第15話:嵐の前の静けさ

 それから一年後のことだった。その日の夕食の時間はやけに空気が重かった。父も母も姉も私に何か言いたそうにしていた。こちらから切り出すと、父が箸を置いて口を開いた。


「帆波はその……なんだ。月子ちゃん……だったか? あの子と……その……」


 言いづらそうに言葉を詰まらせる父だが、何を聞きたいかはすぐに分かった。いずれこの日が来ることは分かっていた。


「お姉ちゃんから聞いたの?」


 父に問うと、姉は気まずそうに縮こまる。父は答えなかったが、姉の態度が答えだった。


「……そう。それで? 月子がなんだって?」


「あ、ああ……えっと……その……こ、恋人……なのか?」


「うん。そうだよ。中学生の頃から付き合ってる」


 あっさりと認めた私に、三人は言葉を失った。やがて母が泣き出し、ごめんなさいと懺悔する。あの時、ちゃんと帆波の話を聞いてあげられていたらあんなことにはならなかったのにと。それに対して姉が何かを言いかけたが、口を噤んだ。


「……帆波」


「なぁに。お父さん」


「……俺は、無理して男の人を好きになる必要は、無いと思う」


 意外な言葉に思わず驚く。父は私の味方をしてくれるのだろうかと一瞬期待したが、その期待はすぐに打ち砕かれる。


「あんなことがあったんだ。トラウマになっておかしくなってしまうのも無理はないだろう」


「……おかしく」


 ああ、結局父もそういう考えなのかと開きかけた心を閉ざす。トラウマのせいでおかしくなった。だから私は月子に恋をしてしまった。なら、月子は? 月子はなぜ、女の私を好きになったのだろう。海も、陽子も、美夜も。みんな普通に男子と接している。必要以上に警戒しているのは私だけだ。明確に男性を好きになれない理由があるのは私だけ。だけど、父の言うことを否定しきれる根拠など、どこにもなかった。黙り込む私に、家族は優しい言葉をかける。大丈夫だよ。いつかはきっと、トラウマを乗り越えられる素敵な男性に出会える。その優しさが私の心を蝕んでいく。もはや、その優しさを拒む気力すらなかった。私のやめては、届かないから。私の想いなど、この人達には伝わらないから。何を言ったって、無駄だから。私の味方は月子と海達だけ。私を信じてくれるのは、彼女達だけだ。心配してくれてありがとうと笑顔を作り、話を切り上げて部屋に戻る。両親も姉も、追いかけては来なかった。部屋の外から泣き声が聞こえる。母か姉が自分を責めて、父が慰めているのだろう。その罪悪感はこの先も背負って生きてほしい。死ぬまでずっと、苦しめば良い。

 そんな荒んだ気持ちで眠りについたからか、悪夢を見た。あの日の出来事を忠実に再現した夢。昔からよく見るが、彼が私に何をしたのか、そこだけは必ず再現されない。彼が私を床に押し倒した後、次の場面に切り替わる。だけどその日は違った。切り替わらず、そのまま続く。恐れて引き出しの奥底にしまった記憶は、掘り返してみれば大したものではなかった。彼のその行為の意味がわかる年齢になった今なら分かる。大人達の反応は決して大袈裟ではないと。それでも大したことではないなと思ってしまうほどに、傷つくことにすっかりなれてしまっていた。

 現実に戻ると、私は泣いていた。心臓の鼓動も速い。身体は確かに恐怖を感じていることを訴えているのに、心はやけに静かだった。その静けさはきっと、前兆だった。これから訪れる巨大な嵐の。月さえ飲み込んでしまうほどの巨大な荒波の。

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