第3話

 丑三の森は静寂に満ちていたが、蹄鉄と車輪、鞭と嘶きの四重奏がそれを切り裂いた。


 他方、車内に於いては沈黙が場を支配している。

 ルクレツィアは窓の枠に肘をつけて頬杖もつき、何かしらの想いにふけているようであった。


 対面の、やっと手足を解放されたラスティナは窓の外を一瞥しつつ、拳を軽く握り、抑えた呼吸とともに何かを思案していた。


「ねえラスティナ」


 やがて、車輪が僅かに跳ねたのを合図にするかのように、王后が静かに口を開いた。


「皮算用だけど、私が兄上の陣営に着いた後…、あなたはどうする?」


 不意の問いかけに、ラスティナはわずかに視線を動かした。


「陛下をお送りし、そのご安全を確認したらば一路王都へ引き返し、軍に戻ります」


 しかし、その言葉はあまりにも即答だった。

 まるで、彼女の中にて定められていた定型文があるかのように。


「近衛隊長の椅子はたぶんもうないわよ?」


 ルクレツィアの声音は淡々としていたが、その言葉は鋭く相手を貫く。

 ラスティナはわずかに目を伏せ、呼吸を整えるように深く息を吸った。


「ならば徴募局に乗り込むまでです」


 拳を握りしめる力が増す。

 しかし、その紺の瞳は迷いなく前を見据えていた。


「一人の民兵としてでも最後まで戦い、旗竿を握り締めて殴りかかる事になろうとも国に果てる所存です」


「その相手が、私の兄上や、シルクラッドの義叔父様方の軍勢に対してでも?」


 ルクレツィアは肩をすくめ、ため息混じりに言った。


「陛下の臣民、いえ、今は国民でしたか…。彼らに銃を突きつける者こそが、私が相手をする者です」


「銃口があるのは、前だけではなくってよ?」


 ラスティナは静かに息を吐いた。


「…今は、彼らが選ばれ、求められているのも事実にございますれば」


「…ならば。そこまでの理解と覚悟がありながら、『今この馬車に乗っている』事から、貴女が目を逸らすのは何故?」


 ルクレツィアの言葉に、ラスティナの指先がかすかに震えた。

 しかし、彼女はすぐにその動きを押し殺し、冷静な表情を取り繕うように唇を引き結んだ。


「…夕餉の葡萄酒に苦味を感じ、シグリスに掴みかかった所までは記憶しております」


「睡眠薬なんて意外と大胆よね、彼。でもその後、倒れながらもしっかり胸ぐら掴んで床に引き倒し、2〜3発ぐらい殴ったらしいわよ?彼の顔を。拳骨ゲンコで。全くのヨウシャもなく」


 ルクレツィアは微かに口角を上げた。


「貴女を受け取る際、目元に青タン作って鼻から血を垂らした少佐からそう聞いたわ」



 馬車を潜ませていた離宮敷地の一角で、近衛隊における協力者であり、ラスティナの副官でもあるアレーン・シグリス少佐達と合流した際、彼らが既に負傷をしていた事から何かしらの妨害を受けたのかと驚いた後、その原因であった女軍人がいかに誇り高く、驚異的な意地を見せていた事に呆れた事を思い出しながらも、同時にどこか安心感を覚えていた。


「そしてね、彼らはね?貴女に処刑や謀殺なんていう非業の死を迎えてほしくないんですって。なんなら、できれば、たとえ、それが勇壮なる戦死であったとしても」


「だから私に全てを捨てさせ、そして逃げさせたと?!やはり私が、女—」「ラスティナ?」


 自身を襲った「裏切り」の真意を知ったラスティナは俄に立ち上がり声を荒げるが、その激昂は一瞬だけ強まった主の言葉と手に遮られた。


 そして、その直後、娘は穏やかに笑いながら告げた。


「それは違う。いや、言葉自体はその通りであっても、その意味は絶対に違う。そして、これが彼らの身勝手な思い上がりの押し付けだと思ったとしても。それすら否定してしまっては、いよいよ何も残らなくなるわ」


 ラスティナは、強く唇を噛んだ。

 言葉に詰まり、視線を落とす。


「…ともあれ、そんな彼らの「生きて欲しい」という望みと、私の「求め」で必要な条件が一致したからこそ、貴女は今、ここにいる」


 そんな彼女に、ルクレツィアはそっと声をかけた。


「…近衛隊、隊長。ラスティナ・イヴライン・ツー・トゥール、陸軍大佐」


 金褐色の瞳が、真っ直ぐに対面へと向けられる。


「夫に捨てられ、民を見放したけど、今でも私は、自分をエルブリヒトの、この国の王后であると思ってる。だから、今更実家に帰ったところで異物でしかない」


「私には、もう貴女しか居ないの」


 娘はゆっくりと腕を伸ばし、その手はラスティナの膝の上にそっと触れる。


「こっちに来て数年間、あそこへ行きたいあれをしたいと色々無理は言ってきたと思ってる。そして今、貴女をこんな状態に引き込んでおいて、卑怯な頼みだとも思う。でも、お願い。これが最後の私の我儘」


 そして、一拍を挟んで、娘は願いを口にした。


「一緒に、来てちょうだい」


 長い沈黙。

 ラスティナは視線を落としたまま、揺れる車内の床を睨みつけるように見つめていた。

 馬車の外では冬の深夜の寒空の中、御者が鞭を振るい続けていた。

 しかし、風は遮られているにもかかわらず、その内側にはそれに勝る寒々とした空気が張り詰めている。


 更なる静寂の後、彼女は少し視線を上に向け、深く、深く息を吐き出した。


「…陛下」


 そして、顔を正面に向け、絞り出すように呟いた。


「…お恨み申し上げますぞ」


「…ありがとう」


 ルクレツィアは微笑み、感謝の言葉を投げかける。

 この時において、謝罪は侮辱であった。


 その瞳は、夜の闇に沈む馬車の中で、かすかに揺れていた。


「…で、今までの私の手腕はどう思う?」


 一転、茶化すようなルクレツィアの口調に場の雰囲気が少しだけ和らいだ。

 ラスティナは軽く嘆息し、答えた。


「鼻薬に1000は些か過剰であるかと存じます」


「いいのよ、どうせ空っぽのベッドが見つかればバレるんだし。というか、見てた事に驚きだし、見えたの?中身」


「門前で停車する少し前辺りで目は覚めておりました。見えた物も、便箋ではない複数で特定の大きさな紙の存在と、その裏面の色のみではありますが」


 その答えを聞いたルクレツィアは小さく肩をすくめて車体の振動に身を預ける。


「じゃあ、あの門で暴れられていたら、私の華麗なる脱出計画は明朝を待たずして、早々に破綻していたのね?」


「…お戯れを。その時点で「王妃による近衛隊長の拉致」という大事件を発覚させるような事を、私が出来る筈がないではありませんか」


 ラスティナもどこか角の取れたような、呆れた声で返答する。

 しかし、再度一転して彼女は確信に満ちた声で進言した。


「ともあれ、この脱出行の中で一番安心できる時は、その『朝』までです」


 その声は低い。


「私が寝ずの番を行います。陛下は今のうちにお休みください。計画の詳細については後ほどお伺いします」


「重ね重ね、感謝するわ。じゃあ、言葉に、甘えさせて、もらうわね…」


 ルクレツィアは微笑みながら、ゆっくりと背もたれに身を沈める。

 そして糸の切れた人形のようにぷっつりと意識を手放した。


 ラスティナはその様子を暫く見つめた後、静かに騎兵直刀サーベルの刃を鞘から少し抜き、透き通るような刀身の腹を軽く撫でた。


 車軸が立てる音の合間の中にも、夜風が木々を揺らす音が微かに響く。

 朝が来るまでの、束の間の安息がそこにあった。


 それが嵐の前の静けさであることを、彼女たちがわからぬ筈がなかった。

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