黒土城
Tsuka49
〈序 章〉0、篠原城の城主
〝それは、宙より現れた〟
〝この世の覇者のごとく天に聳え、人々を地獄へと叩き落としたのである〟
篠原城の鍛錬場に、「やぁ!」「とぉ!」と子供の声が飛んでいた。声の主は、十二歳を迎えたばかりの篠原恭一郎なる少年で、篠原城の跡継ぎである。篠原家は関東の大名家として君臨しており、現在は父の篠原隆正が城主を務める。しかし、
(本当は、この恭一郎が城を継ぐ予定はなかった)
元気な息子の声を聞きながらも、隆正は亡き息子たちを哀れんだ。
恭一郎は隆正の三男であり、かつて二人の兄がいたのである。けれども、隣国・久藤家との戦により、長男の則正と、次男の勝久が相次いで戦死した。久藤家の作戦を見抜けず、その上、傭兵たちが撤退したことにより、命を落としてしまったのだ。その死は篠原家に悲劇を齎したが、隆正は執念の思いで二年の時を費やし、久藤家を滅亡にまで追いやった。それから六年の月日が流れると、篠原城から戦の色は薄まり、平和な日々が訪れていた。
(今日はまさに、稽古にはうってつけの日だ)
秋の風が心地良く、日照りも優れる。そして鍛錬場には、太陽のように輝く息子の姿があった。本来であれば、三兄弟が揃って鍛錬に励む姿を見たかったが、それはもう二度と叶わない。久藤家との戦に勝ちはしたものの、失ったものはあまりにも大きかった。
隆正には、息子のほかに娘も二人おり、どちらも恭一郎の姉に当たる。しかし、その娘たちも今は篠原城にはおらず、戦に勝つための政略結婚の道具として他家へと嫁いでいる。よって、恭一郎は皆から愛される弟であったはずなのに、その弟に声を掛ける兄や姉の姿は篠原城にはなかった。
隆正が鍛錬に励む息子を眺めていると、
「これはこれは隆正様。ようこそいらっしゃいました」
と、一人の男がゆったりとした口調で声を掛けてきた。男の名は尾上貴一といい、恭一郎の付き人を務めている。齢は六十を超えており、喋る速度も年々遅くなっている。頭はすっかりと薄くなり、瞼も下がって目も半分ほどしか開いていない。しかし、最も忠実な篠原家の家臣として、隆正が生まれた頃より仕えつづけてくれている。
「息子はどうだ。順調に腕を上げているか?」
と隆正は尋ねた。
「えぇ、毎日筋力も上がり、木刀を振るう速度も上がっていますよ。しかし、剣術よりも弓術の才能のがやはりありますね。ご長男の則正様を彷彿とさせます」
その返答を聞いて、
「そうか、やはり私の血筋だな」
と自慢げに隆正はいった。
「的を狙うときに集中力がひどく上がるのは、弓取りで名高い篠原家の誇りといえよう。戦場で刀を振るうことなど少ないのだから、弓や槍、馬術に優れる方が賢明というものだ」
といいつつも、隆正の長男と次男は亡くなり、弓に優れる篠原家を後世に伝えられるのは恭一郎ただ一人。それに武術だけを極めたとて、この乱世を生き残れるとは限らない。勉学の方も恭一郎には熱心に取り組ませているが、そちらの方はあまり芳しくないという。跡継ぎとしては不安があるものの、この年齢の男子というのは、皆一様に勉学は嫌いである。軍議や歴史から学べることはたくさんあるが、その本意を子供の年齢で見出すことは難しい。実際、隆正が勉学に励むようになったのは、十六歳を迎えた頃である。まだ十二歳の恭一郎が武術にばかり没頭していても、なんら不思議なことではない。
鍛錬場で励む子は、息子のほかに四人いる。年齢は十歳から十四歳で、いずれも家臣たちの息子である。本来であれば、三兄弟で鍛錬に励む姿を見たかったが、それはもう叶わないため、こういった措置を隆正は取った。やはり、お互いに切磋琢磨する同士がいなければ成長は遅くなり、独りで鍛錬するのは限界がある。この子らについてだが、いずれ恭一郎の優秀な家臣として働いてくれることを隆正は願っている。同じ場所で汗水流して鍛えた仲間は、もし戦が訪れたとき、最も信頼できる仲間となり得る。必要以上の言葉を交わさずとも意志の疎通ができ、作戦の意図も素早く読み取る。隆正にもそういった者はいたものの、久藤家との戦いで、皆この世を去ってしまった。気付けば、
(私も随分と歳を重ねた)
鍛えることはやめていないので、いまだ隆々とした身体を持ってはいるものの、幼少期を共に過ごした者はもうほとんどいない。妻にも先立たれ、弟も戦死し、残る家族は恭一郎ただ一人なのである。家の存続のためにも、何としても守らねばならず、自分の身を自分で守れるように鍛えることもしなくてはならない。
「そういえば、恭一郎様が火縄銃の訓練もしたいと申しておりました。武術指南役は、まだ早いと断っておりましたが、隆正様も同じ考えでしょうか?」
そういって、付き人は顔をしかめた。
「そうだ。あれは反動があまりに大きく、相当な筋力がつかぬ限りは扱うものではない。それに、火薬と弾は貴重だ。遊び半分で手にとっていいものではない。火縄銃は威力はあるが、音はうるさく扱いは難しい。再装填に掛かる時間も長い。利便性は弓より劣るのだ」
すると、
「いつかは、もっと優れた火縄銃も開発されるでしょうか?」
と付き人は妙なことを口にした。
「火縄銃は今のままでも脅威ですが、いずれは連射が可能なものも出てくるかもしれません。そうなったら、弓は今ほど活躍せぬ恐れもあるかと」
「弓に頼る篠原家は、今後失墜するとでも申すのか?」
「失墜だなんて、そんなことは思っていませんよ。しかし、時代が進めば戦も変わります。我々が子供のときには、火縄銃などありませんでした。しかし、篠原家はしっかりと時代に順応し、この戦乱の世を生き残ってきました。その力を最も側で見てきたのが私です。それは心配していません」
と、はっきりした口調で尾上はつづけた。
「しかし、これから戦はもっと複雑化し、恭一郎様が成人される頃には、さらに恐ろしい武器が登場していることでしょう。そのときに備え、しっかり準備をする必要があると申したいのです」
(まるで、私が篠原家の未来を考えていないかのようにも聞こえる)
そう思いつつも、たしかにここ数年は戦が終わったことに安堵し、緊張感は和らいでいる。糧食と税ばかりに気が回り、本当に十年、二十年先のことを考えているかと問われれば、十分とは呼べないだろう。
久藤家との戦は苛烈を極め、麾下の諸侯たちの忠誠と団結も浅くなってしまっている。いまだ近隣諸国が篠原家を攻めるといった噂は聞かないが、より現実的な方策を打ち出し、実行していく頃合いといえるだろう。
今後の篠原家の行く末を思念していると、ようやく父の存在に気付いたのか、恭一郎が笑みを浮かべて駆け寄り、
「父上!」
と元気な声を上げた。
「いつから見ていらっしゃったのですか?」
「少し前からだ」
それを聞くと、恭一郎は食い入るように尋ねた。
「どうでしたか? 少しは動きが良くなったでしょうか」
「あぁ、一年前と比べたらおそろしく成長している。どんどんと身体も大きくなるし、力もつくだろう。いずれは、指南役をも超えるかもな」
長男と次男の成長もしっかりと見てきたが、兄たちよりも、恭一郎には武術の才能を強く感じる。目の前にいる十二歳の少年は、すでに数刻も鍛錬をつづけているのにも関わらず、まるで疲労が感じられなかった。ほかの子らは、時間と共に明らかに動きが悪くなっているが、恭一郎だけはそうではない。
「本当ですか? では、さらに精進いたします!」
そういうと、恭一郎は再び指南役の方に戻り、木刀を振るいはじめた。
十二歳でまだ小柄ながらも動きは良く、深い緑色の装束が派手に揺れている。恥ずかしがることなく大きく声を張り上げ、一切の努力を惜しまない。
やがて、鍛錬は一度休憩を設け、子供たちは水を勢いよく飲みはじめた。幼い女中たちは鍛錬に励む子供らにうっとりとした視線を向けており、齢を重ねた女中は我が子のように見守っている。その光景は、まさに平和な姿といえた。
隆正は指南役を呼ぶと、
「実際のところどうだ? お前から見て息子の腕前は」
と尋ねた。
「素晴らしい才能かと。特に弓はもう大人とほとんど変わりません。力が劣るので弓を引く速度は遅いですが、欠点はそこだけです。剣術の方はまだまだ隙もありますが、いずれは減っていくでしょう」
そう指南役の東野憲介は答えた。この男だが、以前は戦場で、現在は篠原城の指南役として、長年仕えてくれている忠実な武士である。若かった頃は、誰をも寄せ付けぬ武勇を誇り、一度に四人を切り伏せた逸話すら持つ。その男がいうのだから、
(間違いはないだろう)
何十年も前から、偽った言葉を並べぬようにと、この指南役には釘を刺してある。子らの成長を偽った報告をされては、親子の関係が壊れかねない。歴史をみても、親子の衝突で滅びた家がいくつもあり、兄弟間で争って滅びた家すらある。家族内での争いなど、無意味などという言葉では足らぬほど、残酷で無情なものだ。
(それだけは、あってはならない)
「そうか、これからも頼むぞ」
「はい。では指導に戻ります」
指南役の東野の言葉聞いた、ちょうどそのときであった。
篠原城全体が、すっぽりと〝影〟に覆われたのである。さきほどまで、鍛錬場は陽に照らされていたが、一瞬にして陰りに覆われた。
(厚い雲でも掛かったのか?)
そう思ったが、あまりにも前触れがなく、ひどく不自然であった。その不自然な影の存在を確かめるべく、鍛錬場にいるほぼ全員が空を見上げ、その瞬間言葉を呑んだ。
――〝何か〟がいたのである。
「なんだ、あれは……」
〝それ〟を見て、隆正は茫然と呟いた。
篠原城を覆ったそれは、ひどく大きく、そして黒かった。外貌は、饅頭のように丸みを帯びており、外周から太い縄のようなものが何本もぶら下がっている。しかし、最も驚くべきはその大きさである。人間百人が手を繋いだとしても、空にいる〝何か〟を取り囲めるか分からない。あまりにも見慣れぬ理解不能な景色に沈黙し、空に浮かぶ巨大な何かの正体を予想するも、誰も見当がつかずにいた。
すると、その黒く巨大な何かは、突如として動きをみせた。外周からぶら下がる縄のようなものが、うねうねと動き出したのである。風で揺れたにしては、あまりにも挙動がおかしく思えた。その縄の数はだいたい二十本ぐらいで、まるで足の多い蛸のようにも見えた。しかし、色は真っ黒な上、そもそも蛸は空を飛ばない。それに、大きさは少なく見積もっても一千倍以上こちらの方が大きい。
しばらく上空を眺めていると、
「父上!」
と大きな声が聞こえた。叫んだのは愛する恭一郎で、怯えた表情を浮かべながら、こちらに近寄ってきていた。その姿を見て、隆正は息子を抱きしめようと身構えたが、突如として驚異的な風が篠原城一帯に押し寄せた。あまりの強さに立つことすら困難であり、家屋が揺れ、地面が震え、城の瓦が何枚も落ちはじめた。そして、今度は逆に、吸い寄せられるような暴風が広がった。これを受け、隆正は風の発生源の方を見やった。空である。風は、空に浮かぶ巨大な〝何か〟からであった。
気付けば、それはどんどん地上へと近付いてきていた。さきほどまでは、天守閣よりも高い位置にいたが、今ではもう天守閣とほぼ同じである。
その巨大な何かの本体と呼ぶべきか、丸みのある部分の側面に、黒く大きな穴が開いており、そこから風は起きていた。周囲の部位はひどく震え、風の勢いの凄まじさが見てとれた。
その穴を見て、
(〝口〟のようだ)
と思った。太く黒い縄は、穴から発せられる暴風で踊っており、天守閣の瓦などがその口にどんどんと吸い込まれはじめていた。
(城を壊す気か?)
そんな危機感を抱いたときであった。風の勢いがさらに増し、次の瞬間には人々が上空を舞いはじめたのである。そしてその中には、
〝自分もいた〟
周囲に掴める柵や塀がなく、足元がふわりと浮くと、そのまま高度を上げた。そして、天地が目まぐるしく入れ替わりながら、どんどんと何かの方へと吸われていった。
(おぉ、息子はどこだ?)
隆正は浮いた状態で地上を見やると、そこには尾上貴一に匿われ、地下室へと入っていく息子の姿が見えた。
(それで良い、お前は生きねばならぬ)
風に見舞われ、周囲の景色が、城、空、地上と絶えず変化する中、何かに近付くにつれ、その大きさに圧倒された。外周から生える黒い縄は、破城槌の丸太ほどあり、しかも長さは三十尺(約九メートル)は堅い。そして、巨大な何かの〝底部〟がより鮮明に見えたとき、全身に恐怖が走った。なにやら細い糸が無数に生え、ざわざわと蠢いていたのである。椎茸のひだのようにも見えるが、その全てが黒く、動きは磯巾着のそれであった。蠢く何かを確定することはできそうにもないが、隆正の直感はこう告げた。
この巨大な物体の中に、
(〝何かがいる〟)
いったい、この篠原城で突然何が起こったのか。そして、これからどうなるのか。その予想は一切できないが、空中を舞う隆正に、今得た情報を伝えるすべは存在しなかった。
ゆえに、
(息子だけは生きてくれ)
そう強く願った。たとえ篠原城が滅びても、篠原家が終わりを迎えても、
(生きてくれ)
ただそれだけを一心に。
そして、気付けば眼前には、ひどく大きな〝黒い穴〟があった。視界は一面真っ黒な闇で満たされ、もはや風の強さで目もまともに開けられない。この中に放り込まれれば、
(終わりだろう)
中に何が待っているのかは分からないが、そう思った。
そして、隆正は自らの死を確信すると共に、これまでの選択を後悔した。息子たちを死なせ、娘たちとも疎遠となり、恭一郎の雄姿は今後一切見られないのである。
(あぁ、なんと残酷だろう)
非業な運命に打ちのめされる中、篠原城の城主は、暗黒へと飲み込まれていった。
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