第3話 音なし修行
「冗談を言う元気があるのなら、着替えてください。後で洗いますから」
寝室から去る前に、酒の匂いを
「うむ。その内な」
「口ではなく手を動かしてください」
「母親か、そなたは」
茶の間に出ると、もう食べ終わったらしいセリ兄弟の茶碗が囲炉裏前に重なっていた。二人はお茶を飲んでいたが、こちらに気づいた兄の方が話しかけてきて──。
「お弟子さん、ナズナ様のご様子は
にこやかな問いに肩をすくませて答える。
「完食されましたよ。懐中汁物を食べたいというくらい回復したみたいで」
「ああ⋯⋯ふふ。あっはっは! あの甘い物を所望されたとは。なるほど。なかなか戻られなかったので心配していましたが、良かったです」
「ええ、本当に」
そんなことを話していたら後ろの戸が開く。見ると、身なりを整えた師匠が通り過ぎ、
え、この老婆は忍者か何かか? 早着替えが過ぎる。影武者と言われても今の自分は信じてしまうだろう。
「何だい?
本人は
「ず、随分と早く着替えられたなと思いまして」
「勝手に老いぼれ扱いするんじゃないよ」
いやいやいや。あなたはハヤリガミの中でも年いってる方でしょうに。そんな言葉をなんとか飲み込み、茶碗を回収する。
セリ兄弟に近付くと脇から視線が。何だと思えば、弟君がじっとこちらを見ていた。お互い瞬きせずに固まっていると、
「ごちそうさまでした。優しい味で、美味しくいただいて、ほら、
「⋯⋯ごちそうさまです」
二人の言葉が身に染みる。酔いが覚めたと愚痴を零した師匠と大違いだ。こっちが神様に見える。今日イチの笑みを作り、心の中で拳を突き上げた。
「お粗末様です。お口に合って良かった」
「私の前では絶対しない顔だね」
「師匠はいつも意地悪ですので」
「教えることは教えてるだろ。しかも実戦で患者付き! 最高の環境じゃないか」
「二日酔いを口述にしないでください。そういうのこじつけって言うんです」
囲炉裏で燃え盛る炎より強い視線が、バチバチ音を立て交わる。
ゴホンッと区切った老婆は腕を組んだ。薬草の知識がまだまだ足りないことは、僕の課題の一つ。だからこそ師匠絡みで自分の作った薬を試すことができたのは良い経験だった。しがれた声でおもむろに話し始める。
「そなたはよくやってる方だ」
「急に何ですか?」
「先程の解毒調合と、薬に頼りすぎない対応が合格だと言っている」
予想していなかった突然の「合格」という言葉に口をあんぐり開く。
「そなたが生きる上で、足りない野草種については、これからも学び続ければ良い。あと、身の回りのことも一人でできるから"あの役目"もできるはずだ。家事、知識の吸収、三つの内この二つは良しとする。あと確かめることがあるとすれば──」
指を折って説明を受ける。こ、これは間違いなく修行内容、その具体的なものだ。残り一つの試練。
「そなた、三味線が欲しい理由は何だ」
「え?」
「そなたは、今まで何かに固執することなく、もっと言えば何にも興味を持たずにいたと、近くで見ていた私がいっとう分かる」
「⋯⋯よく、ご存じですね」
そう答えて、再び閉口する。
僕が希薄なのは、モノだけでなく里の民に対してもだ。自分から話そうとはしないし近付かない。
血のつながった肉親にさえ
(ただ、あの時は違った)
師匠が弦を響かせた瞬間、まるで目が覚めたような感覚があったのだ。シャンとなる、軽やかな鈴の音。あれは、穴だらけの心へ届いた酷く温かいものだった。
これを知っている。何故かそう思った。
「おかしな話ですが、あの鈴の音は何だか懐かしく感じまして。目が覚めたような心地になりました。気付けば、惹かれてあの場に」
「ふむ。確かそなた、産みの親を探したいのだろう? ナズナの役目に、初雪から元日まで人里へ赴くものがある。その間に街道で鳴らせば、真の親と出会えるやもしれん」
納得したように頷く彼女は言い切る。
ずっと疑問なのだが、この人はいつから僕の考えを知っていたのだろうか。
「なぜ師匠は、僕が親を探したいと思っていることをご存じなのですか?」
「なあに、いつも忙しなく動き回るそなたのことだ。あと少しで里から去る予定だったのだから、何か目的がなければ暇すぎて野垂れ死ぬだろ」
なんと単純明解な。だが、一理ある。どうせなら親を探そうかなと思っていたのは本当だ。ただ、ハヤリガミだけが受け継ぐという三味線が、修行にどう関わるのかいまいち分からない。
でも恵まれている。自分は知り合い以外と話すのは苦手なので、三味線が導いてくれるのならこの上なく嬉しい。一人ほくそ笑むが、師匠は──。
「であれば、尚のこと必要かもしれぬな」
ポツリ、意味深なことを言った。
「どういうことです?」
「気になるのなら弾いてみるといい」
そら、と彼女の方へ回ると長い棒が顔を出す。
昨日出会ったばかりの神器。思わず腰が引けるが、その分詰め寄られた。
「持ってみな」
「え⋯⋯って、わわ!」
お、重い。子どもだから持てないのではない。通常、三味線は猫一匹ほどの重さだが、これは違う。酒の入った一升瓶二本は越えている重さだ。危うく落としそうになるが、いつも酒瓶を運んでいたので耐えることができた。
信じられない⋯⋯⋯⋯
師匠はいつもこれを片手で持っていたと?
「重いか? おそらくそなたなら、米俵の半分ほどだろう。だがな、ナズナ達の命よりは軽い。そなたはこの重みに慣れなければならない」
背中に周り、四角い胴の位置を調整される。右太腿から棹を左肩へ斜め掛けされるが、師匠が支えてくれているので足は潰れていない。
「うっ!」
と思えば、僕の右手を取り
「どの弦でもいい。押し当てて鳴らしてみな」
「は、はいっ! ⋯⋯⋯⋯⋯⋯。⋯⋯?」
何だろうこの違和感は。
鳴らしているはずが、弦を震わせても、いや、
「な、鳴らない」
「? いえ、鳴りましたよ?」
「え、嘘」
「本当です。細いですが確かに聞きました」
どうやらセリ兄弟には聞こえているらしい。眉を寄せて所有者を見ると、ニヤニヤしていた。「どういうことですか?」と問うと、腿の重みが無くなる。神器を回収したハヤリガミは、静かにそれを横たえ、答えた。
三味線は譲ってやる。その一言だけ。
「譲る、と言われましても⋯⋯」
反応に困る。
なんせ音が聞こえないのだから。
「簡単なことさね。真のハヤリガミでなければその音を聴くことはできないよ」
「なら、引き継ぎまでいけば、また音が聞こえるようになるのです?」
「いいや、無理だ」
ハイ? ナンデスト?
こちらにお構い無しで師匠は続ける。次に鳴るのは、新たな後継者が現れた時らしいのだ。それまでは鈴の音に飽き足らず、皆が聞こえる弦まで聞こえないのだと。ここまで来ると、鬼畜の所業としか言いようがない。
しかし、これだけは言わせてほしい。
「後出しが過ぎやしませんか!?」
「二言はなし、なんだろ」
ええ言いましたとも。知ってます!
念願叶って触れた感動に、重みによる冷や汗、それらを粉々にした音なし三味線という事実に、頭の中が暴れまくっている。まんまと
「見事な外堀埋めで」
「褒め言葉として受け取っとくよ。何、これを気に他の者と関わるといいさ」
「だから『尚のこと必要』と仰られたのですね」
人の協力がなければ音が分からない。自分以外の誰かの耳が必要なのだ。二人三脚で技を磨く必要がある、人付き合いが苦手な僕にとって一番の修行という訳か。
希望があるとすれば──。
「あ、
「僕は陰ながら応援しますね」
ニコリと切り裂く救いの手。同じ釜飯を食った仲ではないか、兄よ。うう、笑止。
「誕生日までに、何か知っている
あと九日、とは言いつつも今は夕刻に傾いているので、実質あと八日だ。本当に何とかしなければならない。
自分の声が脳を
「あれぇ? お音、したー?」
そこでピンとくる。そうだ、ナズナの子がいた。座布団に寝ていた二華は、眠たそうに眼をこすっている。僕はすぐさまその
「二華! 力を貸してくれないか!?」
「何するのー?」
「師匠のように三味線を弾けるようになりたいんだ。君達の耳を借りたい!」
「うーん。いいよー」
ゆるく手を上げるナズナの子。そのまま僕も重ねて同盟を組む。師匠は「他の者」と話していたので、これは許容範囲だろう。間違いではない。
「やれやれ、我が弟子ながら軟弱だね」
ボソッと言われたが、すかさず「そりゃあ師匠より人生経験少ないですから」と返した。だが──。
「何を言うのさ。そなた達が思うほど、私はもう永くないんだよ」
「ナズナ様、お
「いや、本当だ。もしかしたらこの子の誕生日を祝えるのは次が最後かもね」
「「えっ」」
二人して同じ声を出す。
「それまでに、このちゃらんぽらんな弟子には頑張ってもらわにゃあね」
「わわっ! 頭はやめてくださいってば」
断髪令が出されてから時間が経ち、僕のように後から里に来た者のほとんどは短髪になっている。お陰で髪をグシャグシャにされた。目の前が何も見えない。でも、これで良かった。今は師匠の顔をまともに見れない気がする。
「そなた達には悪いとは思うが、これが我が定めよ。許しておくれ」
「師匠」
「⋯⋯僕は、言われたことをやるのみです」
「助かるよ」と応えたハヤリガミは、セリ兄弟へ別れを告げ別荘から彼らを見送った。その背中が随分と小さくなった頃に、ようやく話かける。
「ねえ、師匠」
「なんだい」
「さっきのことですが」
そこまで言って口を
「やっぱり何でもないです。お酒は控えましょうね」
「⋯⋯そうかい。だがそれは断る」
スパッと二言目は両断されてしまった。
ため息をつく僕の
「そなた、花占いをしたことがあるか?」
「花占いですか?」
脈絡のない話にオウム返しをする。
「ああ。おおかた恋の行方であったり、夢がある者は願いの成就であったり⋯⋯⋯⋯花びらを抜いて未来を占うモノだよ」
その占いは選ぶ花によって意味が変わる。また、花びらの枚数を元より知る者は、自身が望む未来もつかみ得るのだと。そして、自分や相手の内なる声に気付く手段にもなると一方的に説明された。
「な、なんだかそれって、凄く都合の良い存在ではないですか?」
「おや奇遇だね。私もそう思う」
あくまで娯楽。一時の気休め。そんな言葉が似合うものが花占いだ。老若男女にたしなまれる昔からの遊びとして根付いてきたもの。
なぜ師匠がそんな俗っぽいものを話すのか、頭は疑問符だらけになった。
「ただ、その結果が全て的中する訳では無い」
「叶わないこともあるのです?」
「占いだからね、外れることもあるさ」
「でもね」と零した彼女の横顔はやけに遠くを見つめ、大きな夕日に焦がれながらその言葉を紡ぐ。
「 花占いには、
一生に一度だけ使える術がある 」
その瞬間、ピタッと時まで止まったかのように錯覚した。ゆっくり僕を見下ろす師匠は挑発的な、それでいていつもの意地悪な顔を削げた顔で伝える。そのやけにさっぱりした笑顔が印象に残った。
「私の代わりにそれを見つけてはくれまいか?」
「僕が師匠の探し物を?」
「ああ。家事とハヤリガミの務めを挟んで、ほんの片手間でいい。私にとってそれは必要なモノなんだ」
師匠の見つけられなかったモノを、僕が見つける。なんとも大層なお役目をいただいたようだ。ただ、どうしても聞き流せない言葉が一つ。
「師匠。しれっと僕が全ての家事を受け持つ言質をとらせないでください」
「チッ、流されなかったか」
「先ほどのお返しです」
「可愛げのない弟子だね」
そんなやり取りを交わした八日後。ようやく迎えた僕の誕生日に、師匠の言葉が予言となる。
この時は、まだ知る由もなかった。
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