小ヴァイス領編

貴族の館に幼き武人

前回までのあらすじ


かつて、武の道を極めた男がいた。
名門の武術流派の生まれながら、その枠に収まらず異流派との果たし合いを繰り返し、禁じられた武技を修め、ついには「戦乱の世において最強」と称される存在となった。

その彼が、 「超大国の侵略に抗い、華々しく散る」 という王道エンディングを迎えた……はずだったのだが…



***


戦場で力尽きて逝った男が次に目を開けた瞬間、視界はぼやけ、目の前に巨大な顔があった。それが夢なのか、現実なのか、男には分からなかった。


やはり夢だろうと男が思っていると、次に意識があったとき、赤子になっていたようだ。視界は依然とぼやけており、動かそうとする腕は異様に短い。


100年以上生きて、死んだと思ったら突然赤子として生きている、それは夢だと男は決めつけていた。夢ならいつか覚めると信じ、男は何も考えずにその時々を過ごした。女性の優しい手で抱えられて乳を吸い、眠る日々。時間感覚が狂って、つい先刻まで戦場で敵兵を切り捨てていたはずだと認識していた男にとって、あまりにも穏やかで非現実的な状況だった。


だが、数ヶ月が過ぎ、柔らかい粥のような離乳食が与えられるようになると、男は少しずつ周りの世界が明瞭に感じられるようになった。周囲の人々が話す言葉を聞き、口元で真似るうちに、それが明らかに男が知る言語とは違うことに違和感を覚えた。そして、一歩、また一歩と足を踏み出す練習をしながら、この「夢」は思ったより長く続くようだと思い、「夢」そのものに対して朧げな疑問を感じ始めた。


その世界の言葉を覚え、この世界で男は「ウィルヘルム」と名付けられたと認識する頃には、「これが現実かもしれない」という漠然とした認識が生まれていた。そして3歳になって数ヶ月経ったある日、突然その「夢」が崩れ去った。


(そうだ、余は前に一度…)


強烈な既視感と、はっきりとすべてがわかった感覚。曇っていた意識が晴れ渡り、自分が「誰であったのか」も、「今どこにいるのか」も、全てが一本の糸で繋がるように理解できた。


(余は、まだ転生したのか…)


その瞬間、かつて一人で軍団を相手に戦争をした男は、新しい世界で再び生きているという事実が全身を駆け巡り、この新たな人生に向き合わざるを得ないことを思い知らされたのだった。


転生した男 ー ウィルヘルムは、フカフカの天井付き臥榻ベッドの上にいる。周囲を見回すと、豪奢な家具や調度品が飾られている異国風の部屋。臥榻の右側には色硝子の門戸があり、硝子越しに見えるのは露台バルコニーとその向こうにある晴れた青空。


左を見れば、穏やかな表情で本を読んでいる女性がいる。ウィルヘルムはこの世界での記憶を辿り、その女性が乳母のベルタであると視認した。


ベルタはゆっくりと視線を上げ、ウィルヘルムが目覚めたことに気づくと、しおらしく本を閉じた。


「お目覚めですか、坊ちゃま」


 その声は落ち着いており、どこか静かな湖面のような安定感がある。ベルタはシンプルだが上質な黒いドレスを着こなし、目元には冷静な光が宿っているが、その瞳の奥には、わずかに優しさが滲んでいる。


「……うん」

まだ幼児の口調に慣れなくてはならないウイルヘルムは、言葉少なに答えた。

「今朝のご気分は?」

「だいじょうぶ」

「それは何よりです」

ベルタは微かに頷いた。

「では、朝食までお部屋でお過ごしになりますか?」

「ううん。そと、あるきたい」

ウイルヘルムがそう言うと、ベルタの眉がわずかに上がった。

「お外に?」

「うん」

 ベルタは数秒、俺を見つめる。そして、小さく溜息をついた。

「お寒いですよ」

「さむくない」

「まあ、そう仰るでしょうね」

ベルタは少し考え込み、やがて静かに溜息をついた。そして、そばに置いていた小さな銀の鈴を手に取り、軽く揺らした。

 澄んだ音が室内に響く。すると、扉の向こうで控えていた使用人たちがすぐさま現れ、恭しく頭を下げた。

「坊ちゃまの外出のお支度を」

「かしこまりました」

 2歳児なのに、ウイルヘルムの部屋にはウォークインクローゼットがある。二人の使用人は慣れた様子でそこに向かい、ウイルヘルムの服を選び始めた。そして、ものの数分で一式が揃う。

 袖にフリルのついた上着、金の刺繍が施されたベスト、そして膝丈のズボン。見るからに貴族然とした装いだ。

 夢だと思っていた幼少期の記憶にある城、この豪奢なウォークインクローゼット付きの部屋、そしてこの仰々しい服装…それらを総合して考えれば、ウイルヘルムは自分がどうやら高貴な生まれらしいと推測した。


 ウイルヘルムはベルタと侍女を伴いながら、城の廊下を静かに歩み続けた。壁には数々の壮麗な絵画が掛けられ、厚い金の枠がそれらを縁取っている。描かれているのは狩猟の情景や戦場の勝利、あるいは威厳に満ちた貴族たちの肖像であった。長い歴史を感じさせるそれらの絵画は、どれも重厚な色彩を持ち、時折揺れる燭台の光に照らされると、まるで動き出しそうに見えた。


 彫像もまた、廊下に点々と配置されている。大理石の騎士像や、優雅な仕草の女性像が静かに佇み、その存在自体がこの城の主の財力と権威を誇示しているかのように、まるで城に足を踏み入れた者へ、その力を見せつけるかのようだった。


 やがて螺旋階段を降り、1階へと足を踏み入れる。そこにも同じように絢爛たる装飾が施されていたが、廊下の空気はわずかに湿っており、朝の冷たい空気が石の床にまとわりついていた。絵画の数は2階よりも少ないものの、その代わりに目を引いたのは巨大な壁掛けだった。弩を構えた騎士団が、物の怪や額に角を生やした妖怪じみた異形の者どもと激突するその光景は、鮮やかな刺繍で克明に描かれ、今にも動き出しそうな迫力を放っている。重厚な布地が放つ陰影が、戦場の混沌をより際立たせ、見る者に畏怖の念を抱かせた。一階にいた別の侍女に向けて、今日ウイルヘルム様は外で朝食を召し上がることをシェフに告げるようにとベルタが指示した。


 しばらく歩くと、エントランスホールへと至る。そこは広々とした空間であり、中央には立派な台座が設えられ、その上にひとつの半身像が鎮座していた。ウイルヘルムは思わず足を止め、その像を見上げる。刻まれているのは三十代後半の男性の顔——自身の顔立ちと似ていることに気づき、ウイルヘルムは眉をひそめた。


 像の下には文字が刻まれていたが、彼にはそれを読むことができなかった。ベルタが何か言うかと思ったが、彼女はただ静かに見守っている。その下部には家紋が浮き彫りにされていた。計算盤アバカスの後ろにウイルヘルムが知らない植物の模様——それが何を意味するのか、ウイルヘルムにはわからなかったが、無意識のうちに指でその彫刻をなぞった。


「……ウイルヘルム様、もしかして当主様が恋しくなられましたか?」


 侍女が遠慮がちに尋ねる。その声音には、幼い主を気遣う優しさが滲んでいた。しかし、その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ベルタが鋭い眼差しを向ける。侍女ははっと息をのみ、慌てて口を閉じた。


 ウイルヘルムは答えなかった。彼の記憶の中に「当主」の姿はなかったからだ。ただ、目の前の像が何者であるのかも分からぬまま、黙ってその台座を見つめ続けた。


 しばしの間、その場に佇んだ後、彼はベルタとともに正門へ向かう。厚い扉の向こうには、冷たい朝の空気が広がっていた。


 ウイルヘルムが正門をくぐった瞬間、目に飛び込んできたのは――巨大な銅像の背後。いや、正確には、二人の男の 尻 だった。


「……」

無言で見上げるウイルヘルム。


 堂々とした大理石の台座の上、青銅で作られた二対の臀部が朝の光を浴び、見事な曲線を描いている。当主の像は長いローブ越しにゆるやかな膨らみを帯び、もう一方の像はピチピチの布地に包まれた筋肉の隆起が際立っていた。鍛錬の賜物であろう引き締まったラインが、素材の質感と相まって妙に生々しい。


(……いきなりこんなものを見せつけられるとは)

ウイルヘルムは軽く目を細め、思わず鼻を鳴らした。


 隣に立つベルタは相変わらず無表情だったが、侍女は気まずそうに視線をそらし、わずかに頬を染めている。ウイルヘルムには知る由もないが、侍女である彼女は普段、正門を使うことがなく、こんな光景を目にするのは初めてだったのだろう。


「お行儀のよいことですこと」

ベルタがぼそりと呟いた。ウイルヘルムは気を取り直し、銅像の正面へと回り込む。


そして、目にしたのは――

 中央の台座の上に並び立つ二体の像。エントランスホールで見た半身像の男が、今度は魔術師とも学者ともつかぬローブを纏った全身の姿で右に。左には、顔立ちがその男に似た、豪奢な装飾が施された鎧に身を包む貴族の像。二人とも威厳に満ちた表情を浮かべ、堂々とした佇まいだった。


 ローブ姿の像――つまり「当主」は、左手に巻物を持ち、右手は隣の貴族の左手としっかりと繋いでいる。一方の貴族は、右手に長大なハルバードを携え、その足元には戦場の破片を思わせる彫刻が施されていた。鎧は装飾過多と言ってもいいほどに華やかで、ただの戦士というよりも、どこか演説でも始めそうな貴族然とした雰囲気がある。


ウイルヘルムは二体の像を見比べながら、ゆっくりと息を吐いた。

(……ここにいると、昔の顔はすっかり忘れろと言わんばかりに、今の顔ばかりを見せつけられる)

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