第29話 魂の結婚

 土下座を崩さぬトキコを挟み、八重と静華の視線が空中で火花を散らす。静華の肩から湧き上がる黒い霧は腐敗した薔薇の香りを放ち、その声は脳髄を蝕む水銀のように後頭部に滲み込んだ。


「逃れられぬ契約を結ぶならば……魂の結婚をしましょう。トキコさんの魂の欠片を私の深淵に沈め、二人で一つとなりましょう。千年の時を超え、幾世もの肉体を替えようとも、私たちは必ず引き寄せ合う存在となるのです」


「……それは、トキコと別れることにはならないのでは?」


 八重の問いに、静華は鼻で笑みを零す。


「お人好しにも程がありますわね」


 静華の紅唇が歪んだ。


「この穢れた世界を許す代わりに、たったひとつの美しいものを選んでいるだけ。神との契約に『妥協』など存在しないのです」


「だ……ダメです!」


 静華の言葉に、雪姫は思わずその場へ飛び出した。


「それじゃ、桜田先輩は永遠に静華さんに縁で囚われることになってしまう! 先輩はただの生贄になるだけじゃないですか! 魂の自由まで奪われて……!」


 トキコに駆け寄ろうとする雪姫を、八重は強引に羽交い絞めで制止する。


「お前は危ないから、離れてろ!」


「山口先輩、でも……!」


「いいんだよ!雪姫ちゃん!」


 顔を上げずにトキコは叫ぶ。


「それで世界が救われるなら……! 自分で蒔いた種だから……!」


「……っ! またそうやって自分を犠牲にして人の言うこと聞いて……!

 同じことの繰り返しじゃないですか!」


「私は大丈夫だから! 危険だから離れていてくれ、あなたは生きてほしい! 雪姫ちゃん……!」


「桜田先ぱああい!」


「うるせえんだよ、お前ら!」

「静粛になさって!」


 八重の怒号と静華の神言が空中で衝突した。二つの音波は古代の鐘のように共鳴し、物理法則を歪ませる。トキコの鼓膜が痙攣し、雪姫の眼鏡が砕け散る。地面に落ちたレンズの破片が、逆さになった世界を映し出す。


「今、大事な交渉中だろうが! ブチ転がすぞ!」


 龍神の気配に劣らぬ怒気を纏う八重に、雪姫は本能で膝を折る。その場に這いつくばりながら、眼鏡の破片が掌に突き刺さるのも忘れてその場から身を引いた。


「生贄など……この竜神を巷の魑魅魍魎と同一視するとは」


 静華の黒髪が無風に舞う。


「私たちの絆は輪廻を超える。たとえ今は別れの時を選ぼうとも……」


 漆黒の霧がトキコを優しく包み込む。彼女の身体は浮遊し、その胸元にじわりと鱗が墨汁のように広がる。それは不気味に輝きを増幅させた。


「トキコ……っ!」


 八重は、魂の結婚以上の交渉案を必死に模索するが、息苦しそうに喘ぐトキコの姿を見るとその試みも叶わず、心が焦るばかりで頭が動かない。


「や……ぇ……」


 トキコの唇から零れた最期の息が、八重の鼓膜を灼く。次の瞬間、トキコの身体が弓なりに反り返り、人形の糸を断たれたように崩れ落ちた。


「トキコぉおっ!」


 八重の足が地を蹴る。しかし神域の結界が弾幕のように立ちはだかっていた。顔面から床に叩きつけられる衝撃で、鼻腔から流れ出る血の鉄臭が喉を突き上げる。


 黒い霧がトキコの心臓を抱えるかのように持ち上げ、ゆっくりと上昇していくのを、八重も雪姫もただ無力に見上げるだけだった。

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