第58話 へうげものの戦い
◇ 天正7年(1579年)5月 大和国
信貴山城を囲む織田軍の本陣。
重い空気が漂う中、織田信長は松永久秀に最後の通告を送ることを決意した。
何度となく裏切りを重ねた久秀に対し、もはや寛大な心は持ち合わせていない。だが、信長にはどうしても手に入れたいものがあった。
それは久秀が秘蔵する茶器、平蜘蛛であった。
「久秀に降伏の使者を送れ。降伏すれば命は助ける。だが、その代わりに平蜘蛛を差し出せと伝えよ」
信長はさらに言葉を続けた。
「この降伏交渉が失敗すれば、人質として預かっている久秀の孫を殺し、総攻撃を仕掛ける。もはや慈悲はない」
その言葉は、久秀に対する怒りと、平蜘蛛への執着が入り混じったものだった。
「誰を使者として送るか……」
信長がそう呟くと、総大将として本陣に控えていた信忠が口を開いた。
「父上、私に任せてはいただけませぬか。使者は古田織部が良いかと存じます」
信忠の言葉に信長は目を細めた。
古田織部は茶の湯に傾倒するあまり、武将としての本分を忘れがちだと信長は常々思っていた。
だが、その茶道に対する深い造詣が、この交渉の鍵を握るかもしれない。信長は信忠の提案を受け入れる。
「よし、許す。だが、これは最後の機会だ。もし交渉が失敗すれば、その時は容赦なく総攻撃をかける。織部にもその覚悟を伝えよ」
信長の言葉に信忠は深く頭を下げた。
織部は信長の許可を得ると、まるで宝物でも見つけたかのように目を輝かせた。
彼にとって、この交渉は松永久秀の命を救うことよりも、平蜘蛛を無事に手に入れることの方が重要だったのかもしれない。
こうして、古田織部は使者として信貴山城へ向かった。
◇ 天正7年(1578年)5月 信貴山城
信貴山城の天守の一室。松永久秀はやって来た使者の顔を見て眉をひそめた。
およそ本気の降伏の使者とは思えなかったからである。そこに立っていたのは、信長の側近である松井友閑でも、方面軍大将の明智光秀でもなく、茶の湯仲間である古田織部であった。
「松永殿! 上様は平蜘蛛を進呈すれば命だけは許すとのことです」
織部は入るなり開口一番そう叫んだ。
「ところで平蜘蛛はいずこに?」
織部は交渉もせずに平蜘蛛のことばかり気にしている。
本来であれば、まずは降伏の条件を述べ、信長の威勢を語り、命の保証と引き換えに城を明け渡すよう説得するのが筋であろう。
だが、この男は違った。由緒ある茶器への並々ならぬ執着を露わにする織部に対し、久秀は呆れた。
久秀は呆れながらも平蜘蛛を持って来させて、織部に見せた。
平蜘蛛は蜘蛛が這いつくばっているような形をした筒状の茶釜。久秀が天下に誇る、あの名器のことである。
「古田殿、ふざけておるのか」
その声には、底冷えするような冷たさが含まれていた。
「とんでもない。このままでは城は焼け落ちます。平蜘蛛までが焼けてしまっては、わしぁ、悔しい……あまりに無念なことだ」
織部は久秀の冷たい視線を気にもせず、平蜘蛛が失われることへの嘆きを滔々と語る。
その目は、久秀ではなく、平蜘蛛にしか向けられていない。
久秀はこの男の底抜けな「茶の湯馬鹿」ぶりに、もはや呆れるしかなかった。
「それで、お主は使者に願い出たのか。降伏するつもりはないが、あまりに馬鹿馬鹿しい。平蜘蛛はわしが冥途に持っていく。下がれ」
「では、平蜘蛛の代わりに美濃磁器では」
織部は懐から一つの品を取り出した。
それは、真っ白な輝きを放つ磁器であった。
美濃で作らせているという逸品だ。
その形は洗練され、表面の滑らかさは、まるで雪解けの水のようであった。
明にもない技法で造られたというその品は、確かに見る者の心を奪う美しさを持っていた。
「代わりにならん。確かに素晴らしい品であるが、所詮は美濃で作られたもの。平蜘蛛の足元にも及ばぬわ」
久秀は忌々しそうに吐き捨てた。
織部が持参したのは、美濃の窯で焼かせたという、真っ白な磁器の茶碗であった。
その形は洗練され、表面の滑らかさは雪解けの水のよう。
明の磁器にもないような、新しい技法で生み出された逸品である。
だが、平蜘蛛の歴史と重みに比べれば、所詮は新たに出来たばかりの流行りにに過ぎない。
久秀はそう考えた。
だが、その言葉を聞いた織部は、にやりと笑い、こう言った。
「高次殿から伝言がありまする」
「伝言?」
久秀は訝しげに聞き返した。
茶の湯馬鹿の織部が、高次から伝言を預かっているとはどういうことか。
「高次殿は森長可殿の義弟。美濃磁器は長可殿の領地で作られておりますが、高次殿はその職人と知り合いであるそうです。平蜘蛛の代わりに献上するのは美濃磁器ではなく、この新しい技法と、それを生み出す職人。さすれば、久秀殿は新たな茶の湯の世界を自ら作り出し、その名を刻むことも出来ましょう」
その言葉を聞いた瞬間、松永久秀の瞳に激しい動揺が走った。
「なん……だと……」
久秀の心が大きく揺れ始めた。
平蜘蛛は信長が喉から手が出るほど欲しがった由緒ある名物である。
だが、高次が提示した美濃磁器の職人と技法を手に入れれば、新たな価値を生み出す未来の名物を創り出すことが出来る。
平蜘蛛という一つの名器を失うことになるが、茶の湯の未来を自らの手で創り出す機会を得るという誘惑は、茶人としての久秀にとって、抗いがたいほどの魅力的な取引に思えた。
「そう言えば、この交渉が決裂すれば人質の命はないと信長様は言われておりましたなぁ」
思い出したように古田織部は言う。
「大和の支配を筒井に奪われるくらいなら……」
久秀は言葉を絞り出す。
「筒井殿もこの度の松永殿の謀反で評判を落としてますからな。先の片岡城の戦でも明智軍ばかりが活躍して、汚名返上とはいきませんでした。いつまでも大和の守護でいられるのか」
織部の言葉は久秀の心に小さな光明を灯した。
筒井順慶もまた、盤石な地位を築いているわけではない。
ならば、命を長らえ雌伏の時を過ごしていれば、いつか再び大和の地を得ることも可能かもしれない。
久秀は大きく息を吐き、覚悟を決めた。
「久通を呼べ」
久秀は息子を呼んだ。
久通は当初は徹底抗戦を叫んでいたが、片岡城が落とされてからは、その顔から生気を失い、ただ沈黙しているだけだった。
「久通よ、よく聞け。わしは降伏する」
久秀の言葉に、久通は静かに顔を上げた。
「人質となっているそなたの子の命を、無駄にはできぬ」
久秀は孫の命を救うために降伏の道を選んだのだ。その言葉に久通は何も言わなかった。
こうして、松永久秀は降伏し、信貴山城の戦いは終焉を迎えた。
織部古田は意気揚々と平蜘蛛を手に本陣へと帰還した。
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