弐祓之捌-Ⅰ
2-ⅩⅦ
藍子は
「何て数なの…。」
藍子の張った障壁が目の前でビリビリ震えている。
冬花との距離が近すぎて、障壁を張るのが精一杯だった。
後ろをチラッと見ると、翠が斎木達を庇いながら怨霊と戦っていた。龍牙力の宿った聖剣・正宗を縦に横に振るい、怨霊を切り裂いていく。
斎木は相変わらず気を失ったままだが、前田はしっかり意識を保ち、周囲を見回していた。
「藍子姉!」
翠が藍子に呼び掛ける。
絶えることなく溢れてくる怨霊に、さすがの藍子も少し押されていた。
「黎と合流して2人を預けてくるわ! んで、上にあるやつを処分してくる!!」
翠は目の前に迫ってきた怨霊を切り伏せ、続け様に冬花に向けて龍牙力の塊を放つ。龍牙力の塊は冬花をふらつかせ、怨霊の動きが鈍くなる。
その隙に藍子は冬花と距離を置き、体勢を立て直した。
「ありがと、翠ちゃん。」
翠は前田を立たせると、その背中に斎木を背負わせた。
「気をつけてね、藍子姉。」
翠は藍子に軽く手を振って、来た道を戻っていく。
「確かに、上にあるパネルを何とかすれば、怨霊達の勢いを止められるかもしれませんね。」
吹き抜けの天井を見上げる藍子の前で、冬花がゆっくりと浮かび上がった。
「冬花さま…。」
藍子は右手を持ち上げ、冬花に手のひらを向ける。
「まだ邪魔をする気かの?」
冬花は鋭い目で藍子を射竦めようとするが、藍子に怯む様子はない。
普段、温和に見える藍子だが、退魔師長に就任する妹の紫よりもはるかに場数を踏んでいる。冬花の威嚇程度では、怖気づくはずもなかった。
「落ち着いて下さい、冬花さま。わたしがすぐに癒してさし上げます。」
前に突き出した右手のひらの前に、水色の光が集まりだす。
「我ら神の眷属に逆らう気か?」
「あなたが、怨念に取り込まれていなければ逆らったりはしません。」
手のひらに集まった聖龍牙力は、その光を強めだす。
「元の優しい冬花さまに戻ってください。」
―聖なる龍牙よ
優しき心を 癒し給へ―
水色の光が宙に浮いている冬花に伸びていく。
冬花に避ける気配は見えない。
「…冬花さま?」
藍子は少し動揺し、詠唱が遅れる。
「!」
冬花はその隙を見逃さず、突如、藍子に向けて突進してきた。
―神修道法術
慌てて詠唱を完成させるが、冬花は素早い動きで体を捻り、清光龍を軽く避ける。
「くっ!?」
藍子は右手を振り払って、清光龍を霧散させ、眼前に迫ってきた冬花を寸でのところでかわした。しかし、完全にはかわしきれず、その白い右頬に紅い線が一筋、刻まれる。
「まだまだ甘いの。」
冬花は間髪入れず、右前足で藍子に襲い掛かる。藍子も、振り向きざまに障壁を張り、冬花の一撃を受け止める。
「ちぃっ!?」
冬花は障壁との接触で、足の毛が焦げるのを見て後ろに飛び退く。
今度は藍子が攻勢に出る。
右の人差し指に聖龍牙力を集中させて、冬花に向けて突き出す。
すると聖龍牙力が眩く輝き、冬花の視界を塞ぐ。
その隙に藍子は、冬花の懐に飛び込んで、右手のひらを冬花の腹部に当てる。
―神修道法術 清光龍―
先ほど失敗した術をゼロ距離で発動させる。
冬花と藍子の手のひらの間に、聖龍牙力が溢れ出し、その光はそのまま冬花を包み込み始めた。
「っく……っ!?」
冬花は清光龍を振り払おうと、体をくねらせながら後ずさる。
「逃しませんっ!」
藍子は手のひらから伸びる聖龍牙力の光を掴んで、引き寄せる。
「邪魔をするでないっ!!」
冬花が大声で吼えると、冬花の体を包んでいた清光龍が弾け飛んでしまった。
「そんなっ!?」
藍子は反動で後ろによろけ、たたらを踏む。体勢を立て直して冬花を見ると、その体から、再び無数の怨霊が飛び出してきていた。
「冬花さま! あなたはいったいどれだけの怨霊を、その内に溜め込んでいるのですか!?」
藍子は冬花との距離をとりながら、声を荒げる。襲い掛かってくる怨霊を、障壁で弾き飛ばしながら、冬花の動向を見守る。
「浄化し続けるのも、限界があるのじゃよ。浄化できなければ喰らうしかなかろう?」
冬花はそうやって、神社に巣食う怨霊を封じてきていた。暴走した母親の霊の怨念に引きずり込まれてもおかしくはない状態だった。
「随分、無茶をしたのですね。でも、もう終わりです。」
藍子は全てを包み込むような優しい笑顔を、冬花に向けた。
藍子の周りには、いつの間にか清浄な光が溢れていた。その光に触れた怨霊は、為す術もなく浄化されていく。
それは藍子の内から溢れだす神力だった。
「…お主、何故、その身に神力を宿せる。」
神でも、ましてや神の眷属でもないただの人に、神力が使えるわけがなかった。
「わたしは巫女です。神をこの身に降ろすこともあります。」
神降ろしにより、その体内には、僅かだがその神の力が体内に残る。藍子はその力を、溜め込んできたのである。
浄化の力は、聖邪ともに使える龍牙力よりも、神聖な力に充ちている神力の方が大きい。
龍牙力は術者が力のベクトルを変更して初めて浄化の力となるが、神力はただそこにあるだけで浄化の力を発揮する。
「わたし自身の力ではないので、留めて置くのは大変ですけど、このように役に立つこともあります。」
右手のひらに金色の光を集めながら、藍子は冬花を見据えた。
「冬花さまに、浄化の力が無くなってしまったのなら、わたしがこの力であなたに巣食う怨霊を浄化して差し上げます!」
龍牙力では見ることの出来ない、金色の光は正しく神力。
今までにどれだけの神をその身に降ろしてきたのか、その力はどんどん藍子の体から溢れ出てくる。
周囲が金色の光で照らしだされる。
冥く澱んでいた空気が清められ、溢れていた怨霊も苦悶に満ちた顔を安らかな表情に変えて、次々に浄化されていく。
「この力で、母親を癒すつもりでしたが、まさかあなたに使う事になるなんて!?」
藍子は驚愕の表情を浮かべて立ち竦む冬花に向けて、神力を解き放った。
使い慣れない力の制御に、藍子は脂汗が浮かんでくるのを感じた。下手をすれば、神力に自分の命が引きずられそうになる感覚に焦りを覚えるが、負けるわけには行かない。
気を引き締め、足を肩幅に開いて腰を据えて、力の制御に集中する。
冬花がどうなっているかなど、今の藍子には気にする余裕がなくなっていた。
2-ⅩⅧ
翠達が怨霊を掻い潜って綾子達と合流した時、周囲が金色の光で照らし出された。
「何だこれは?」
光に触れた怨霊が次々と浄化されていく。
「これって、龍牙力じゃないよね?」
翠が初めて感じるこの力は、極めて清浄な気配を漂わせていた。
「気持ちいい。」
綾子が光を浴びて、清々しい笑顔になる。
「これは神力だな。」
この中で、唯一、神に関わった経験を持つ黎が呟いた。
前田は、背負っていた斎木を、綾子達が座っていたベンチに寝かせる。
「冬花さまが正気に戻ったとか?」
翠が明るく言った。
「違うことぐれぇ、解ってんだろ?」
黎が妙に冷めた風に言う。
「ま、怨霊が消えていいんじゃねぇか?」
周囲を見回す黎に釣られて、綾子たちも顔を上げると、怨霊が浄化されていっていた。
「本当、消えていってる。」
綾子と明羽は、恐ろしい顔をした怨霊の表情が、安らかになって消えていく様に、感心しているようだった。
「これで終わるの?」
その綾子の問いに、翠は首を横に振って答える。
「まだよ。肝心の親子の霊が残っているわ。」
冬花がこれで元に戻るかも解らない。まだまだ油断のできる状況ではない。
「それより、早く行け!上にあるパネルの力が利用される前に、消滅させて来い!!」
今ならまだ、影響を与えているぐらいで、それほど問題はない。だが、力を失えば、新たな力を求めるのは、世の常である。
「あの古狐が正気に戻らねぇのなら、当然、狙ってくるだろうよ。」
力の戻った今の翠なら、写真展の会場のある6階にはすぐに辿り着けるだろう。
翠は手にした正宗を軽くさすっている。
「…どうした?」
正宗を見る翠の顔が曇って見えた。
「…何でもない。行くわ。」
正宗を横に一閃して、翠は目的地を見定めて、エスカレータに向かって走りだした。
「み~ちゃんっ!?」
綾子が心配そうな声で呼び掛けた。
その声に、翠は大きく手を振って答えた。
エスカレータから、2階に駆け上がった翠は、不思議な感覚を感じた。
周囲を見渡すと、辺りは薄暗く静まり返っている。それまで溢れていた神力が突如、途切れていた。
吹き抜けから下を見下ろすと、藍子の体が金色に輝いているのが見えた。
手前には、固まっているかのような冬花も見て取れる。
吹き抜けである以上、2階にも神力が届くはずなのに、何かに仕切られているかのように、まったく届いていなかった。
「何?」
あまりに不自然なこの状況に、翠は警戒を強め、周囲の気配を探る。
「何も感じない。」
また力が使えなくなったのかと不安になりかけるが、階下からはみんなの気配が、階上からもパネルに宿る自分の力が感じられる。となると、考えられることは、翠に感じられないほど、気配を絶つことが出来るモノが、存在しているということ。
藍子や黎も気が付いている様子は見受けられなかった。百戦錬磨の2人すらも欺ける存在。
翠は正宗を持つ手に力を込める。
階下で繰り広げられている戦いの音は、どんなに耳を澄ましても、何も聞こえて来ない。
この階にあるのは、静寂だけ―。
明らかに、ここは誰かの結界の中である。
取り敢えず、翠は上に向かうことにした。このままここに留まって居たのでは、藍子に迷惑をかけるかもしれない。階下の音や力は通らないが、階下から逃れてきた怨霊が辺りを彷徨っている。
つまり、動けるようになった冬花が、上にある翠の力の残滓を奪いに上がってきても可笑しくはない。
正体が解らないのなら、今は突き進むのみ。翠は、躊躇なく階上に続くエスカレータを駆け上がり始めた。
下から逃れてきた怨霊が、翠を見つけて襲い掛かってくるが、束になってかかって来なければ、大した事はない。
翠は正宗で怨霊を切り裂いて先に進んでいく。
3階を越え、4階に差し掛かったとき、翠は危険を感じて大きく飛び上がった。そのまま、4階の踊り場に着地する。
振り向くと、エスカレータの前に、人影を見つけることが出来た。
「…誰?」
その手には、刀が握られているようである。敵意は感じるものの、それが誰のものかは解らない。巧妙に隠されているようである。
「やるわね。さすが、龍牙の申し子。」
翠はその声に聞き覚えがあった。
「その声、もしかして香織さん?」
「どういうこと? 手を退くんじゃなかったの?」
香織からは強烈な敵意を感じる。
昼間、闘ったときよりもその意志は強く、翠の全身に鳥肌が立っていた。
「…
香織の傍には、雷應の姿は見当たらない。
ただでさえ、冴種は、気配を絶つ紋章の効果で感じ取り難い。その上、自ら気配を絶ってしまえば、先程までの香織のように、完全に気配を消してしまえる。物理攻撃に個人結界は効かない。
もし、香織が敵意を剥き出しにして襲って来なければ、翠はエスカレータの前で切り殺されていただろう。
「雷鷹は、居ないわ。あの子の中途半端な結界じゃ、あなた達は誤魔化せないでしょうから、隠れ家に置いて来たわ。」
香織の敵意は、今や完全に翠の心を支配していた。
「何故、こんなことするの?」
翠は体が震えそうになるのを、必死で堪えた。
「あなたの力を試してみたくなったの。」
「…試す…?」
さっきの攻撃は本気だった。本気で翠を殺そうとしているようだった。とても試しているようには思えない。
「悪いけど、あなたにかまっている場合じゃないの。」
ここから、下の様子は解らない。
だが、下から逃れてくる怨霊が後を絶たないところを見ると、まだ戦いが続いているのは確実だろう。
「あの狐は、どれだけ怨霊を呑み込んでいたのかしらね?」
香織は、うざったそうに怨霊を斬り捨てながら呟いた。
「全部、承知の上ってわけね…。」
翠は正宗を体の前に構え直して、戦闘体勢を整える。
「本気でやらないと、今度は死ぬよ。」
次の瞬間、香織は一気に間合いを詰めて、刃を振り下ろした。
翠は正宗で受け止めるが、勢いを殺しきれずに、片膝を突きそうになる。
更に、翠の耳に嫌な音が届く。
「~っ!?」
音の出所は正宗の刃。見ると、結び合ったところに小さなヒビが見て取れた。
「あなたに、その刀は役不足のようね。」
香織は、刀に力を込めて押し出す。正宗のヒビが大きくなっていく。
「くっ!? そ、そんなこと…ないっ!!」
翠は正宗に力を注ぎ込んで、香織の刀を弾き返した。
翠の力を注がれた正宗は、その刃を水色に輝かせて、ひび割れていた箇所も修復されているようだった。
「この子は、私の相棒よ。ずっと一緒に戦ってきたんだから!」
翠の言葉に答えるように、正宗が一際強く輝きだした。
「なんと言おうと、どんなに誤魔化そうと、その刀ではあなたの力を支えきれないのよっ!!」
再び踏み込んできた香織の刃を、翠は後ろに飛び退いて交わす。そのまま足を折りたたんで、その反動を利用して、正宗を香織に向かって突き出したが、横にヒラリと交わされた。
翠は空いている右手で床を叩き、天井近くまで大きく飛び上がった。
正宗を両手で持ち直し、香織の頭めがけて振り下ろす。
だが、そんな大きな動きでは当然、香織に動きを読まれ、この一撃も避けられてしまう。
更に香織は、即座に刀を横に薙いで、翠の首を狙う。翠は正宗でその刃を受け止める。
水色に輝く刃はその攻撃を弾き返し、香織はよろけて手摺りまで後退した。
「ふぅん…。」
香織は、刃の露を払うように一振りした。
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