組織でも聞いていたのに」
「運転していた子がね、黄酉の発展形だったの。児増局の作ったハイエンド、周りに幸福を振りまくことが出来る『白蛇』の持ち主。もっとも精神的に幼いから、自動運転でも運転席に座ってる間はがちがちだったけれど」
くすくす笑った奏は、あの頃よりずっと自由そうだった。
比翼をシンボルにしていた黒白鳥機関から旅立って。
そうか。
――そうか。
「俺たちもう一回やり直せないかな」
「国際指名手配犯を情人にする総理大臣なんて、いちゃダメなのよ」
「じゃあいつかお前がその座を退いたときは、迎えに来るよ。それまでは中国で学校の先生でもしてる」
「免許はあるの?」
「何でも作れる組織にいる」
「ご立派だこと」
「なあ、結局あのコンテナに母さんは入っていたのか?」
俺の言葉に、奏は笑う。
「当り前じゃない。でなきゃ囮にならないわ」
そうか、と俺はもう一度目を閉じた。
※
「自動運転って言っても途中でタイヤ撃たれるしサイドミラー撃たれるしで生きた心地しなかったよー! いくら霧玄くんが殺したくないと思う人だったとしても、怖かったー!」
「お前は何をやっても助かると踏んでいたからな。そのおこぼれにあずかって誰も死なないでいられたなら重畳だと思っただけのことだ。まあ怖い思いはさせたな。悪かった」
「霧玄くんほんとにそう思ってる!? 半ば事故死して貰っても良いような放置っぷりだったくせに!」
「そんなことはない。ちゃんと応急手当はした」
「それだけで許されると思わないの、応急はあくまで応急だよ! あそこで内務省の車が通り掛らなかったらあのおじさん死んでたかもしれないんだからね!?」
「そこまで込みでお前の能力だろう。……玄霞、お前は何を膨れている?」
「兄さんの手伝いが出来なかったことに」
「しなくて良い、そんなものは。靂巳がぴーぴー騒ぐほどの修羅場だったんだぞ、一応」
「私なら確実に殺せた」
「殺さないために必要だったんだ。まったくお前たちは急速にこっち側に慣れていくな……兄さん未来が心配だぞ」
「現在があればいいよ、別に。兄さんがいれば良い。兄さんが私たちにオムライス作ってくれる今があれば、それでいい」
「うっケチャップの赤が血の色を思い出させる……」
「じゃあ私が食べるわよ」
「だめー! 霧玄くんのオムライス、美味しいからダメ! 玄霞ちゃんでも渡さない!」
「良いから冷める前に食え」
「はーい……んー、酸っぱい美味しい! 僕ねえ、このちょっと卵が生の所大好き! オープンオムレツって難しいから開くのいっつも楽しみなんだー!」
「はいはい。よく食べて大きくなりなさい」
「今でも霧玄くんより背は高いよー。お腹が出ちゃったら嫌だな……でも霧玄くんのご飯食べられなくなるのはもっと嫌だな」
「わがままなやつめ」
「私も太りたくないけれど兄さんのチョコレートプリン食べられなくなるのは嫌だな」
「食べ盛りたちめ! まあよく噛んで食べなさい。お代わりもあるからな」
「わーい! でも卵は焼き立てね!」
「はいはい」
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