第28話 バイト感覚で救っちゃおう!世界!

 トキコの言葉を境にあたりの気配が一瞬にして変化したことは、雑に生きている八重にでも分かった。空気が粘りはじめる。怪異たちは怯み、蜘蛛の子を散らすように消え、勇敢にトキコと雪姫を護っていた花子さんさえも、その影に怯え忽然と姿を消していた。


 風もない静寂の中、静華の髪がゆっくりと宙に浮かび、一本一本が暗闇で鱗を剥がれた蛇のように蠢き、不気味に揺れる。

 その目は檜皮色に硬化した眼球の奥で、真っ黒な炎が脈打つ。瞳というより宇宙の穴が開いている――そんな錯覚に陥るほど、ギラギラと不自然に光っていた。

 そして無表情のままトキコを見下ろすと、ゆっくりと口を開いた。


「せっかくこうして久しぶりに顔見られたのに」


 声がトキコの耳朶を舐める。熱い蜜が鼓膜に滲み込むような不快感。


「まだそんなこと言って私を傷つけるんですか?」


 トキコはグッと唇を噛んだ。

 視界の端で、大好きだった頃の静華が笑う記憶が蜃気楼のように揺れる。『ずっと一緒だよ』と交わした約束が、今や硝子の破片のように喉に刺さっていた。誠意を見せようと顔を上げたが、言葉は黒い炎に焼かれて灰になった。


「……許されるわけないじゃないですか」


 静華の足元から彼岸花が咲き乱れる。赤がじわじわと地面を侵食していく。


「受け入れられるわけないじゃないですか」


 時計の針が逆回転するような声の調子。


「このまま私を捨てるならば、私は、一生をかけてあなたを恨み続けます」


 その言葉は、愛と憎悪が一体となった究極の宣告であった。

 トキコは、その掛け値なしの悪意に晒されて身動きが取れなくなる。

 今、黙っていれば、自分のせいで多くの命が犠牲になる。しかし、静華の瞳を前にすると、何も言葉が出て来ないのだ。

 打つ手はもう、どこにも見いだせなかった。冷たい汗が首筋を伝い、ジワリと視界が塞がる。人形の糸が千切れたような感覚。

 トキコはもう、ただ震えることしか出来なかった。


 ――その時、


「ハイハーイ! そちらで結構ですよー!」


 揉み手をしながら、八重がどこか陽気に飛び出してきた。


「呪うなら、こいつだけにしちゃってください! じゃないと、静華ちゃんの中の龍神様が暴れて、世界中で沢山の人が死んじゃうんでっ! こいつだけならいっっっくらでも呪っていただいてね! 大丈夫なんでね!」


「や、山口先輩!」


 雪姫が縋りつく腕を、八重はコバエのように振り払う。ド修羅場のふたりへ向かって呼びかける声は、飲み屋のバイトのように軽い。


「んじゃあ、契約成立ということで、念書にサインいただいちゃっていいっすかね? 呪う対象はトキコ個人のみということで、この世界は呪いませんって内容なんですが、問題ないっすよねー?」


「八重っ……! マジであんた許さないからっ……!」


 トキコは涙目で奥歯を食いしばりながら、八重に反論する。

 雪姫が八重に縋りつくように叫んだ。


「山口先輩、もうやめてください! 桜田先輩はどうなっちゃうんですか!」


「2025年7月の予言止めたいっつったのはあんただろう!

 コレで少なくとも大勢の命は救われる。トキコのことはその後だ」


「でもっ……!」


「お前が始めた物語だろうが!」


 鼻先三センチの距離で怒声を浴び、しかも他に打つ手もない中、雪姫は苦笑いを浮かべながら「……漫画、読み過ぎですっ」と、憎まれ口をきいてその場を引いた。


 八重は再び空へと向かい「ベントラ―」と叫ぶと、遠い彼方の宇宙から応答する声が返ってきた。


「「8代目え~! うちら、こう見えてエリート集団やで? 暇とちゃうんやから、飲み屋の『すんませ~ん』感覚で呼ばんといてえな~!」」


「ちょっと、書類一枚作ってくれない?」


 八重は後輩たちの訴えを一蹴し、茶目っ気たっぷりに命令をするが、その目は笑っていなかった。


「人使い荒ぁ~い~! ちょい待ってえ、うちの行政書士ちゃん送ったるわあ~」


 宇宙人のこだまだけが残り、八重は空が静かになるのを見送る。

 事が思い通りに運んだ満足感に浸っていたその刹那、静華がゆらりと一歩踏み出した。足跡に咲いた彼岸花が黒く変質し、牡丹のように膨れ上がる。


「面白い人……。紙切れ一枚で神が縛れると?」


 髪の蛇たちが八重の提案を嘲笑うように蠢いた。


「トキコさんは私を捨てる。私はトキコさんを呪い続ける。

 あなたたちは命拾いをするというのに……私に一体何の得が?」


 八重は舌打ちし、腕を組み直してにやりと笑った。


「その顔、他に何かいい案がありそうだね」

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