Edosipe8’ 口から口へ (3’)
骨と皮だけの亡霊の手が、あれよあれよと増えていく。
物理法則なんてまるで無視した質量の波が、私たちの身体を
運命の力を借りなければ、私のなんと無力なことか。思えば天狗になっていた。
交通事故現場での振る舞いも、灯が絡まれたときの対応も、私が特別優れているから成功した訳じゃない。所詮は運だ、そして慣れだ。毎日毎日トラブルに遭遇すれば、勘も判断力も備わってくる。これをどうして私の能力と言えようか。
『信じて』と言ったは良いものの、この窮地から脱却するプランは皆無であった。
「ごめんね、小径ちゃん」
「いいえ、嬉しかったですよ。助けようとしてくれて」
亡者の手に埋もれ、顔しか出ていない私たちは穏やかに空を見上げていた。疲れ果て、腕を伸ばす気力も失せ、されるままに身を任せた。あと数分もすれば、私たちの存在はこの世から消えてしまうだろう。
これはこれで、報いかも知れない。
私が主人公であり続けることは、他の誰かを蹴落とし続けることだった。幼馴染みの林先輩は、私がいなければもっと活躍できていたはずだ。どうせ道半ばで倒れるなら、早めに道を譲るべきだったのに。なんとしても。自分の命を絶ってでも。
「どうして、私を見捨てなかったんですか?」
小径ちゃんが尋ねた。責めたいのではなく、今度こそ本当に知りたいのだろう。格好付けて答えようか迷ったが、今はそういう場面じゃない。
墓場まで持って行く……なんて、墓地で言っても信憑性がないだろうし。
「私のエゴだよ。目の前で死者を出さないっていう、自分の信条に従っただけ」
「そんなこと、不可能ですよ。あなたの前では、他人の命は紙のように軽い」
「だからエゴなんだよ」
私の中では、主人公=自己中の等式が成り立つ。
世界は私を中心に回り、私のわがままは全人類に許される。
逆に言えば、私は世界に囲まれており、人類以外の何かが私を許さないということだ。
「家族でキャンプしに行ったとき、帰りの山道で、車が崖から転落した。なぜか私だけが助かって、両親は二人とも命を落とした」
最初は理由が分からなかった。両親が私を守ってくれたのだと、親戚の何人かに
両親が死んだことを、幸運とさえ感じた。倒錯した愛情を抱いていた。
その頃からだ。周りでばんばん人が死に、人が人に殺され、人が人をして人を殺しむるようになったのは。
「私の両親は、私のせいで死んだ」
この事実に辿り着くのに、それほど時間はかからなかった。なんせ私は、巷で女子小学生探偵として密かに耳目を集めるくらいには頭が良かったのだ。まぁ、これも天性の賢さというよりは、現場慣れしたことにより鋭くなった観察眼――刑事の勘ならぬ女児の勘の為せる業だったけれど。
「もう、私のせいで人が死ぬのは嫌だ。元々死ぬ運命だと言われても、そうやすやすと引き下がれないよ。ごめん」
「……いいえ。こちらこそ、ありきたりな言葉ですみませんが、その……咲さんのせいではありませんよ。ご両親もきっと、天国で咲さんを待っていると思います」
そうだと嬉しいな。二人が私を恨んでいなかったら。
天国か地獄で、待っていてくれたら。
『待ってるよ。でも、もう少し長生きをしてもらわないと困るかな』
「……咲さん?」
「…………」
言葉が出なかった。
ずっと会いたかった人。会いたくても会えなかった人。二度と会えないと思っていた人。
彼らの後ろ姿を見ても、すぐにそれとは信じられなかった。
でも、一方が振り向いて『久しぶり』と声を掛けてくれたとき、ほろほろと涙が溢れてくるのが分かった。もうすぐ死ぬと分かっても生まれなかった熱情。恋い焦がれる想い。なのにとめどなく、堰を切ったように流れ出てくる。言いたいことは山ほどあるのに、どれも綺麗にまとまらない。
いや、まとめなくていいんだ。今あるこれが、私の気持ちなのだから。
「お父さん……お母さん……」
彼らが触れたところから、亡霊の手は弾けるように四散した。纏っている黄金の光が、影を掻き消しているように見える。天国の住人と地獄の住人では、圧倒的な力量差があるのかも知れない。
『大きくなったわね、咲』
『本当だ。母さんより大きくなったんじゃないか?』
助け出された私は、顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら両親の懐へ抱きついた。聴いてほしい話は山ほどあった。無限に時間があっても、恐らく語り尽くせないほど、波瀾万丈な日々を送ってきた。私はよく、頑張った。
『小径ちゃん、だっけ。咲と仲良くしてくれてありがとうね』
「い、いえ、こちらこそ……。それよりどうして、あなた達がここに?」
『まぁ、俺たちの墓もここにあるからな』
「そうではなくて……。あなた達の生命力――いえ、運命力は……」
『ゼロだろう?』
父はなぜか訳知り顔で、小径ちゃんの台詞を先取りした。そうだった、この人は頭が良くて、飄々として、他人の行動を先読みするのが大好きな人だった。
「本来、主人公を救うことなど有り得ない立場ですよ」
『それは君も同じじゃないか』
「…………」
小径ちゃんは唇を噛んで押し黙った。
モブキャラと自称しておきながら、私を命の危機へ陥れた彼女。
亡骸を火葬された後でありながら、私を死の淵から引き揚げた両親。
彼らは同じイレギュラーだ。
『正直なことを言うと、俺たちがどうしてここに居るのか、自分でもよく分からない。ただ、君たちの想いが、行動が、運命の予定表に隙間を作ったことは確かだ』
顔を上げると、父と真っ直ぐ目が合った。見透かされたような気がした。
私がこのまま、両親と向こう側へ行きたいと思っていること。遅ればせながら、彼らと同じ運命を辿りたいと考えていること。
もう、生きるのは嫌なのだ。もう十分生きただろう。死者を出さない誓いを守り、運命にはできる限り従い、他人を巻き込み蹴落として、ここまで生き抜いてきた。
まだ、駄目なのか? ひょっとしたら私は、死にたくて戻ってきたのかも知れない。小径ちゃんを助けるなんて本当はどうでも良くて、主人公らしい自己中心的な考えのままに命を投げ出そうとしたのかも。
だって、私は簡単には死ねない。運命の用意した道を歩いている限り、主人公に死は訪れない。なら多分これが、千載一遇のチャンスなのだ。親不孝だと言われようが、契約不履行だと言われようが、私はここで――。
『一緒に来るか?』
父が、挑むように手を差し伸べてくる。イラッとした。だけど多分、それが最後の一押しだった。
「……冗談」
私はその手を、ハイタッチの要領ではね除けた。
「大好きな子がいるの。多分、一生結ばれることはないけれど、本当に、大切な子だから」
『どうして結ばれないって分かるの?』
母が興味津々に尋ねた。ああ、確かに、ミーハーなところがある母親だった。
「どうしてって……」
『灯ちゃん、だっけ? 愛想が良くて可愛い子よね』
「は? え、知ってるの? なんで知ってるの?」
『たまに現世の様子が見えるのよ。ほんとたまにね』
「じゃあ分かると思うけど、私は脇本くんって子と同じクラスで、二回連続席が隣で、遅刻しそうなときに道でぶつかって、小学生のとき既に出会ってて……」
『ねぇ、咲』
母は私の頭を抱いて囁いた。
それは、私のこれまでを全否定する言葉。
そして、私のこれからを全肯定する言葉。
『あなたは自由よ』
自由。自由って何だっけ。自分で決めても良いってことか。何を? 生き方を。感情を。目標を。好きになる相手を。
そっか。
私はずっと、自由だったんだ。
勝手に誰かの意図を汲んで、見えないルールに縛られて、存在しない敵に囲まれて、不自由だと思い込んでいた。ここから飛び出したいと願っていた。だけど、私は自由だ。
灯を好きになっても良いんだ。
『さぁ、下に戻ろう。早くしないと、肉体が先に朽ちてしまう』
タイミングを見計らって、父が私たちに声をかけた。彼は既に小径ちゃんの脇に立ち、下に押し出す準備を済ませている。
「よし、行こう小径ちゃん」
「……信じますよ、咲さん」
まもなく、私たちは決死のダイブを敢行した。もうかなり上空にいるので、一度落ちたときよりも怖い。さながらスカイダイビングのようだが、目を瞑りたくなるのを必死に堪えた。幸い、実体を持たない身体に風圧は関係ないようだった。
「小径ちゃん、あれ!」
豆粒のようだった灯の姿が、次第に大きくなって迫ってくる。
彼女は死にかけの私の側に佇み、小径ちゃん(の偽物)と話し込んでいる。確かに小径ちゃんの肉体は、別の魂によって操られているようだった。これを見破るのは、霊的なことに日頃から触れていないと難しいだろう。あるいは、人間観察の能力や洞察力が試される。小径ちゃんが無理だと宣言したのも頷けるが、
果たして、灯は――。
「咲から離れろ、このストーカー!」
――それに、塩を振りかけた。
「有り得ない……」
小径ちゃんが小さく呟くのが分かった。私は心の中で『勝った』と思った。
やっぱり、灯には運命を切り拓く力がある。彼女は主人公の私よりもずっと、自由だ。
遙か遠くで微笑む両親に手を振りながら、私は懐かしの肉体に戻った。人工呼吸で唇が触れる前に戻るのは苦渋の決断だったけれど、ファーストキスはまた今度、正々堂々と奪ってやろうと心に決めた。まぁ、当分はビビって実行に移せないだろうが。
そうだ。今度、灯にも私の両親の話をしよう。
口から口へ。語り継がなければ、思い出は褪せていってしまうから。
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