第5話 雨の日は、無性に嘘がつきたくなる

 雨が降っていた。激しい勢いではないが、傘を差さずに出歩くには躊躇するぐらいの雨粒が、薄暗い雲から滴っている。


「雨の日は、無性に嘘がつきたくなる」


 御法川みのりかわさんは唐突にそう言った。


 雨の日でも、御法川さんは公園にいて、悪天のためにかアンニュイな顔で、屋根のある東屋のベンチに暇そうに座っていた。


 御法川さんがいきなり話を切り出してくることは、宇宙のデカさを考えると気が遠くなるのと同じくらいには当たり前の現象であるために、僕はいまさらつっこむことをしない。


「それは、風吹けば桶屋が儲かる的な話ですか?」


 いまいち、因果関係がピンと来なかったためにそう尋ねると、御法川さんは首を振る。


「いや、風吹けば猫が少なくなるぐらいの距離感さ。ほら、雨の日って、基本憂鬱だろ?」


「まあ、そうですね」


 低気圧とか、日照時間不足とか、濡れた衣服が気持ち悪いとか。


 中には傘もささずに唄いながらタップダンスを楽しむ人もいるらしいが、たいていの人は雨の日が好きじゃないと思う。


 御法川さんも、その点で言えばあまり雨が好きじゃない側らしい。


「私も、こんな日は、多少気分が落ち込む。気分が落ち込むとなんだか世の中のいろんなものに腹が立ってくる。腹が立つと悪ぶって、誰でもいいから嘘をつきたくなる。そういうわけだ」


 悪ぶっても嘘をつくで留まるあたりが御法川さんらしい、と僕は思う。


「そこで、君――」


 御法川さんはビシッと僕を指差した。


「これから適当に嘘をつくから、騙されてくれたまえ」


「宣言しちゃったら、騙せなくないですか?」


 身も蓋もない言葉に聞き返すと、ひと呼吸おいて御法川さんはこう答えた。


「そこはほれ、忖度しなさい」


 これってパワハラに数えられるんだろうか。


 心の中でぼやきながらも、僕は聞く姿勢へと移行した。


 御法川さんはおごそかに語り出す。



 ――ある日の話だ。私は急いでいた。なぜ急いでいたかっていうと、大事な仕事があったからだ。


 ――嫌だな、君。そりゃ働いているに決まっているだろう、私は社会人だぞ?


 この仕事に遅れたら大目玉、叱責確実、向こう十年は遅刻をネタに同業者に笑われるだろう仕事の予定があったんだ。もちろん私も遅刻なぞしたくないから、この日は前もって早寝して、十全に準備を整えていた。


 電車の遅れもなかったし、遅刻する要素はないはずだった。


 しかし、事件は目的地へと向かう電車の中で起きた。


 君、電車の中に鳩が侵入してきたところを見たことがあるかい? 何度かあるだろう。何しろここら辺は鳩だらけだからね。別に鳩も狙って侵入してきたわけじゃないだろうが、電車内で鳩と同伴することはそこまで珍しい話じゃない。


 しかし、それは一羽二羽の話だ。


 私が仕事先へと急いでいたなぜかその日。偶然に偶然が重なって大量の鳩の群れが、私の乗る予定だった電車を占拠しやがった。


『……えー、車内に鳩が多数侵入し、運行に支障が出ております……お客様にはご迷惑をおかけします』


 無慈悲に放送されるアナウンス。「ふざけんな!」「鳩のくせに!」「何が平和の象徴だ!」飛び交う怒号。急遽私は別の電車に乗り換えて行く必要が出てきてしまった。


 とはいえ、私は時間に余裕をもって家を出た。多少のアクシデントに見舞われたとはいえ、まだまだ全然間に合う時間帯だ。私はそこまで焦っていなかった。


 しかしだ。人間、十数年に一度、不運に不運が重なる日が巡って来るという。


 私にとってはその日が、そうだったらしい。


 乗り換えた先の電車で、今度はどういうわけか大量の野良猫が乗り込んで来た。鳩ならわかるが猫ってなんなんだ。


『ただいま車内に猫が複数……えー、確認されております。安全確保のため、一時停車いたします』


 またも無慈悲に流れるアナウンス。「猫と和解せよ」飛び交う怒号。


 私は、震える手で携帯を取り出して、仕事先に連絡をした。


「鳩と猫に電車を占拠されて遅刻します……まことにごめんなさい……」


 本当のことを言ったのにめちゃくちゃ怒られちゃったんだ。どう思う?



「――えーと、大変でしたね。動物の行動は、さすがに制御できないですからね」


「そうだろう、そうだろう。さすがにこれ、私悪くなよな!」


 僕の適当なリアクションにも、御法川さんは嬉しそうにうなずいている。


 いいんだ。これで。御法川さんの憂鬱が晴れるなら。


 そう思っていると、御法川さんは左腕をおもむろに上げて、手首につけられた腕時計を確認した。


 そして、いい笑顔で、


「で、その仕事の約束の時間が、あと五分後なんだ」


 僕は、一瞬だけ固まって、おそるおそる尋ねた。 


「――えーと、それも嘘、なんですよね?」


 御法川さんは、菩薩のような笑みを浮かべたまま黙っている。


 僕は、自分には関係ないのに、なんだか血の気が引くような感覚を覚えた。


「ちょ、ちょっと、御法川さん? 嘘なんですよね? 遅刻したら大目玉確実の仕事も全部嘘なんですよね?」


 そこで、御法川さんはいきなり立ち上がり、折り畳み傘を広げて、歌舞伎の見栄を切るように腕を突き出した。


「もちろん嘘かホントかは教えない! なぜなら今日の私は悪ぶっているからな! さーこれから謝罪行脚だ! アーハッハッハッハ!!」

 

 高笑いを上げながら、御法川さんは東屋から飛び出して行った。


 雨粒で擦れる光景の中を遠ざかって行く後ろ姿を眺めて、僕は思った。


 果たしてあの高笑いは単に憂鬱がさせるものなのか、行くところまで追いつめられた人間のそれなのか、と。 

 

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