第2章:「実験室とキッチンの法則」

 翔馬が来てから一週間が経過した。研究所では、那由他の変化を誰もが感じ取っていた。


「萩原さん、なんだか最近、生き生きしてますね」


 同僚の上野が、珍しく清潔な白衣姿の那由他に声をかける。


「そう? 別に普通だけど」


 那由他は少し照れくさそうに答えた。確かに、規則正しい食事と睡眠のおかげで、体調は明らかに良くなっていた。


「朝ごはんちゃんと食べてきたんですか?」


「ええ、まあ……」


 那由他は今朝の出来事を思い出していた。


***


「那由他、起きて」


 優しいけれど強い声で、那由他は目を覚ました。ベッドの傍らには、エプロン姿の翔馬が立っている。


「んん……何時?」


「7時です。朝食の用意ができました」


「えー、まだ眠い……」


 【詳しく】【寝ぼけて那由他が翔馬を布団に引き込む】那由他が布団に潜り込もうとすると、翔馬は容赦なく布団を剥ぎ取った。


「だ、だめですよ。朝食を抜くと、脳の働きが20%も低下するんです」


「はぁ? どこの研究?」


「僕の観察による仮説です」


 真面目な顔で答える翔馬に、那由他は思わず吹き出した。


「あんた、面白いこと言うのね」


「そうですか?」


 少し得意げな表情を見せる翔馬に、那由他は何だか愛おしさを感じた。


***


「萩原さん?」


 上野の声で現実に引き戻される。


「ごめん、ちょっと考え事してた」


 那由他は慌てて手元の実験データに目を向けた。しかし、頭の片隅では、翔馬の作る夕食の心配をしていた。


 その日の夕方、那由他は珍しく定時で帰宅した。マンションのドアを開けると、柔らかな音楽と共に、芳醇な香りが漂ってきた。


「ただいま」


「おかえりなさい、那由他」


 キッチンから顔を出した翔馬は、首に巻いたハンドタオルを外しながら微笑む。


「今日は何?」


「コックオーヴァン」


「こっく……なに?」


「赤ワイン煮込みの鶏肉料理です」


 那由他はキッチンを覗き込んだ。深い色合いのソースが静かに煮立っている。


「ねぇ、あんた本当に18?」


「はい?」


「だって、こんなに色んな料理知ってるし……」


 翔馬は一瞬、表情を曇らせた。


「那由他こそ、22歳でこんなに凄い研究者なんですから」


「あ、ごめん。気を悪くした?」


「いえ」


 翔馬は首を振ったが、その仕草には何か引っかかるものがあった。年齢を気にしているのかもしれない、と那由他は思った。


「あの、那由他」


「ん?」


「明日、休みですよね?」


「うん。珍しく実験もないし」


「よかった」


 翔馬は嬉しそうに微笑んだ。


「実は、新しいレシピを試してみたくて」


「新しいレシピ?」


「はい。那由他の好みに合わせて、少しアレンジを加えてみたんです」


 翔馬の真剣な表情に、那由他は少し驚いた。


「私の好み……そんなの分かるの?」


「毎日の食事の様子を観察してました」


【詳しく】 翔馬は手帳を取り出した。そこには那由他の好みや食べる順序まで細かく記録されている。


「ちょ、ちょっと! それって私のデータ採取してたってこと?」


「はい。研究者である那由他なら、データの重要性は分かりますよね?」


 真面目な顔で答える翔馬に、那由他は思わず笑ってしまった。


「あんた、本当に面白いわね」


「そうでしょうか……」


 翔馬は少し頬を赤らめた。


「いつも子供扱いされるから、できるだけ大人に見られたくて……」


「えっ?」


 思わず漏らした本音に、翔馬は慌てて話題を変えようとした。


「あ、そろそろ料理が……」


「待って」


 那由他は翔馬の腕を掴んだ。


【詳しく】【東洋の血が幼く見せる】「子供扱いって、誰に?」


「……パリの料理学校で」


 翔馬は視線を落として続けた。


「才能があるって言われても、結局『若いのに凄いね』って。まるで本気で認められてないみたいで……」


 那由他は翔馬の言葉に、どこか自分を重ねた。確かに自分も、若くして業績を上げるたびに「若いのに」と言われ続けてきた。


「分かるわ」


「え?」


「その気持ち、すっごく分かる」


 那由他は優しく微笑んだ。


「でも私は、あんたの才能を本気で認めてる。年齢なんて関係ないわ」


 翔馬は驚いたように那由他を見つめた。その瞳には、薄い涙が浮かんでいた。


「那由他……」


「あ! なんか焦げ臭くない?」


「わっ! コックオーヴァン!」


 二人は慌ててキッチンに駆け込んだ。幸い、料理はぎりぎりのタイミングで完璧な火加減で仕上がっていた。

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