能ある鷹は昼寝をする
昼寝の時間が終わりそうになり、ウイルヘルムは修行を切り上げ、眠らせた侍女を元の椅子にそっと戻した。
「…っちなのはいけないと思います、大旦那様、えへへへ…」
だらしなくヨダレを垂らしている侍女に閉口しながらも、指先で軽く秘孔を突き、彼女を目覚めさせる。
「……んんっ?」
侍女はぱちりと目を開け、軽く首を傾げた。
「よく眠れた?」
ウイルヘルムは幼児らしく無邪気な笑顔を浮かべる。
「えっ……? わ、私……寝てました?」
「うん、一瞬だけね!」
満面の笑みで言い放つウイルヘルム。だが、侍女は顔をひきつらせた。
(そんなわけないでしょ!? どう考えてもガッツリ寝てたわよね!?)
侍女は驚愕しながらも、冷や汗がにじむのを感じた。マントルピースの上にある時計を見たら、2時25分……もし仕事中に寝ていたことがバレたら、どんな叱責を受けるかわからない……。
「ふふっ、たしかに……少しだけ、うたた寝をしてしまったのかもしれませんね……」
「でしょ!」
ウイルヘルムはニコニコと頷く。内心では(バレバレだが、侍女は自分が寝てたことを認めるわけにはいかないゆえ、これでよし)と計算済みだった。
こうして、何とも言えない奇妙な空気を残しつつ、昼寝の時間は終わった。
「それでは、授業を再開いたしましょう」
次の授業は、執事が担当する紋章学だった。貴族の旗印や家紋の意味、それぞれの歴史や由来について学ぶ内容らしい。
(退屈だ……)
ウイルヘルムは心の中でぼやいた。自分の家の紋章がどんな意味を持とうが、強さの追求において役に立たない知識はどうでもいい。
担当の執事は、四十代の男性。まだ初老と呼ぶには早いが、年季の入った雰囲気を持つ人物だった。きっちりと整えられた髭、無駄のない動作、そして威厳ある語り口。
「貴族の紋章には、その家の歴史と誇りが刻まれております。例えば……」
(ああ……退屈すぎる……)
ウイルヘルムは、聞いているフリをしながら、適当に相槌を打つことにした。
「ほう」「なるほど」「ふむふむ」
適度に「知的な幼児」を演じながら、授業が終わるのをひたすら待つ。
長い授業が終わり、ようやく晩餐の時間が訪れた。
すでに修行の新たな方法を確立したため、食事をしながら気功の修行をする必要はなくなった。そこで、ウイルヘルムは純粋に料理の味を楽しむことにした。
(……これは美味!)
一口食べた瞬間、思わず目を見開いた。
前世では、ソの帝国の高級料亭の常連で、舌が肥えていた。しかし、騎馬民族に戦いを挑んでからは、戦場での粗末な食事、行軍中の干し肉や索餅、あるいは毒味しなければならない微妙な料理ばかり。
だが今の体は貴族の子息。当然、食事も一級品だ。しかも、ソの帝国の高級料亭すら比肩出来ない美味さだ。
この日の晩餐は、冷たい前菜から始まり、なめらかなポタージュ、香ばしい温前菜を経て、旨み溢れる肉料理がメインを飾る。締めくくりは、甘く煮込まれた果実のタルトと濃厚な氷魔法謹製バニラアイス。食後には、爽やかなフルーツティーが香り立つ。
(こんな贅沢な食事が毎日出てくるのか?)
ウイルヘルムは改めて、自分が貴族の身分であることを実感した。
(悪くない……いや、むしろ極楽だ)
修行ばかり考えていたが、美味い飯の前では、さすがのウイルヘルムも貴族の暮らしを堪能せざるを得なかった。
***
明日はウイルヘルムの4歳の誕生日。
時の流れは早いもので、この6ヶ月で炎天功と寒霜功の修行は着実に成果を上げていた。 この世界の気の濃度は前世の比ではなく、6ヶ月の鍛錬は前世に比べて最低でも3年以上に相当する。
……いや、気の総量だけなら10倍以上の伸びを見せている。 だが、その分だけ強くなったかというと、そうは問屋が卸さない。
この世界では気が常に満ち満ちており、それが人の戦闘本能を自然と刺激する。
その影響もあってか、鍛錬の成果は異様なほどの速度で現れていた。
とはいえ、いくら成長が早くとも制御できなければ意味がない。闘争本能を普通のレベルに抑えるには、炎天功と寒霜功が常に拮抗し、お互いを牽制し続けなければならない。そのせいで、両方の功力は半分以下の力しか発揮できなかった。
……それでも、なお暴発の危険がある。
その対策として、余剰の気を金剛不壊へと供給することで、安定を図ることにした。そのおかげで、金剛不壊の攻撃技『金剛一指』が使えるようになった。
さらに、炎天功と寒霜功の応用技も習得済みだ。
……などと、しみじみと考えながら、ウイルヘルムは欠伸を押し殺した。
無理もない。毎日2時間しか寝ていないのだ。これ以上侍女を困らせないために昼寝の時間は大人しく寝ているが、寝る前に炎天功を用いて代謝と回復力を極限まで高め、深い眠りの十倍の回復力を得ることで爆睡している。
その代わり徹夜で炎天功と寒霜功の修行。無理と感じた時は、やむなく夜もちゃんと睡眠をとって修行を中止する。
炎天功で体に支障が出ないようにしているとはいえ、身体は否応なく、眠りを求めていた。
それはさておき、この6ヶ月間、ウイルヘルムはベルタによる授業を受け続けていた。まだ幼いため、ナンバーセオリーの講義は始まっていないが、それでも学ぶべきことは山ほどある。
まずは、つまらない執事によるつまらない紋章学と文学。貴族の家紋や旗印、系譜にまつわる知識を延々と覚えさせられる退屈な授業。さらには格式ばった古典文学の暗唱まで課せられる始末だ。
しかし、ウイルヘルムには対抗策があった。寒霜功の応用により、体温と血流を調整し、「起きながら寝る仮眠状態」に入るのだ。これにより、退屈さを感じることもなく、苦痛から解放される。
意識の2割程度を維持し、最低限の講義内容だけを記憶に留める。反応が必要な場面では、寒霜功による血流調整で覚醒度を瞬時に調整し、適当な相槌を打つ。
(無駄な労力をかける気はないが、手を抜くことには手を抜かない)
ウイルヘルムは 省エネを極めた最適解で、つまらない授業を乗り切っていた。
英才教育の一環として、戦闘教学と格闘術の授業も組み込まれていた。
上級職【レンジャー】による戦闘教学。
上級職【アームストロング】による格闘術の指導。
上級職【スペルウィーバー】による魔法講義。
さらに、究極職【アーケインウォーリア】が担当する総合戦闘講義。
これらを毎日こなすスケジュールは、まさにスパルタンも真っ青な地獄だった。 だがウイルヘルムにとって、それはさほど苦にはならない。
問題になるのは、気功を使うこと自体がウイルヘルムの実力と体質を異常なものにしたことだ。
ウイルヘルムの戦闘教学に起用されたの上級職たち。
彼らは剣技、槍術、弓術、徒手格闘、そして戦術の基礎を教え込む。幼児相手とはいえ、手加減なし。むしろ、「貴族子弟教育」とのことで、最高水準の訓練が施される。
この6ヶ月で、ウイルヘルムは彼らの実力をじっくり観察した。
(戦闘技術だけなら、せいぜい100点満点中65点といったところか)
剣の振りは鋭く、槍の突きは的確。徒手格闘も洗練されており、動きに無駄はない。……が、それだけだ。
前世の感覚で言えば、武術としての完成度は悪くない。だが、一流と称するには、あんまりにも甘い。
しかし——
(こっちの世界の「気」——いや、「マナ」か)
この世界に存在する異質な気は「マナ」と呼ばれ、【クラス】によって使い方が変わる。 各【クラス】には 【スキル】 という独自の力が備わっている。
たとえば、弓術を教えている【レンジャー】は、矢の軌道を変える【スキル】を持っていた。格闘術の講師である【アームストロング】は、筋肉を瞬間的に膨張させて打撃力を高める技を使っていた。 こうした【スキル】は、戦闘技術そのものとは別の次元の強さを生み出す。
(なるほど……これは面白い)
単なる武術ではなく、スキルの組み合わせで戦況が変わる。 前世にはなかった概念だが、活用次第では強大な力となるはずだ。
ウイルヘルムは幼いながらも、すでにこの世界の戦闘体系に強い興味を抱いていた。
——ただし。
ウイルヘルムはこの時まだ知らない。 彼が気功の修行を始めた時点で、すでに【クラス】という枠組みから逸脱していたことを。
戦闘技術の修行において、ウイルヘルムにとってむしろ実力を隠すことが大変だった。この世界のことはまだ完全には把握していないが、少なくとも4歳未満の幼児が、初期職とはいえ侍女を一瞬で昏倒(瞬睡?)させるのは、どの世界の常識から考えても異常だ。
さらに、この半年間の観察を通じて、この世界には「転生者」という概念が存在しない可能性が高いことも分かってきた。もし自分が転生者であることが露見すれば、どのような影響があるのか予測がつかない。最悪、危険視され、異端として処理される可能性もある。
ゆえにウイルヘルムは、「筋の良い素人の幼児」という仮面を被り、慎重に振る舞うことを決めた。あくまで「才能に恵まれた貴族の子供」として、ぎりぎり許容される範囲の成長速度で技術を習得し、決して前世の武術を本気で使うことはしない。
そう、戦闘技術の授業とは、ウイルヘルムにとって「技を学ぶ場」ではなく、「いかに技を隠すかを試す場」となっていたのだ。
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