Edosipe12’ 学校祭 (4’)
灯の劇を観るのが、私の今日の楽しみだ。一緒に台本を読んだのでストーリーは知っているし、彼女がどう台詞を読むのかも分かっている。しかし、彼女が大勢の前で発表する臨場感はその場でしか味わえないものだ。
もしかしたら失敗するかもしれない。言葉を間違えるかもしれない。それでも私は、その全てを見届けたい。
これは、運動会で我が子を応援する親の心境に似ているだろう。人見知りのあの子が、彼女なりに他者と連帯し、困難を乗り越えている。その姿にどれほど癒やされ、安心することか。だから絶対に、一年二組の劇だけは観たい……そう思っていたのに。
「咲ちゃん、どうしよう。さっきウチのワッフルを食べたお客さんが、お腹痛いって」
シフトを終え、エプロンを脱いで灯と合流しようとしていたときだった。同じクラスの子が、弱り切った表情を浮かべている。彼女は私と同じ時間帯に働いていた子で、調理ではなく接客を主に担当していた。
「ウチのクラスが原因って証拠は?」
「ないけど……。近くのトイレが混雑してるって言うから、別の階を使うように伝えておいた。あと、まだ噂だけど、学校中で体調不良が多発してるって」
まずい。十中八九、林先輩の仕業だ……。
劇の発表までは残り三十分ぐらい。迅速に原因を特定し、対策を練ればいけるか? 例えば、小麦粉が原因ならワッフルの提供を一時的に停止するとか。まず教員に報告したいのは山々だけれど、そうなるとシフトに入っていた生徒が呼び出される恐れがある。それは嫌だ。最悪、学校祭が中断されて劇が上演されなくなるかも知れない。それはもっと嫌だ。
どうにか穏便に、内密に、事態を収められないものだろうか。
「とりあえず、封の開いていない材料だけ使うようにしよう。皆にもそう伝えて。すぐに戻ってくる」
脱いだエプロンを机の上に投げ捨て、廊下を走って灯のもとへ向かった。
「私のクラスでトラブルがあったみたいだから、ちょっと様子を見てくるね。灯の劇は何がなんでも、矢の雨が降っても観に行くから、安心して」
待ち合わせ場所に一瞬だけ顔を出して、教室に戻る。確かに、この教室の側のトイレだけやけに人が溢れていた。それほど設備が充実していないので、元々混みやすいと言えば混みやすい場所なのだけれど……。
「どうして、封を切っていない材料なら良いんだ? 腐ってるかもしれないだろ」
小麦粉や卵、牛乳が入ったボウルを混ぜているクラスメイトが尋ねてきた。もっともな指摘だ。学生が作ったものを食べて体調不良、と聞けば、真っ先に思い当たるのは食中毒。消費期限切れや保管状態の悪さによって引き起こされる自然の毒だ。
「たぶん、原因は自然発生したものじゃない。人が混入させたんだと思う」
「は? 誰がだよ」
「分からない」
まだ断定はできない。私にコンプレックスを抱く生徒が他にいないとも限らないし。
「……お前のせいか」
彼がぽつりと呟いた。
「え、いや、私はそんなこと」
「お前がいるから、狙われたんだろ」
「…………」
もっともな、指摘だ。
調理場にいるクラスメイトたちが、息を潜めてこちらを見ている。その中には、さっき私に状況を説明してくれた、青ざめた顔をしたあの子も、いた。
「邪魔するなら帰ってくれよ。俺たち、これでも頑張ったんだよ。作り方考えて、材料を集めてさ。みんなでシフト表作って、上手くいけば良いなって、ずっと……」
彼は混ぜる手を止めて、台に拳を叩きつけた。目に涙を溜めていた。よほど許せなかったに違いない。私に「普通の学校祭」を打ち砕かれたことが。変なイベントに巻き込まれたことが。
そりゃそうだ。食中毒騒ぎなんて起こさずに、「成功だったね」って笑い合えたほうがいいに決まってる。困難を乗り越えた達成感はひとしおだろうが、大抵の生徒はそんなこと求めてない。
私だって。
「……ごめんね。盛られた毒は、たぶん、下剤とかだと思う。私は今からコンビニに行って、下痢止めとスポーツドリンクを買ってくる。もちろん、経費では落とさないから安心してね。そのあと他のクラスの劇を見たら帰るよ。これ以上迷惑はかけない。ごめん」
深く頭を下げると、周囲がざわついた。もっと反論されると思ったのだろう。やはり彼らは何も分かっていない。……でも、私は彼らを知っていると言えるだろうか? さっき話しかけてきた女の子も、今話していた男の子も、名字は分かるが下の名前は思い出せない。
知ろうとしてこなかったからだ。私も根っこでは林先輩と同じ。自分以外は非主人公だと決めつけて、知らず知らずのうちに遠ざけていた。ただア行とワ行の群衆としか認識できなくなっていた。それなのに自分のことは知って欲しいなんて、自己中心的にもほどがある。主人公の座を降りたら、私は社会人としてやっていけないんだろうな。
教室を立ち去ろうとしたら、例の男子に呼び止められた。
「……なんでそんなに、冷静なんだ?」
怒り甲斐がない、とでも言いたげで可笑しい。灯ならもっと直截的に、『なんで怒り返さないの? こっちが感情的になってるんだから、そっちもなってよ』とか言ってきそうな場面である。怒られないことを怒るなんて、もう何が起こっているかよく分からないな。
「これが私の『普通』だからだよ。日常だから。……呆れるでしょ? でも、こんな外れ役を、羨ましいと言ってくれる人もいるんだ。変わってるよね」
誰にも共感されない笑みを残して、私は教室を飛び出した。
今はまだ、一人でいい。灯さえいれば、それでいい。
私は学校の隅から隅まで歩き回り、スポーツドリンクを配っていった。一年一組の生徒であることは伏せ、ただの学校からの支給、サービス品として提供する。途中、お腹を壊したと言う人がいれば、下痢止めも一緒に手渡すようにした。まったく怪しまれなかったと言えば嘘になるが、タダで貰える物に誰も文句は言わなかった。
劇の開始まで、あと五分。
そろそろ体育館へ向かいたいところだけれど、校舎の北館にまだ足を踏み入れていない。ワッフル屋からは距離があるが、人がいる以上、無視して帰るわけにはいかなかった。トイレに籠もりきりで学校祭の一日を終えるなんて、そんな悲しいこと、あって良いはずがないだろう。
右足を北館、左足を中央館に置き、連絡通路で戸惑っていた。どちらかしか選べないなら、私はどちらを選べば良いのか。右には、岸出咲としての使命。左には、将門灯という誘惑。私はこういうとき、運命任せにして進んできた。「あるべき姿」や「なすべき行動」は、自ずと浮かび上がってくるものだった。
でも今回は、どちらも脇道で、寄り道で、運命自体を決定する選択ではないけれど――言うなれば、私自身を規定する選択だ。
右を選ばないことは、人を助けたいという正義感を否定すること。
左を選ばないことは、灯を見守りたいという親心を否定すること。
誰かに決めてほしかった。ああしろ、こうしろと命令して欲しかった。自分で決めたという重荷を背負いたくなかった。
皆はこんなに不安定な中、どちらかを選び続けてきたんだな。
自由は、苦しい。
でもどちらかを選べと言われたら、私はやっぱり――。
「岸出さん」
一歩踏み出そうとした矢先、背後から声を掛けられた。爽やかな短髪に、すっきりとした一重まぶた。我らが一年一組の星、脇本くんだった。
「ごめん、これまで手伝えなくて。あとは俺がやるよ」
「いや、でも……」
脇本くんは知らないのだ。私が主人公であることも、そのせいで一年一組が狙われたことも。この事態が、自業自得だってことも。
「いいから。あとこのスポドリ代、クラス全員で折半な。一人で負担したらヤバいだろ。何本あんだ、これ」
「ううん。自分で出す。私のせいだし」
「連帯責任だよ」
「何言ってんの」
頭の固い教師じゃあるまいし。個人の問題が個人に帰結することなんて、現代社会じゃ常識だよ。
「管理の問題だって。もし、岸出さんに恨みのある人が仕込んだんだとしても、その隙を与えたのは俺たちじゃん」
「それは……犯人が狡猾だったから」
「なら尚更、岸出さん一人が責任を負うのは間違ってる」
――絶対に。
そう断言して、彼はビニール袋を取り上げた。スポーツドリンクと下痢止め薬が入った、某コンビニのレジ袋。それを掴んでいた私も、釣られて側に引き寄せられる。
背が高い彼の首筋が、ありえないほど近くにあった。
彼と目が合った。
切なそうな顔をしていた。
今にも沈みそうな太陽が、彼を後ろから照らしていた。
「俺、岸出さんのこと好きだよ」
彼の言葉は率直で、自然で、憂いを帯びていた。意を決しての告白というよりは、自分の内側に生まれた感情をそのまま絞り出そうとしたら、結果的にこうなった、という感じ。彼は昔から迷いがない。悲しいと思ったら「悲しい」と言うし、悪いと思ったら「ごめん」と謝る。そこには、感情を表に出すときの抵抗が微塵も感じられないのだ。ある意味では自然に、ある意味ではとても不自然に、彼は生きている。
生かされている。
「……そう」
「でも、すぐに責任を抱え込んだり、無理をしようとするところは嫌い。岸出さんって、よくそうするでしょう?」
主人公だからね。
「もう少し他人を頼ってほしい。少なくとも俺は、岸出さんの……こと……」
今さら自分の言ったことが恥ずかしくなったのか、彼の顔がみるみるうちに上気しはじめた。私の視線を避けてそっぽを向くと、横顔が夕日に照らされてますます赤みがかって見えた。ひょっとしたら、私の顔も似たような色をしているかも知れない。
「分かった。この場は任せる」
ドクドクと唸る心臓を意識の外に追いやって、私は毅然と言い放った。
私の負けだ。私は結局、どちらも捨てることができない。正直、彼のお陰で助かった。私は灯の劇を諦めて、右へ向かおうとしていたのだから。
息を切らして体育館に着くと、入り口の近くで小径ちゃんが立っていた。
「あ、咲さん! 客席にいないから慌てましたよ」
「どうしたの? もう始まってもおかしくない時間でしょう?」
「それが……主役の〇〇くんがお腹を壊して舞台に出られなくなってしまって……」
あ。
「彼の友人の脇本さんという方に、咲さんを探してほしいとお願いしたんです。うちもあちこち探したんですけれど……」
脇本くんのほうが先に私を見つけ、ラブコメみたいな一波乱を起こして去って行った……と。しかし、脇本くんが事情を説明しなかったのはどうしてだろう。劇の開始が遅れそうなら、教えてくれれば急がなかったのに。
……ん。いま、小径ちゃんは主役が出られないと言ったか? そして『咲さんを探してほしい』の一言。劇が始まるから急げ、という感じではない。それはまるで……。
「お願いします、咲さん。〇〇くんの代役を演じてください。頼れるのはあなたしかいないんです」
なるほど。道理で、脇本くんが何も言わなかったわけだ。目立つことを嫌う私が、劇の主演なんて大それた役を担うわけがない。連絡通路で聞かされていたら、Uターンして北館へ向かってもおかしくはなかった。
いつもなら。
ただ今日の私は、色々なものを背負っているのだ。これは灯の晴れ舞台であり、小径ちゃんの念願叶った舞台であり、脇本くんが繋いでくれたバトンであり、毒入りワッフルを売った者としての責任でもある。加えて、彼の知らない事実がもう一つ。
トガクシ様は、常にマスクを被っているのである。
「分かった、やろう。私の知らないこと、全部教えて」
「はい! 衣装の着付けをしながら説明します。こちらへ来て下さい」
そして私は、付け焼き刃ながらも舞台に立った。袖に入る度に台詞と動きを確認し、細かなミスをカバーしてもらいながら進めていく。客席から眺めるだけだと思っていた灯の姿が、こんなに近くで、一緒に役を演じながら拝めるとは思ってもみなかった。
スポットライトの下、汗を流しながら全力で役を演じる灯の姿は、他のどの男子よりも女子よりも輝いて見える。小径ちゃんのキャスティングは間違っていなかったし、私の見る目も絶対に間違っていなかったと思う。
彼女は確かに主人公だった。
私と同じで。私とは違って。
「ユウキ」
宴もたけなわ。灯演じるアンリが、私の学ランの肩を掴む。マイクに拾われないか心配になるほど呼吸を荒げて、彼女は告げる。
「私、本当はずっと、あなたのこと――」
はっ――と彼女が息を呑んだ。
目が合った瞬間、彼女の顔に動揺の色が広がる。
台詞を忘れてしまったのだろうか。黒い、黒い、墨汁のように黒い彼女の瞳が、光に照らされて煌めいている。揺らめいている。
灯は綺麗だ。
粗削りの宝石のように、奥に秘めた美しさを持っている。それはまだ、誰にも傷つけられていない。私だけに見つけられる輝きの鉱脈。
「――俺もだ」
彼女の台詞を待たず、その小柄な胸に抱きついた。
分厚い制服越しに伝わる心臓の鼓動が、私の支配欲を満たす。いつでも潰してしまえそうな、砕いてしまえそうな、そういう危うさと甘やかさのバランス。彼女は私の掌中にある。決して、誰にも奪わせはしない。
刻みつけるように。焼きつけるように。
「ありがとう」の言葉を自分に都合良く解釈して、私は、灯を欲望した。
幕が下り、舞台が終わり、観客席から万雷の拍手が送られた。お世辞ではない、心からの賞賛だと信じよう。実際、私たちはよくやったし、小径ちゃんの台本も申し分なかった。
強いて言えば、続編が上演されないことが残念でならないくらいだろうか。
「お疲れ様です! いやぁ、急遽頼んだのにここまでやってくれるとは思いませんでしたよ。さすが咲さん、うちの見込んだ主人公です」
「あはは……、それは、どっちの意味でかな?」
「どっちもですよ。本当に、ありがとうございます」
「こちらこそ、小径ちゃんの演出した舞台に出られて良かった。それと、一つお願いなんだけど……」
「何でしょう?」
「私がユウキの代役だったってこと、灯には内緒にしておいてもらえないかな」
「…………」
「あの子鈍いから、気付いていないと思うんだよね。声も低めにしていたし。……えっと、小径ちゃん、大丈夫? 聴いてる?」
「え、あ、はい。……ふふっ、あなたたち、本当に似た者どうしなんですね」
「どういう意味?」
「なんでもありません。分かりました、今回はそういうことにしておきましょう」
小径ちゃんの意味ありげな笑みが気になったが、要求が聞き届けられてよかった。私は安心して、服を着替え、メイクを落とし、灯と一緒に帰路についた。
クラスのことは、また明日に持ち越しだ。脇本くんが上手に事を収めていたらそれで良し、駄目でもそれはそれで良し。潜在的だった内部分裂が、明日から目に見えるようになるだけだ。それはそれで風通しの良い学級運営が可能になるかも知れない。私の知ったことではないけれど。
無事に帰宅し、薄暗い玄関で靴を脱ぐ。居間に入ると、すぐに照明のスイッチを入れた。もちろん誰かがいる気配はない。学校が賑わって騒がしかったぶん、家がシンとして少し物寂しく感じられる。
夕食の時間にはまだ早いが、なんとなくカップ麺を出して作ってみた。叔母さんはどうせ今日も遅くまで仕事で、夜ご飯は要らないと言うだろう。
ピピピ、ピピピ、ピピピ――とタイマーが鳴り出したのと、叔母さんが「ただいまー」とドアを開けたのが、ほとんど同時だった。
「あれ、もうご飯作っちゃった? ごめんね、連絡すれば良かった」
彼女は両手にスーパーのレジ袋を提げ、スーツではなく珍しくカジュアルな格好をしていた。メイクこそ安定感のある、働いている女性のそれだが、こうして見ると叔母さんもただの主婦みたいだ。「ただの主婦」というのも私が勝手に抱いているイメージだけれど、今の彼女にはいつもより親近感があり、状況が状況なら「お母さん」と言い間違えてもおかしくない感じだ。
彼女は袋を机に置くと、卵を取りだして冷蔵庫に入れていった。
「咲の友達の……アンリちゃん、だっけ? 上手だったわね」
「灯ね。アンリは劇の役名……って、叔母さん、来てくれたの?」
「うん。会社を早めに抜け出してね」
「え……」
「いいのよ、迷惑なんかじゃないから。むしろ行って良かった。久しぶりに若い頃を思い出したわ」
「そっか」
良かった。
「あ、そうだ、咲も出るなら予め教えておいてよね。最初分からなかったじゃない」
「え、バレてた?」
「当たり前じゃない。何年一緒に暮らしてると思ってるの?」
叔母さん、私のこと興味あったんだ。顔を隠していても分かるくらい、私のこと知っていてくれたんだ。
「今日は鍋にしようと思ってたけど、また今度にする? ラーメンも食べたらお腹いっぱいになっちゃうでしょ」
「ううん。食べる。私も手伝っていい?」
「ありがとう。じゃあ、人参の皮剥いて短冊切りにしてもらえる?」
叔母さんと隣り合って台所に立ち、今日の思い出話や叔母さんの過去の話、灯の話などをした。彼女とここまで話し込むのは初めてで、最初は緊張したけれど、次第に打ち解けて話せるようになった。というか、初めから距離なんてなかったみたいに感じた。
私がそうだと認めていなかっただけで、叔母さんはもう、とっくに私の家族だったんだ。
大根をサクサクとイチョウ切りにしていたら、自然と顔が綻んだ。
初めて二人で作った鍋は、身体の芯から温まる美味しさだった。
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