【ずぼら女子歳の差恋愛短編小説】天才たちの恋愛方程式 ~IQ200の理系女子とフランス料理の王子様~(約12,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:「天才シェフ、方程式を解く」

 4月の柔らかな日差しが窓から差し込む研究室で、萩原那由他は複雑な数式が並ぶホワイトボードを見つめていた。黒縁の眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が瞬きもせずに数式を追う。彼女の周りには積み上げられた論文の山、使用済みのカップ麺の容器、そして散らばったペンや付箋が無秩序に広がっていた。


「萩原さん、また徹夜ですか?」


 同僚の声に、那由他は一瞬だけ視線を離した。


「ああ、このλ変換の部分で面白い現象が見つかって……」


 彼女は習慣的に髪を掻き上げる。長い黒髪は既に乱れ、白衣も皺だらけだった。


「そうですか。でも、所長が呼んでますよ」


「えっ? また?」


 那由他は溜息をつきながら立ち上がった。22歳にして既に量子物理学の分野で数々の業績を上げている彼女だが、所長との面談は苦手だった。きっとまた生活態度について説教されるのだろう。


 所長室に向かう途中、廊下の窓に映る自分の姿を見て那由他は顔をしかめた。確かに、3日も着替えていない服装は人として問題かもしれない。


「失礼します」


 ノックの後、那由他は所長室に入った。


「ああ、萩原君。座りたまえ」


 中年の所長・篠宮は、温和な笑顔で那由他を迎えた。しかし、その表情には何か含みがあるように見えた。


「実は、君に提案がある」


「はい?」


「君の生活態度を改善するため、ホームヘルパーを……」


「却下です」


 那由他は即座に答えた。研究者として、他人に生活を管理されるのは我慢ならなかった。


「だが、このままでは……」


「私の研究に支障は出ていません」


「それが問題なんだ」


 篠宮は眼鏡を外してレンズを拭いながら続けた。


「君の研究能力は素晴らしい。だからこそ、もっと長く活躍してほしい。このままでは体を壊す」


 那由他は言葉に詰まった。確かにここ最近、徹夜続きで体調は最悪だった。


「人を付けるのはイヤですけど……」


「ならば、これはどうだろう」


 篠宮は一枚の写真を差し出した。そこには、整った顔立ちの青年が写っていた。


「パリの名門料理学校を首席で卒業した優秀な青年だ。彼なら、君の研究の邪魔にはならないはずだ」


 那由他は疑わしげに写真を見つめた。端正な顔立ち、優しそうな瞳。しかし、どこか子供っぽさが残る表情に、那由他は思わず目を細めた。


「でも、こんな若い人に……」


「ああ、確かに18歳と若いが、料理の腕は確かだ。それに……」


 篠宮は意味深な笑みを浮かべた。


「彼、かなりの秀才でね。数学のセンスも抜群らしい」


 那由他は再び写真を見た。18歳。自分より4つも年下。しかし、その眼差しには確かな知性が宿っていた。


「……分かりました」


 那由他は諦めたように同意した。どうせまた、適当な人を寄越されるよりはマシかもしれない。


 その日の夕方、那由他は自宅のドアを開けた。3LDKのマンションは、彼女の収入に見合わない立派な物件だったが、中は荒れ放題だった。リビングには論文が散乱し、キッチンには食器が山積みされている。


「誰か来るんだったっけ?」


 うろ覚えの約束を思い出しながら、那由他はソファに倒れ込んだ。次の瞬間、インターホンが鳴った。


「はーい」


 面倒くさそうに立ち上がり、ドアを開ける。そこには、写真で見た青年が立っていた。


「初めまして。荒木翔馬です。本日から、お世話になります」


 流暢な日本語だが、どこか特徴的なアクセントがある。フランス人の父を持つというだけあって、整った顔立ちは確かにハーフらしい。


「ああ、うん。入って」


 那由他は無造作にドアを開け放した。翔馬は丁寧にお辞儀をして入室する。


「……散らかっていてすみません」


 那由他は少し恥ずかしくなって言い訳を始めたが、翔馬は優しく微笑んだ。


「大丈夫です。これも研究者の宿命ですから」


 その言葉に、那由他は驚いて振り返った。


「研究、知ってるの?」


「はい。萩原さんの論文、いくつか読ませていただきました」


「えっ?」


 那由他は目を丸くした。自分の論文は専門性が高く、一般の人には理解できないはずだ。


「あ、そうだ」


 那由他は散らかった机の上から一枚の紙を取り出した。


「これ、解ける?」


 複雑な数式が書かれた紙を翔馬に差し出す。翔馬はそれを一瞥すると、


「ああ、これならλ変換を使えば……」


 そう言って、ペンを取り出した翔馬は、スラスラと式を展開していく。那由他は息を呑んだ。その解き方は、まさに自分が考えていた方法と同じだった。


「すごい……」


 思わず漏れた感嘆の声に、翔馬は照れたように笑った。


「いえ、那由他さんの方がずっと……」


「ちょっと待って。那由他、でいいよ」


「えっ? でも……」


「さん付けされるの苦手なの。それに……」


 那由多は一瞬躊躇したが、意を決して続けた。


「同居人なんだし、フランクでいいでしょ?」


 翔馬は少し赤くなって頷いた。


「分かりました、那由他」


 その夜、翔馬は早速キッチンに立った。那由他は興味深そうに、その手際の良さを観察している。


「今日はシンプルに、キッシュと野菜のポタージュを」


 翔馬の手さばきは正確で無駄がない。まるで実験手順を組み立てるような精密さだ。


「ねぇ」


「はい?」


「あんた、なんで料理人になったの? その頭なら、研究者とかでも……」


 翔馬は包丁を止め、少し考え込むような表情を見せた。


「料理は、数式みたいなものだと思うんです」


「数式?」


「はい。材料の配合比や火加減、切り方の角度……全て数学的な精度が必要です。でも同時に……」


 翔馬は優しく微笑んだ。


「人の心を温める力もある。その両面に惹かれたんです」


 那由他は黙ってその言葉を聞いていた。自分にとって数式は、世界の真理を解き明かす道具だ。しかし翔馬は、その同じ数式を人々の幸せのために使おうとしている。


「できました」


 テーブルに運ばれた料理の香りに、那由他の胃が鳴った。何日ぶりだろう、こんなまともな食事は。


「いただきます」


 スプーンですくったポタージュを口に運ぶ。その瞬間、那由他の目が見開かれた。


「これ、すごい!」


 野菜の甘みと、クリームの滑らかさが絶妙なバランスで調和している。


「良かった」


 翔馬は安堵したように笑った。那由他は夢中で料理を口に運びながら、時折翔馬の表情を盗み見る。18歳とは思えない落ち着きと知性。しかし、時折見せる幼さが、妙に愛らしく感じられた。


「那由他?」


「あ、ううん。なんでもない」


 那由他は慌てて視線を逸らした。こんな風に他人を意識するのは、久しぶりの感覚だった。

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