第17話 子どもにはわからないか。大人の味は

「私も大人になってしまった」


 御法川みのりかわさんは唐突にそう言った。


 いつもの公園のいつものベンチで、水色の水筒を太ももにはさみ込んで座っている御法川さんは、今日も暇そうにしている。


 御法川さんがいきなり話を切り出してくることは、島根と鳥取の位置がどっちだったかたまに混乱するのと同じぐらいに当たり前であるために、僕はいまさらつっこむことをしない。


「……」


 女性に対する年齢の話題は慎重にことを運んで損はないと風の噂で聞いたために僕は沈黙を選ぶ。


 癖のない長い黒髪で、フォーマルなスーツに身を包んだ御法川さんは、一見すると二十代前半くらいのように見える。


 が、ちゃんと歳を聞いたわけではないのではっきりしたところはわからない。


 一体何を言い出すつもりだろうと思って、御法川さんの様子を伺う。


 御法川さんは、水筒の蓋を開けて、中身を蓋兼コップに注いだ。黒い液体がコップを満たし、湯気が立ち込めた。


 湯気とともにかぐわしい香りがこちらまで漂ってくる。


 それは、なじみ深い香りだった。朝の香り、あるいは、喫茶店の香り。


 水筒の中身はホットコーヒーだった。


 彼女はコップに口をつけ、コーヒーを一口含む。


 ほう、と小さくため息をついて、御法川さんは言った。


「私は子どもの頃、コーヒーが飲めなかった」


 僕は得心してうなずいた。

 

「ああ、それで大人になった、と」


 昔、食べられなかったり飲めなかったものが、大人になってから口にすると案外いけて、なんなら好物にまでなる、という話はよく聞く。


 キノコとか、生姜とか、青魚とか、きんぴらごぼうとか、ドクターペッパーとか。


 コーヒーはその代表格みたいなものだ。


 子どもが、親の飲んでいる姿に憧れてブラックでぐいっと飲んでみるも、苦すぎて涙目になるという小規模な事件が、今日もどこかの家庭で発生している。


「それは、良い話じゃないんですか?」


 子どもの頃はできなかったことが大人になったらできるようになったのだから、それは成長と言っていいだろう。


 しかし、御法川さんは最初に『大人になってしまった』と言った。そこには、コーヒーが飲めたことを歓迎しない響きがある。


 御法川さんは過去を思い出すように遠い目をした。


「当時の私がコーヒー飲んで『苦くてまずい!!』と文句を垂れたら、私の父親は言ったんだ」


「はあ」


 おそらくは、御法川さんは自分の父親の真似をしているのだろう。眉間にしわを寄せたしかつめらしい顔をして、言った。


「『子どもにはわからないか。大人の味は』とね」


「ああー、言いそうですね、大人は」


 いかにも言いそうなことである。


 親というものは、時々説明が面倒になったり言いにくいことがあったりすると、大人と子どもという立場の違いを縦横無尽に使いまわし、それですべてを解決しようとする節がある。


 御法川さん、口もとに拳を持ってきて、悔し気にうめく。


「私は、それに何も言い返すことができなかった。父親の言うように、私がまずいと思う黒い液体も、大人には特別な能力みたいなものがあって、コーヒーの美味しさを感じ取ることができるんだ、とそう思っていた。私が苦くてまずいと感じるのは、私自身の精進が足りないのだ、と」


 精進て。


 なかなかコーヒー一杯でそこまでストイックになる子どもはいない、と僕は思う。


「しかし、私はある日、パラダイムシフトを迎えた」


「パラダイムシフト?」


 なんだか大げさな言い方である。


「図書館で調べものをした時に、たまたま知ったんだけどね。ほら、味蕾ってあるだろ?」


「ありますね」


 味蕾とは、舌に存在する味を感じ取るための器官である。


「で、その味蕾なんだが、子どもの方が大人よりも三倍多いんだ」


 御法川さんは、躊躇なく、んべっ、と舌を出して、ピンク色の感覚器を指差して示した。


 僕は、なんだか見てはいけないもののような気がして、さりげなく視線を逸らす。


「つまり、大人より子どもの方が味覚が鋭いと?」


 そう言うと、御法川さんはうなずいて、コップの中身を一気に飲み干し、その勢いのまま立ち上がった。


 彼女は演説するように胸を張って言う。


「その通り。だから、『子どもにはわからないか。大人の味は』なんて台詞はちゃんちゃらおかしいわけだ。私の父親は間違っていたっ」


 御法川さんは胸の前で拳を握って、かつての父親に反論するかのようにぶち上げる。


「正確には『もう子どもの頃に感じたあの苦みが、大人になった僕にはわからない』と言うべきだったのだ!」


 なんだか詩的だ、と僕は思う。コーヒーの味の話なのに。


 御法川さんは言うだけ言って満足したのか、ベンチに坐り直し、打って変わった静かな調子で言った。

 

「できることなら、当時の私に言ってやりたい。君は大人の味がわからないのではなく、『子どもの味』がわかる側なのだと。……しかし、私も大人になってしまった。今では私も、コーヒーがごくごく飲めてしまうお年頃。あの日感じ取っていた苦みがわからない私には、今更、父親の言うことを糾弾する権利はない」


 深刻な雰囲気である。しかし、重ねて言うが、コーヒーの話であった。


 そこで御法川さんはもう一度蓋兼コップにコーヒーを注いだ。


 そして、そのコップを僕の方へと差し向けた。


「君も飲んで味わってくれたまえ。子どもの味を理解できるうちにね」


 なんだか真剣な雰囲気が漂っていたために、僕も神妙な態度でコップを受けとった。


 口もとに近づけて、それを傾ける。


 暖かいコーヒーが、かぐわしい香りとともに僕の舌の上を踊った。


「っ!?」 


 そして、僕は想定していなかった味に、思わず吹き出しかけた。


 強烈な先入観だった。


 人間、コーラの瓶にコーヒーが入っていると、飲んだときに腐っていると感じるらしい。それと同じだった。


 僕の飲んだコーヒーには、大量の砂糖が入っているのか、とてつもなく甘かった。


「いやあ、私も大人になってしまったものだ」


 僕が飲む姿をしみじみと眺めながら、御法川さんは繰り返す。


 ――御法川さんはまだ十分子どもの味が理解できてますよ。


 そんな言葉を、甘いコーヒーとともに飲み下した。

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