第2話

 夜陰を切り裂くように、四頭立ての馬車が林間の街道を西へ西へと疾走していた。

 車輪が石畳表面の砂を巻き上げ、夜気を震わせる。

 馬たちは大柄の馬車を休むことなく引き続け、頑丈だが、しかしそれだけに重い車体が軋む音を立てさせた。


 王都西門は勿論、市壁上部の篝火も既に見えない。

 一行がゴルドシュミット西部の森に入ったというのもあるが、距離からして既にあれらは地平に沈んでいる事だろう。

 車内の窓からは、夜闇の向こうにそびえる木々の影がちらついていた。


 馬車の中にはようやく、少し弛緩した空気が流れていた。


「文字通り、第一関門突破といったところかしら…」


 未だ緊張に顔を強張らせながらも、安堵の息を吐くのは、黒衣黒髪の娘である。

 先ほど首都西門門衛長のエルドー氏に、自らの数十年の時間を2年半程度の給金額で売り払った事など露とも知らず、眼前に待ち受ける己が運命を未だ知らぬ哀れな「あのエルドー氏」に手紙を手渡した、あの娘である。


「このまま夜を徹してこのパイカラードの森を抜ければケイロン村に替えの馬車が用意してある筈。そこで乗り換え、次は南へ、エレリア手前のウェルス橋で馬を交代させて東に転換、後はこれを繰り返しつつ東へ東へと抜け続け、帝国の兄上の下に至る算段よ」


 そして、まさに今、大胆不敵たる「逃亡計画」の全容を語った娘こそ、王后「ルクレツィア・マリア・ジュリア・ディ・エステライエ」であった。


「この計画、貴女の目から見てどうかしら?ラスティナ」


 ルクレツィアは車内の隅に目を向けた。

 そこには、身を屈めるように座る「従者」の姿。

 黒いフードを目深に被り、身じろぎもせずに座り続けている。

「従者」は王都を出てからも、ただ沈黙を貫いていた。


「っと、ああごめんなさい。そのままじゃ答えようがないわよね」


 ルクレツィアは静かに立ち上がると、そのフードとマントの留め具に手をかけた。


 ゆっくりと布を剥ぐ。

 月とランプの薄明かりの下に露わになったのは、流麗な金の髪を整然と束ねた女性の横顔。

 年は30の手前であろうか。

 青を基調とした近衛隊の制服を着こなした彼女こそ、近衛隊長「ラスティナ・イヴライン・ツー・トゥール」、その人である。


 その口元には、猿轡がかけられていた。

 手足も固く縛られている。


 ルクレツィアはその猿轡を外した。

 布が外されると同時に、彼女は一気に空気を吐き出し、首を垂れた。

 まるで圧縮された声をも一息に解放するかのように。

 そして、未だ縛られた手足のまま倒れ込んで狭い車内の床に伏せ、乱れた呼吸を繕う暇も惜しむように顔を上げ、主に向け請願した。


「陛下!臣として、伏してお願い申し上げます!今からでもまだ遅くはありませぬ!事が発覚する前に、直ちに!離宮へとお戻りくださいませ!」


 女将校の声は切実だった。

 床に伏したまま、息を荒げ、彼女は王后を見上げる。

 猿轡を外され、ようやく言葉を発することができるようになった彼女が発した言葉は、詰問でも糾弾でもなく、懇願であった。


「今であればまだ、この馬車の出立とその内の御身を知るものはあの門衛らのみにございます!宮廷内には夜間のご不在に勘づく者もおりましょうが、それは臣が陛下のご安息が為に外出あそばせたとして、全ての責を負う所存にございます!しかし夜が明け、王都に陛下のご不在が知れ渡る事となれば、それは市民諸兄や議員たちの目には「裏切り」としか映りますまい!さすれば、王室への畏敬はいよいよ崩壊し、一度失われた信頼が戻る事は早晩御座いませぬ!」


 そして、その額を床に打ち付けての嘆願である。


「陛下!どうか!どうかご再考を願い奉ります…!」


 ルクレツィアはそんな彼女を、静かに見下ろしていた。

 夜気が車内を撫でる。


「…なるほど、あなたらしい、そしてもっともな意見ね」


 彼女は、薄絹の黒いヴェールを外しながら少しだけ笑みを浮かべた。


「顔を上げてちょうだいラスティナ」


 ラスティナの顔がおずおずと上げられる。

 その紺色の瞳には、決意を固めた王妃の姿が映し出されていた。


「でもごめんなさい。その提案は受け入れられないわ」


「陛下!」


「それにね?だって、この逃避行は、私の夫、つまり「国王陛下」のご意志でもあるのだのもの」


 ラスティナの瞳が揺れた。

 王后の言葉が彼女の中の信念に突き刺さる。

 彼女は、今の今までこの「逃亡」は、あくまで「王后の脱出劇」であり、その目的は「皇妹の救出」というエステライエ帝国の戦争目標の希薄化させ、戦争の回避を目論む「外交の戦略」辺りである事を想定していた。

 しかし、エステライエとの戦争はまだ確定したわけでもなく、市中会コンセントラシオンの外務委員と帝国大使との間では王后の処遇に対する交渉も行われている最中である。その他の市中会議員、殊、保衛委員会をはじめとする内務閥の間で巻き起こる論議が、望ましい状況に推移しているのかどうかはさておいて。


 故に、彼女の視点において戦略上のメリットを上回る内政上の致命傷を避けるべく、諫言に踏み切った。


 しかし、それはもはや前提からして見誤っていたのだ。


「…国王陛下の、ご意志…?」


 搾り出すような声が漏れる。


 この逃亡劇の主体は王后ではない。

 軍事外務に携わる王党派貴族ですらない。


 主体は王であり、王室が王都からの離脱を試みている。

 

「し、しかし…国王陛下は、ご座乗にありませぬ。別なる車で、お逃げあそばしにあらせられるのですか?それとも…よもや…?」


 よもや、民を捨てて国を去るだけでなく、国王を見捨て独り逃げてきたのか?

 彼女がその言葉を、最後まで紡ぐ事なぞできる筈がなかった。

 その目は見開かれ、声は少し震えている。

 ラスティナの問いかけに、車内の空気が一瞬凍りついたように思えた。


 ガラガラと石畳を疾駆する車輪の音が車内に響く。


 そして王后はふっと目を伏せ、わずかに息を吐く。


「…違うわラスティナ。捨てられたのは、私」


 ルクレツィアはゆっくりと顔を戻す。

 その表情には、悲しみとも諦めともつかぬ微かな影が差している。

 苦笑のような、冷めた笑みを彼女の口元に浮かべ、娘は忠臣の問いに答えた。


「沈む泥舟と運命を共にするのは自分だけで十分だから、せめてお前だけでも逃げろ、ですって。ほんっと、そんな思い切った決断ができるならば。もっと早くに色々と腹を括ってくれたならば、こんな事にもならなかったでしょうに」


 その声には、愛情の残滓と、どうしようもない悔しさが滲んでいた。


「情を断つ為か、嫌われる為か知らないけど、「エステラ女」だなんて慣れない事を言おうとするものだから、舌噛んじゃったのよ?あの人」

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