E p i s o d e 4 0 グッバイヒロイン (4)
放課後、覚悟を決めて咲の教室へ足を向けた。
私と小径ちゃんは同じ二年六組。対して、咲は二年一組で、引き続き脇本くんと同じクラスである。ここに作為的なものを感じ取ってしまうのは、咲の秘密を共有した後だからだろうか。
いざ二年一組の前に立つと、恐怖で身体が竦んだ。そんなはずない、と何度心を奮い立たせても、「咲が私を嫌いになったんじゃないか」という妄想が消えない。むしろ言い聞かせれば言い聞かせるほど、考えが現実のものとなっていく気がした。
そして決定打は、仄暗い教室から聞こえた二人の会話。
岸出咲と、彼女に片想いする運命の人――脇本蹴馬の、身の毛もよだつこんなやり取り。
「岸出咲さん。俺と付き合って下さい」
「……はい。よろしくお願いします。脇本くん」
気付けば階段を下っていた。心臓が破裂するほどの速さで、二段も三段も関係なく飛ばしていく。無我夢中で走っているのに、足を踏み外さないのが不思議だった。
「灯さん!」
小径ちゃんが追ってくる。遠くから見守ってくれていたのだろう。
咲でなく小径ちゃんが恋人だったら、もっと要領良く気を遣ってくれただろう。少なくとも、他の人に告白され、それを受け入れる場面など、元恋人に見られたりすまい。
人の不器用さを馬鹿にするけれど、咲も大概不用心だ。
なのに……不器用なくせに、すぐに格好付けようとするから、バカなんだよ。
「はぁ、はぁ……。どうしました?」
「小径ちゃん」
「はい」
「私ね――」
「喋らないで」
そこで、言葉が遮られた。
何者かが私の首をロックして、カッターナイフを突き付けてきたのだ。
「そこの貴女。道連小径、よね?」
「はい。あなたは……、誰なんですか?」
「三年の女子生徒。そう言えば伝わるわ」
「誰に?」
「岸出咲に決まっているじゃない。この世界で名前を省略したら、彼女になるのは常識でしょう?」
「……そんな常識は知りません」
「そう。なら貴女とは気が合うかもね。さぁ、そんなことより彼女に伝えなさい。世界が元に戻ったら、貴女の親友を八つ裂きにする、と」
「……どうしてそんなことを?」
「貴女に教える義理はないわ。モブと関わっても時間のムダだしね」
小径ちゃんは沈黙した。唐突な脅迫犯ともう少し対峙するべきか、言いつけ通り咲を呼びに行くべきか、迷っているように見える。
私は
「撤回して」
「喋るなと言ったわよね」
「撤回して。小径ちゃんはモブじゃない。あなたはそうかも知れないけど、私と小径ちゃんはそうじゃない」
「……黙りなさい」
「あなたが撤回するまで黙らない。このままここで喚きつづけて、誰かが警察を呼ぶまで粘る。そうだ、小径ちゃん。懇切丁寧に命令を聞き届ける必要はないよ。今すぐ警察に駆け込んで、怪しい生徒がいると大人を……」
「撤回する」
彼女は私から手を離した。首を動かし犯人の横顔を盗み見ると、やはりあの人――林玲於奈先輩だ。
「でも、理由は歩きながら話すわ。道連小径。貴女は咲に伝言を。でないと、彼女が後悔することになるわよ」
林先輩はカッターナイフの刃をぐっと背中に押し付けた。『彼女』という代名詞は咲を指すのだろうけれど、暗に私のことも示しているのだと分かった。
小径ちゃんはそれを見て眉根を寄せ、
「分かりました。咲さんを呼んできますが……どこへ行かれるおつもりですか?」
「呼んでくるんじゃない。伝えるのよ。来るかどうか決めるのは彼女自身……じゃないと面白くないでしょう。場所は、私たちの因縁の場所、と言っておくわ。彼女は覚えていないかも知れないけどね」
刃物を押し当てられ、私は歩き出した。カッターは横に引かないと切れないし、制服の上から当てられているので危険はかなり少ないけれど、先輩がその気になれば簡単に命を奪える状況である。
まぁ、脅されていなくても、今の私なら唯々諾々と命令に従っていたかも知れないが。
咲を失って分かった。私とは、すなわち咲であったのだ。私とは母であり、私とは父であり、私とは小径ちゃんであり、やっぱり咲でもあったのだ。私を形作る全てが私であり、私単体としては存在しえない。
棒を一本抜いたら崩れてしまうジェンガのように、私はもう私の形を成していなかった。
「ずるいと思ったことはない?」
「はい?」
「主人公の隣に居て、自分には何も無いと卑屈になってしまうことは? 何のために生きているんだろう、と思ったことは? 日陰から出て、あの太陽のもとに躍り出たいと思ったことは、ない?」
彼女は涼しい顔をして、
彼女の問いを受け、私は考えた。
主人公の件を知る前に、何度か嫉妬したことはある。咲は男女問わずウケが良いし、先生にも滅多に注意されない。私とは大違いだけど、それは彼女が主人公だからとか、私が脇役だからとか、そんなことが理由ではない。ただ彼女が優しくて、真面目で、何事も一歩引いて大局を見る癖をもっているからだ。
「性格は何によって決まるのかしら。将門灯。もし貴女が幼少期からちやほやされて、善行を積めばきちんと褒められる環境に身を置いていたら、咲のようになっていたんじゃない?」
「…………」
情けは人のためならず。
この言葉が真だと確信できたなら、善行をしない者はいないだろう。実際は上手くいかないことばかりだ。お年寄りに席を譲っても大丈夫だと断られたり、掃除をがんばってみても誰にも気付いてもらえなかったり。感謝の言葉をもらったところで、それが何になるわけでもなく。喜んでもらえると嬉しいから親切をしてみるけれど、やっぱり割に合わない時はあるわけで。
そんな中、彼女は迷わず行動してきた。見知らぬ人の帽子が飛べば取りに走り、落とし物があれば何でも拾い、事故が起これば命をかけても他人を救う。自己犠牲が自己犠牲ではなくなるとき、何をもって他人を賞賛するに足るだろう。
「許せないのよ、私には。何がどう転んでも成功してしまう彼女のことが」
成功ばかりではなかったと思う。だけど、そう見えてしまっても仕方ない。
彼女は、全部一人で解決してしまうから。
「今回もそう。貴女を選んでも、脇本蹴馬を選んでも、咲は……咲だけは幸福になれる。周りの迷惑なんてお構いなくね。それがあの子の生き方なのよ。独り善がりを押し付けて、自分だけに利のあるメリーバッドエンドに持ち込んで……しかも、それが正当化されているの。貴女を捨てたことが、後には美談になってしまう。こんな横暴が許されると思う?」
……確かに咲は、事件をきれいに、丸く収めようとする癖がある。後世の人たちから見れば、私を振ったことも英断と呼べるかも知れない。運命の相手だという脇本くんと付き合えば、何もかも上手くいくはずだから。
でも、私がいま抱いている気持ちは、決して美しくなんかない。どれだけ磨いても醜いままの原石で、思い出として振り返っても宝石に見えない石ころだ。
この結末を、咲がどう加工したとしても。
美談にだけは、されたくない。
「いい目をしているわ。そうよね、許せないわよね。彼女は満足でも、私たちが満足しない。たとえ彼女ありきで回る世界だとしても、私たちには心がある。岸出咲を憎む心が」
「憎んでなんか……」
「いいや、憎いはずよ。彼女は自分だけが正しいと思っている。彼女だけの閉じた世界を持っていて、私たちを閉め出してしまう。彼女が一度でも、貴女の言い分を聴いたことがある? 無いわよね。彼女にとって、全ての人間は脇役なのだから。貴女も例外ではないわ」
「でも、あなたも……自分の都合で私を殺すつもりなんでしょう?」
「……そうね」
彼女は空に目を向け、数秒間だけ思考した。
そして考えがまとまると、あっさり言う。
「気が変わったわ。貴女は殺さずに、殺す振りをして逃がしてあげる。あとは自由にすればいいけど、咲にだけは会わないようにね。まぁ、もう会いたくないだろうけど」
「…………」
なんて奔放な人なんだ……。人質はあくまでも道具で、事後にそれを処分しようが投棄しようがどうでもいい、という態度……。人間を相手にしているとは思えない。
この人は本当に、ただ純粋に――。
「不幸にしてやりたいのよ」
ドロドロに煮詰められた悪意が、瞳の奥で鈍く光った。
「過保護な運命に代わって、あの子を不幸にすること。それが私の使命なの」
それはちょうど、咲が
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