閑話3 光陰

 雨は蕭々と降っている。

 俺の目の前には馬の群れではなく、雨に茶髪を湿らせた大男が大きなパフェを嬉しそうに頬張る光景があった。右目にはいつもの黒い眼帯ではなく、水色のリボンを縫い付けた眼帯を着けている。カジュアルな格好をするときに黒い眼帯では少し暗い印象になってしまうため、俺が手作りした物だった。作った当初は「俺には可愛すぎる」などと文句を言っていたが、なんだかんだとプライベートでの外出時にはコーディネートに合わせて着けてくれている。

 目の前の男 ―― 日野皐月 ―― は人からの厚意を無碍にできる人間ではない。それに加えて、本人にも自覚のあるところだが、顔面だけを見れば女と見紛うほど綺麗でさっぱりとした美しい造形をしている。ある程度可愛らしい物を身につけてもそこまで違和感はない。今日は爽やかな水色のデニムジャケットとジーンズに白のスニーカーという装いだったため、そこにアクセントとしてリボンをあしらった眼帯を合わせたのだろう。

 今日という日は本来であれば「おでかけ」という天候ではない。雨は朝から降り続け、車で移動しているときもルーフを打ちつける雨音がうるさいくらいだった。だが、それが逆に良い。

 生まれ持った美貌と、呪いによって眼帯を着けざるを得ない皐月さんにとって、人が外に出たがらない日ほど外出に適する日はない。誰が見てもハッとするほど美しい相貌とそこに装着される眼帯の異様さはどうしても人目を惹きつけてしまう。人混みの中である程度視線を引くことに慣れているとはいえ、好奇の視線を向けられ続けることは無意識のうちに疲労も溜まるだろうということは、俺も目の前の男もわかっていたことだ。

 元々、今日はこの喫茶店に来る予定をしていたが、俺たちにとっては都合の良い日となった。

 バイク趣味のあった皐月さんはそれと合わせて喫茶店巡りをするのも趣味になっていた。バイクに乗れなくなった今は俺が車を運転することで新たな店を開拓するというのが新たな休日の過ごし方となった。紅茶もコーヒーも甘いものもしょっぱいものもよく飲みよく食べる皐月さんにとって、音楽趣味と同じくらいには人生に占める割合の大きい趣味だ。そして、それらを堪能する皐月さんの姿を眺めるのが俺の趣味だ。

 美しい人が目の前のちょっとした贅沢を思う存分楽しんでいる姿は見ているだけで時間が光のように過ぎ去る。これは過言ではない。

 雨が窓を打ちつける音が心地良いリズムを生み出し、店内に小さく流れる音楽も相まって、まるでどこかのライブハウスのようだ。雨音が俺と皐月さんのふたりだけの空間を閉じ込めている。この時間が俺にとってどれだけ幸せなことか。

 パフェをほとんどひとりで食べてしまった皐月さんは、グラスの底に溜まっていた生クリームの最後のひと匙を口の中に突っ込むと立てかけていたメニュー表を開く。

「なあ、聖はなんか食わねえの? 俺、次頼むけど」

 残された左目は全ての色を吸い込む真っ黒なのに、きらきらと輝いている。その視線は忙しなくメニューを確認している。

「うーん……」

 皐月さんを眺めながらスマートフォンでニュースを読んでいた俺は俺で結構忙しかったのだ。第一陣として注文したオペラケーキがまだ半分も残っている。

「まだケーキを食べきってないから皐月さんだけ何か注文したら?」

「俺だけ追加で食べんの?」

「俺だけって……皐月さんの食べるペースが早いだけじゃん」

「お前がおせえんだよ……うーん、パンケーキにするか、それともショートケーキ……いや、ここでフライドポテトもありだな……紅茶も追加したいしなあ」

「全部注文すれば? どうせ食べるでしょ」

「流石にケーキを二種類も食べねえよ」

 メニューに落としていた視線が途切れて、じっとりとした左目がこちらを睨む。既にデカすぎるパフェを完食した人間が何を言っているのだろう、とも思うが。

 ここで俺が何かを言わなければ遠慮するところがある。俺はこの人がちょっとした贅沢を満喫する姿を見ていたいのに、自分がそれを阻む原因になるのは嫌だった。

「……フライドポテトなら俺も食べるよ」

「ん、じゃあ……フライドポテトと……うーん……パンケーキにするか。すみませーん」

 皐月さんの声が店内に響く前に既にこちらの様子に気づいていたらしい。若い店主がテーブルに近づいてきていた。店内には俺たちふたり以外に客はなかったため、追加注文に悩んでいる姿を見ていたのだろう。店主がテーブルに来てもなお、皐月さんはまだ「うーん」と唸っている。注文内容を決めていたはずだったのに何を悩んでいるのかと思うが、それもいつものことだった。

「フライドポテトの追加と、アイスティーをふたりともおかわりで……で、皐月さんは?」

「えー、っと……あー……よし、パンケーキで!」

 まだ迷いがあったようだが、料理名を読み上げたあとの左目はにっこりと楽しげに笑っている。若い店主もその楽しそうな微笑みにつられて笑みを浮かべている。

「ホイップクリームとバターのどちらをトッピングにされますか?」

「バターでお願いします」

「わかりました。少々お待ちくださいね」

 軽い足音が遠ざかっていくと同時に再び窓から雨音が大きく響いてくる。

 街中から少しだけ外れた場所にあり、小綺麗ではあれどいかにも近隣住民行きつけの喫茶店という店構えだったが、流石に今日は常連客たちも来ることを遠慮しているようだった。雨は時間を経ても弱まる気配もなく、俺たちふたりだけの空間がまたも出来上がる。

 食べかけのオペラケーキから一口分切り出し、口の中へ運ぶ。ねっとりと甘いチョコレートの風味が口内に広がり、鼻までカカオの香りで満たされる。美味しい。

「ケーキも美味しいし、落ち着いてて良いお店だね」

 同意を求めて皐月さんの方へ視線を上げると、皐月さんは窓の外に降る雨を眺めていた。真っ黒な瞳が彩度の低い風景をキラキラ反射させてつやりと光っている。皐月さんの視線を辿って雨の降り止まない景色を見る。何ということはない光景だった。灰色の空から溢れ落ちる雨粒がアスファルトや街路樹を打ちつけて、跳ね返る。それだけの景色だ。

「……そうだな」

 俺の言った言葉がようやく皐月さんの脳に届いたのか、何秒もラグがあったのちに返ってきた。これもいつもの光景だった。何か考え事をしていてもしていなくても、別のことに気を取られているうちは黙っているが、必ず返事をしてくれる。

 美しい相貌に薄ら笑みを湛えて、アイスティーのグラスの中身を空にするためストローを唇に挟む。残っていたアイスティーを飲み終えると、次はタバコをジャケットから取り出す。最近には珍しく、ここは全席で喫煙のできる喫茶店だった。

 タバコ一本を唇に挟んだまま、皐月さんはジャケットやジーンズのあらゆるポケットを探っていたが、また同じポケットに手を突っ込んでは取り出してを繰り返し、ついには眉間に皺を寄せてもごもご言う。

「……ん、ライターどこだ……」

「はい」

 そんなことだろうと思い、ハンドバッグに入れていたライターを素早く取り出すと火を着けた状態で皐月さんの目の前に差し出す。

「すまん」

「ライターなんかどこにでもいっちゃうからね。百均ライターだから余計に」

「ちょっと値の張るジッポでも買うか……」

 皐月さんは苦笑いで素直に俺の手からタバコに火を着ける。何十回、何百回と皐月さんのタバコに火を着けてきた俺だ。距離感も手慣れたものだと自分でも笑ってしまう。

「どんなデザインのやつ、買うの?」

「買うこと前提かよ」

「いつまでも俺が火を着けるわけにもいかないでしょ」

「お前はいつもいるだろ、俺の近くに」

 ふうっとタバコの煙を窓の方へ向けて吐き出した皐月さんの顔には先程の苦笑いとは一八〇度変わってどこか意地悪な表情が浮かんでいる。

 ―― まったく、この人は。

 この傲慢ともとれる言葉を引き出せるようになるまで、どれくらいの時間をかけたか。この人は俺以外には決してこんな物言いはしない。その信頼関係とそれを構築できたという事実が俺の心を満たす。

 だが、それはそれ、これはこれ。

「俺だって最近忙しいから、そんないつも一緒にいないでしょ」

「お前といるときくらいしかタバコはやらねえよ」

「嘘つけ。俺が出張から戻ってきたら喫煙所にいるの何回も見てんだぞ」

「……そのときは、ほら、お前のデスクからライター借りてるから……」

「そんなことするからすぐライターがなくなるんだ。何回買い足してると思ってんだよ」

「すまんすまん」

 悪びれる気配の一切ない謝罪の言葉だが、それも心地良い。小言は言うが、俺だって本心から困っているわけではない。

 皐月さんに倣ってハンドバッグから俺もタバコを取り出し、火を着けて一服。天井に舞い上がっていく二筋の煙が有耶無耶になってひとつに混じり合う。ふたりきりの空間でタバコをゆっくりとくゆらせる。雨が降り続いていつまでも変わらない外の景色と、確実に灰になっていくタバコの先の対比がなんだかおかしかった。

 このおかしな対比の中にいる美しい人の何気ない所作や言葉をゆっくり味わう。何十回、何百回と見てきた光景なのに、それでも俺は。

「……お前も楽しそうで、良かった」

 タバコのフィルターをもう一度口元へ運んでいるときに、皐月さんの笑顔が煌めいた。それはパフェやメニュー表を目にしたときのものや、外の景色をぼんやりと黒目に映しているときのものとは違った輝きだった。輝いているが、もっと柔らかな光だった。左の眼窩にだけ残された真っ黒な瞳はすべてを包み込む柔らかくて暖かくて優しい光だ。

 一瞬止まった手を動かし、タバコの煙を一口肺に取り込んで吐き出す。

「……皐月さんが楽しいなら俺も楽しいんだよ」

「お前はいつもそればっかりだな」

「それをわかってて言わせる皐月さんもどうかと思うよ」

「お前が勝手に言っただけだろ」

「……ひどい人だな」

 そんなことを言いながら、自分の顔に浮かんでいるのは笑顔だ。

 何十回、何百回、何千回。この会話を繰り広げられるなら、それほど幸福なことはない。

 ぐっしょりと濡れた景色と、外野の喧騒を遠ざける雨音。ふたりきりの時間は光のように一瞬に過ぎ去る。それは何の不思議もない現象だ。

 雨が降っている。

 雨は蕭々と降っている。

 俺たちの幸福は雨に閉ざされた時間の中にほんのわずかに存在する、何ということはない、ただの人の営みだ。

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