弐祓之捌-Ⅱ
2-ⅩⅨ
「み~ちゃん?」
金色の光が徐々に薄らぎはじめた頃、綾子は階上を見上げて小さく呟いた。
「どうした?」
その呟きを大きな耳で聞き取った黎は、綾子と明羽が心配そうに上を見上げているのに気が付いた。
「黎さん、上から冴種の気配がします。」
力が封じられているとはいえ、冴種から逃げ回るのに、気配は重要な指標である。明羽はここにきてから、僅かな気配も逃すまいと感覚を広げていた。
先ほどまでは、怨霊の気配に圧倒されていたが、今は神力のおかげで余裕を取り戻していた。
「…上にいるのか?」
黎も二人に習って階上を見上げるが、黎の感覚では気配を察知できなかった。
だが、翠が何者かと闘っていることだけは解った。
「俺としたことが…。」
周囲に気をとられて、主のことに気が付かなかった黎は、拳を握り締めた。
「行って来る。結界から出るんじゃねぇぞ。」
黎は振り返って短く言うと、翠の気配のする方向に向けてジャンプをした。
だが、黎の体は天井近くで弾き返され、床に叩き付けられてしまった。
「な、何?」
驚愕する黎の目の前に、ぼんやりと人影が現れた。
綾子達は目を眇めてみるが、はっきりしない。
「行かせない。」
人影が一言、言葉を発した。その声は、高く澄んでいたが、棘を感じさせる。
「ま、また何か出てきたのか?」
前田がベンチの後ろに身を隠すように屈む。
「貴様、何者だ?」
一切気配を感じさせずに、黎の動きを阻止できる存在。
「……。」
人影は何も答えない。
「テメェの差し金かっ!?」
不穏な気配を揺らめかせて静かに佇む影に、黎は声を荒げる。
「哀しいねぇ。私の声と気配を忘れてしまったのかい?」
ぼんやりとした人影が、霧が晴れるように次第に陰影がはっきりしてきた。
黎は、何の事かと目を細めて、相手の出方に備えた。
現れたのは、黒い艶のある衣服に身を包んだ女性。その髪と瞳は、燃え盛る炎のように、真っ赤に煌いている。
「貴様、紅蓮か…?」
黎は、低い声で呟いた。
「知り合いなの?」
明羽は、綾子を後ろに押しやりながら、黎に聞いた。
「ああ、遥か昔のな…。」
「昔だなんて、私は今も、あなたをお慕い申し上げているのに…。」
紅蓮と呼ばれた女性は、厳かに膝を折って頭を垂れる。
「よく言う。魔界を抜けた俺を真っ先に攻撃してきたのは、テメェだろうが。」
黎は、右手に影響力を集中させ始めた。
「――数百年経っても、お戻りになる気はないと…。」
不穏だけれど、静かだった紅蓮の気配に変化が生じた。
「神に焚き付けといて悪ぃが、ここが今の俺の居場所なんでな。」
先に仕掛けたのは黎だった。
影響力で紫色に光る拳を突き出すと、光は大きく広がり、紅蓮を包み込んでしまう。だが、紅蓮は全く動じる様子も無く、右手を前に翳した。
すると、黎の発した紫の光は紅蓮の右手のひらの前に凝縮し始めた。そのまま、手のひら大の小さな光の玉となってしまった。
「龍鬼様、このような術では、物足りませぬ。力は魂、魂は力。私の許容量を越えなければ、どのような力も、私には通じぬこと、お忘れかい?」
紅蓮は魔族である。にもかかわらず、藍子の放つ神力が溢れているこの場に平気で立っている。
「物理的な力なら、問題ねぇっ!!」
黎はそう言うが早いか、一気に紅蓮との間合いを詰めて、下から抉るように紅蓮の腹部めがけて拳を繰り出した。しかしその拳は、紅蓮にあたる寸前でピタリと止まった。
「な…に…?」
黎は即座に後ろに飛んで、紅蓮との距離を開ける。
「龍鬼様、私も以前のままではないのだよ。」
紅蓮は紫の光の玉を、黎に向けて投げた。玉は、再び大きく広がり、今度は黎がその光に包まれてしまった。黎は体を大きく捻り、光を霧散させる。
「龍鬼様、これをごらんなさい。」
紅蓮が頭上で右手を握り締めて、顔の位置でパッと開くと、弱々しく光る白い玉が現れた。
「何、なんか悲しそう…。」
綾子には、白い光が泣いているように見えた。
「そいつは誰の魂だ?」
「魂!?」
黎の言葉に、綾子達は驚きの目を向ける。
「ふふ、私は
驚愕の表情を浮かべる綾子達に説明するように、紅蓮は誇らしげに胸をはる。
「筋肉しか能の無い魂は、正直、腹の足しにもならないけれど、人間を脅すには丁度良い道具になる。」
紅蓮は、妖しい笑みを浮かべて白い光の玉を撫でる。
「筋肉? ……まさか、雷應か!?」
少し考えて思い当たるのは、昼間、綾子を襲ってきた冴種姉弟。
直接ぶつかってはいないが、翠を通して見ていたとき、確かに弟の方は、力技ばかりだったように思える。
「光が、消える…。」
明羽が、金色の光が急速に薄まってきたことに気が付いた。周囲はどんどん暗くなっていく。
「そいつを返せっ!」
黎は少し焦った。
光が消えれば、冬花が動き出すだろう。
元に戻っていればいいが、そうでなければ、力を求めて階上に向かう可能性がある。
もし、冴種 香織が翠を襲っているというのなら、紅蓮に時間を掛けている暇は無かった。
瞬時に間合いを詰めた黎は、紅蓮の前で浮かんでいる白い光に手を掛けた。そのまま自分の方へ引き寄せ、体を捻った。
その勢いに任せて、一回転し紅蓮に回し蹴りを喰らわせる。紅蓮の体は吹き飛び、店舗に突っ込んで盛大な音を立てて止まった。
黎の手の中には、小さな光の玉が残っている。
明羽の横まで戻った黎は、光の玉を渡す。
「紅蓮! 雷應の体は何処だっ!?」
紅蓮の突っ込んだ店舗に振り向いた黎の大きな声が、暗くなったフロア中に響き渡った。だが、紅蓮の返事は帰って来ない。
「紅蓮っ!」
ぽっかり口を開けた店舗の奥からは、既に紅蓮の気配は感じられない。
先ほどまで一片の気配も感じさせなかった紅蓮。その能力は恐らく、冴種の紋章以上。
黎は、綾子達の結界を、自らの血を一適垂らすことで強化した。
「良いか、ぜってぇこの結界の中から出んじゃねぇぞ!」
そう言い置いて、紅蓮の突っ込んだ店舗に向かった。
「一体、何が起きてるの?」
明羽は、突然の展開に戸惑っていた。
後ろには、小さくなって、ベンチの陰に隠れている前田と、一向に目を覚まそうとしない斎木。
綾子は、よほど翠のことが心配なのか、ずっと階上を見上げている。
手の中に残された小さな光は、弱々しく輝いている。
辺りはすっかり暗くなったが、あれほど溢れかえっていた怨霊は、見当たらなくなっていた。
2-ⅩⅩ
藍子はガクッとくず折れて、膝を突いた。
神の力で宙に縛り付けられていた冬花も、糸が切れた操り人形のように、床の上に落下した。冬花は、昼に会ったときと同じ、小さな狐の姿に戻っていた。
「――冬花さま……。」
藍子は肩で息をしながら、何とか立ち上がった。
信じられないと言うように、自分の手を見詰めていた冬花が、藍子の呼び掛けに顔を上げた。
「お主…。」
冬花は、体中に満ちる清らかな力を、久方ぶりに感じて、その大きな目から涙を流していた。
「戻られたのですね。良かったです。」
ふらつきながら近寄る藍子を、背の低い冬花は藍子のすねに手を添えて、何とか支えようとする。
「迷惑を掛けてしもうたな。わらわが持ち掛けた話じゃと言うのに…。」
藍子は、冬花の前に屈み込み、そっと微笑んだ。
「状況が状況です。今はそのことは気にせずに行きましょう。」
怨霊がいなくなったのはいいものの、それ以外の気配が感じられる。
「とりあえず、黎さんたちと合流しましょう。」
ふらふらな藍子は、冬花に支えられながら歩き出した。
「いろいろと、面倒臭い事になっておるようじゃの…。」
冬花は、気配を探り呟いた。
「じゃが、遥か上空に靄のようなものがかかっておるからか、母親の霊の気配が感じられん。」
「靄の先には、翠ちゃんの残滓が宿る写真があります。昼間にちゃんと始末しておくべきでした。」
もし母親の霊が靄の先いるのなら、当然、狙いは翠の力の残滓を手に入れることだろう。自分の読みの甘さに藍子は唇を噛んだ。
「もう一つの不穏な気配は何じゃ?」
「もう一つ?」
「解らぬのか? 今は身を潜めておるようじゃが、わらわには、はっきり解るぞ。」
社自体は小さくなってしまっているが、ここは冬花が守護する地。その感覚は全体に及んでいる。当然、その中に “余所者” が入ってくれば、簡単に察知できる。
藍子には、その存在を察知できないが、進む先から大きな物音と黎の叫び声が聞こえてきた。
「あの鬼が闘っておるようじゃの。」
冬花にとって、黎はあくまで鬼に変わりないようで、すこし表情を歪めた。
前方には、綾子たちが結界に包まれているのが見える。
明羽の手元には、白い光の玉が浮かんでいた。
「…あれは?」
「魂じゃの。」
藍子の問いに、冬花が簡潔に答えた。
「あ、藍子さん。」
藍子が近付いてくるのに気付いた明羽が、呼びかけた。迎えに来ようとする明羽を、藍子は手を前に出して制した。
冬花に支えられて結界の中に入った藍子は、改めて周囲を見回し、通りの向こう側の壊れた店舗を覗き込む黎を発見した。
「その魂、気配からして雷應さんですね?」
結界の中に入って弱々しい気配を感じ取った藍子は、その正体を当てた。
「紅蓮とかいう赤い髪の魔物が、肉体から抜き取ったそうです。」
「…魂は力、力は魂、じゃったかの?」
紅蓮の名を聞いて、冬花が小さく呟いた。
「おい、鬼よっ!後ろにおるぞっ!!」
冬花の声に、黎の後ろから紅蓮が姿を現して、黎の後頭部に刃と化した右腕を振り下ろした。その攻撃よりも早く黎は前転し、体を捻って紅蓮を正面に捕らえる。
だが、紅蓮は再び姿を消し、次の瞬間には結界に包まれた藍子たちの前に現れた。
「貴様っ!?」
黎が慌てて戻ってこようとするが、その間に紅蓮は冬花を睨みつけて結界ごと押し潰そうとするかのように、右腕を振り下ろした。
紅蓮の刃が結界に触れて、火花を散らす。
だが、黎の血で強化された結界は堅く、まったく揺らぎもしなかった。
「紅蓮っ!!」
黎は両手を頭の上で組み、紅蓮の頭に振り下ろした。黎の攻撃が紅蓮に当たる前に、再びその姿が消え、黎の両手は空を切った。
「後ろじゃっ!」
冬花の声に黎は即座に反応し、右手に瞬時に影響力を集めて、背中越しに撃ち放った。その攻撃は見事に直撃し、紅蓮が少しよろめきながら現れた。
「邪魔な古狐め!」
紅蓮は、冬花を睨みつけた。
「神族の中でも、お主の評判は最悪じゃぞ。せっかく見守り育った魂たちを横取りされるでな。」
冬花も負けじと睨み返す。
「紅蓮、雷應の体は何処だ?」
黎が2人の睨み合いを遮って、同じ問いを繰り返した。
冬花が元に戻ったことを知った黎は、少し落ち着きを取り戻していた。
「そんなに知りたければ教えて差し上げましょう。」
そう言うが早いか、紅蓮は床に邪気の塊を投げつけた。邪気は瞬く間に拡がり、床を浸蝕してしまう。
ボロボロになり重さに耐え切れなくなった床は、その大部分が崩れ落ち、結界に包まれた藍子たちも一緒に下の階に落ちてしまった。
あらゆる衝撃を結界が吸収し和らげてくれたおかげで、怪我する者はいなかったが、着地した黎が上を見上げると、そこには既に紅蓮の姿は見えなくなっていた。
「今回は、ここで手を退くことにしましょう。しかし龍鬼様、いつかまたお迎えに上がりますゆえ、それまでにはお心変わりをお願いしますね。」
そう言葉を残して、紅蓮の気配は冬花にも感じられなくなってしまった。
「あったっ!」
綾子の声に、皆が一斉に指差す方を振り向くと、立派な体格をした男が、瓦礫にまみれて横たわっていた。
黎が瓦礫を退かし、明羽が雷應の魂をその顔の近くに持って行くと、肉体に反応した魂が額から、吸い込まれていった。青白い顔は、次第に赤味をさして、やがてその両目が少しずつ開きはじめた。それと同調するかのように、ずっと気絶していた斎木がようやく目を覚ました。
「やっとお目覚めか…。」
冬花が冷たい視線を向けて呟いた。
「冬花さま。」
冬花の態度に、藍子が苦笑いを浮かべた。
前田は、頭を振りながら立ち上がり、惨憺たる状況を目にし、顔を蒼白にしていた。
まだ頭がボーっとしている雷應の周りに、一同が集まっていた。
「紅蓮の弱点は、魂の主の肉体から遠ざかると、その魂を維持出来ねぇことだ。だから、弱っているとはいえ、魂がその形を維持している以上は、近くに雷應の肉体が存在していることになる。」
黎が紅蓮にしつこく質問を繰り返した理由を話していた。
冬花が元に戻り、紅蓮がいなくなったことで黎は、完全に余裕を取り戻していた。翠のことは気になるが、感じられる気配からそれほど切羽詰ったようすは感じられない為、急ぐこともないと落ち着いていた。
黎の落ち着きように、藍子たちも体制を立て直すことを優先することにした。
使い慣れない神力を一気に放出して、激しい眩暈に襲われている藍子。
神力を取り戻したとはいえ、闇から光への急激な力の変化に付いて行けていない冬花。
魂を奪われ未だに意識がはっきりしない雷應。
ここには、力を持つ者で自由に動けるのは、黎のみだった。
綾子と明羽は、前田と斎木と一緒に、藍子が張り直した結界の中で静かにしている。
「母親の霊は、ほぼ確実に翠ちゃんの力の残滓を狙っています。」
クリアになった周囲にまったく気配を感じないことから、やはり靄の向こうと判断できた。
「あの靄は一体何だ?」
黎が上空を見上げながら聞いた。
二重三重に張り巡らされた結界。
不思議なことに、この中では時空の歪みが全く発生していなかった。
ただ力を遮る盾のような個人結界なら問題はないが、空間を歪めて力の方向性を曲げてしまう隠里の結界などは、複数の術者が重複して張ると力が反発し合い、穴となって周囲のモノを吸い込むいわゆるブラックホールのようなものになってしまうのが通常である。
「私が建物全体を覆う結界を張っています。そして、1階と2階の間に、隠里の結界が張られていますね。その上にあの靄のような結界。」
藍子の結界は、外部へ力が漏れないように、また外部から人が入って来ないように力の方向性を修正している結界。
隠里の結界は、内なる空間を取り込んで別空間とし、同じ場所に架空の空間を創り出す結界。
更にその上の階から力を感じるという事は、隠里の結界はその階より下、つまり2階から5階までの間に張られている事になる。
靄のようなものが結界だとしたら、三重にはなっていないものの、それぞれが二重結界となっているはずなのである。
「あれは結界じゃない。」
首を捻る2人に、雷應がポツリと呟いた。
「隠里の結界は、力を大量に使うから、姉が他に結界を張ることはない。」
雷應が言うには、その場に存在している
「何でこんなことになっている?」
状況を掴めない雷應が、立ち上がりながら聞いてきた。
「テメェらが不甲斐無ぇから、こんな事になってんだょ…。」
黎には教える気がないようで、ぶっきら棒に答えた。
藍子が、手短に今までの経緯を説明すると、雷應は居心地が悪いのか、肩をすぼめて小さくなっていくのが解った。
「俺達は、あの後、あんたらが居なくなったのを見届けてから、隠里に帰ろうとしていた。」
雷應が沈んだ声で説明を始めた。
「人目のない場所から、隠里に移動しようと路地に入ったところまでは覚えているんだが…。」
どうやら雷應は、そこで紅蓮に魂を抜かれたらしい。そこから先は、何も覚えていないようだ。
「二重結界になってねぇのは何故だ?」
1階と2階の間に張られた隠里の結界。
その境目は、二重結界の影響であらゆるものを吸い込む穴となっていても可笑しくはない。
「隠里の結界は、どのような状況でも成立するように、細かい印形が組み込まれた札で発動する特殊な結界だ。」
印形が状況に合わせて、力の方向性を調整するから、大概の結界と共存できるという。
「成程です。周囲に札を貼るのは、印形だからなのですね。」
前回、
それを使えば、複雑な呪文も精神統一も必要なく、ただ、発動を念じて封印を解くだけ。込められた力の分だけ、いくらでも使える代物。
だが、威力の調整などはできない上、込められる力にも限界があるため、あまり強力な術を封じることは出来ない。
「あの結界の印形は、白の一族を守る為に、特殊な作られ方をしているからな。」
印形により力を調整する以上、普通の作り方ではありえない。ただ、企業秘密ということで、雷應はそのことについて話そうとはしなかった。
「さて、これからどうするよ?」
黎が藍子に向き直って聞いてきた。
「そうですねぇ…。」
今の藍子には、移空転時を行うだけの余裕はまだない。ここにいる者で隠里の結界を突破できるのは、黎と雷應のみ。
明羽や綾子も行けないことはないのだろうが、何分、戦闘力に欠けている。
「先ほどの紅蓮とかいう魔族が、本当に居なくなったとも限りませんし…。」
紅い妖艶な魔族は、黎ですらその気配を感じられなくなる程の実力者。
冬花にはもろバレだったとはいえ、油断できないのは確かである。
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