E d i s o p e 3 8 グッバイヒロイン (2)
足りない。
脇本くんの告白を受け入れても、空の傷口は塞がらなかった。運命はもう徹底的に、歯車を前に進めようとしているようだ。もう逃げられないように。人形が支配から逃れないように。
つまり、あれか。私は脇本くんと寝ればいいのか。そうすれば世界は壊れずに済むのか。
はいはい、と私は半ばやけくそになって、脇本くんのほうに一歩歩み寄った。最初に世界が壊れ始めたのは、私と灯がキスした時だ。このままキスの一つでもすれば、多少の時間稼ぎにはなるだろう。
そう思い、つま先立ちをして彼の身長に合わせたところで、彼が「待って」と言った。
「オーケーしてくれたのは嬉しいけど、岸出さん……本当に俺のこと好き?」
前も言ったけれど、私は脇本くんのことが決して嫌いではない。清潔感もあるから、全然平気でキスもできる。それ以上となると……多少抵抗はあるが、覚悟を決めれば大丈夫だろう。
なんせ彼は、私の運命の人なのだ。嫌いじゃないどころか、好きと言っても全く過言ではないのである。だからそう言った。
「好きだよ」
「ならいいけど……でも、他に好きな人でも居るんじゃない?」
「……どうして?」
「見れば分かるよ。俺、ずっと岸出さんのこと見てたんだから」
「私のことを? なんで?」
疑問を口にすると、彼は目を丸くして止まった。それから、ふっと息を漏らして笑う。
「……そういうところ、変わらないね」
「え?」
「覚えてない? 小学生の頃、会ったことがあるんだよ、俺たち」
あ。
「覚えてたんだ」
「岸出さんも?」
「お葬式だよね。私の……両親の」
「うん。それについては、何と言っていいか……」
「気にしなくていいよ。今さらご愁傷様って言われても困るし」
「そっか。ありがとう。じゃあさ、あの時の会話は覚えてる?」
「えっと……」
彼に『悲しい?』と訊かれ、『悲しい』と答えた。
覚えているのに、上手く口に出すことができない。
「君は『悲しい』って言った」
「…………」
「その後に、こう言ったんだよ。『だけど私の「悲しい」は、みんなの「悲しい」とはちがう』」
「…………」
覚えてなかった。言われても思い出せないぐらい、奥深くに眠って取り出せない記憶だ。
「どうしてか、そこだけはっきり覚えてるんだよ。俺、全然意味が分からなくてさ。自分なりに考えて理解しようとしたけど、やっぱり完全には分からない。だけど……それが答えなんだよな」
「……他人の言いたいことなんて、分からない」
「そう。それ」
頭がごんごん鳴っている。何故ここに来て、こんな言葉で心が揺れてしまうんだ。
でも考えてしまった。
私は灯の幸せのことを考えて行動した。滅私の精神を発揮して、現在の幸せを犠牲にして、将来の幸せをもぎ取った。そのはずだった。
灯の「幸せ」が、みんなの「幸せ」と同じなら。
当たり前の幸せ。好きなことを享受し、勉強に精を出し、男の人と結婚をして、笑顔の溢れた家庭を作る。波風立たない生を全うし、国家存亡の危機などつゆ知らず、与えられた仕事にやりがいを見出す。
数量的に表せる幸せ。
1の幸せを失って、2の幸せを得たのなら、幸せの収支はプラスになる。
だから「幸せ」?
灯の「幸せ」は守られた?
そんなわけ、あるか。
「脇本くん」
「何?」
「私を殴って」
「え、いや無理」
「早く。目が覚めるようなやつ、頂戴」
「……それは、別の人にやってもらってよ。好きな子に手を上げるなんて、俺にはできない」
「ぐっ……いいストレート」
そりゃそうだ。私も、灯に殴れと言われたら困るに違いない。
つくづく私は、なんて自己中な奴だろう。
他人の気持ちなんて考えたこともない。考えても当たったことがない。
それでも考え続けるから、悩みも尽きないし壁にもぶつかる。
告白したり振ったり断ったり、右往左往することもある。
灯にも脇本くんにも両親にも、ありったけの迷惑をかけた。
自分もそれなりに傷ついた。自分で訳が分からない時もあった。
だけど、それが――。
私の勝ち取った、自由だ。
「ありがとう。私、行かなきゃ」
「うん……また会えるかな?」
「さぁ。世界がなくなっちゃうかも。ほんとごめん」
「それはしょうがないよ。……あのさ。もし、世界の全員が君を恨んでも――」
――俺だけは、岸出さんの味方だから。
彼は恥ずかしげもなく、至って真剣に、そんな青臭い台詞を放った。私は不覚にも、それをちょっとイイと思った。
「君は……本当に良い男だねぇ」
「よく言われる」
こんな状況なのに、顔を見合わせて笑ってしまう。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
こうして永遠の別れの挨拶を交わし、教室を一歩外に出たその時だった。
「咲さん、大変です!」
小径ちゃんが、慌てた様子で廊下に走り込んできた。
「どうしたの?」
「あ、灯さんが……誘拐されました!」
「……へ?」
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