閑話2-2
一戦交えるだけのつもりが随分時間が経ってしまい、外を見れば日が傾き始めていた。
性交渉でぐしゃぐしゃになった頭髪はそのままに俺たちふたりは慌てて衣服を身にまとい急いで車に乗り込む。
早く出発しないと日が沈んでしまう。
スマートフォンのナビを俺が設定している間に聖が車のエンジンをかけ、そしてルートに従って極力法定速度を守りながら「観光地」へ向かう。
往々にして「観光地」と「自殺スポット」というものは重なる。絶景はいわば自然の脅威と言い換えることもできる。絶景は人の命を容易に奪うことができる。自殺の名所であるのに観光業が成り立つため、土産物屋や食べ歩き屋台などが軒を連ねる場所も多く、今回の目的地もそういった場所なのだが、予定時刻を大幅に超えてしまったため、まだ明るい時間帯ではあるものの閉店している店も多かった。
美味しいものを食べてから死のうという希望を叶えることはできなかったが、ともあれ、日が沈む前に目的地近くの駐車場に到着した。
土曜日のため、まだ人が居るもののまばらといった様子で、駐車場へ居た人々も大半が帰り支度をしているという状況だ。俺たちのように今から崖際まで行こうとするものはほとんどいない。今から帰宅するだろうという何人もの観光客と山道ですれ違いながら、俺たちは急斜面に気持ちばかり据えられた石段を登っていく。
俺は死にに行くのに、自分の足取りがどうしてだか軽いのがわかった。その軽い気持ちがどこに端を発するものなのか、聖の言葉で理解した。
「なんか……大学時代を思い出すなあ」
深夜に急に思い立って、ラーメンを食べに行ったり、花火をしたり、海に行ったり、山道を駆け抜けたり。高校生までの自分や、社会人になった今では到底できないような、時の流れに逆らっているような、もしくは時の流れを止めているような感覚。世の中から外れたその感覚はいつでも俺たちの胸を踊らせ、そして少し暗い気持ちにさせるものだった。暗いのに軽やかな感覚。先は見えないが今は楽しい、最大瞬間風速だけを味わうあの感覚。
――死んだらどうなるんだろう。
こんなシンプルな題目について考えなかったわけではない。俺たちは怪異対策課という怪異現象に対処する特殊な職務を任された部門に所属する人間だ。死んだ者の怨念やら何やらに対処してきたことだってある。だが、それが生前の事物と同一の魂と断定することはできず、かといって同一ではないとも言い切れない。怪異は生きている人間が存在してほしいと思うから発生している――そうとなえる学者も居るくらいに、怪異という存在は曖昧なものだ。
俺にとって、死後の世界が存在するかもしれないことは正直恐ろしい。
なぜなら、及川聖の欲求は俺たちふたりの死でもって完結するシナリオだからだ。もし、死後の世界が存在するのなら、死んでもなお、聖は満たされず、この世を彷徨い続ける羽目になるかもしれない――俺はそれが一番怖い。
「……聖、お前さ」
左目でしか物の見えない俺のために山道を先に歩く男の背中に声をかけた。傾いた橙色の陽光にくしゃくしゃの銀髪を煌めかせて、男がこちらを振り返る。
「どうしたの、皐月さん?」
眩しすぎる陽光に照らされた及川聖の精悍な顔には、もう一切の迷いはなかった。
結局のところ、先が見えない暗さを重視するか、最大瞬間風速の光を重視するか、どちらなのかという問題なのだろう。悔いも憂いもなければ、死後に化けて出ることなんてできない――そういう意味では聖の表情はとても清々しいものだと思えた。
「いや……喉、渇いたなあって。車の中に俺のお茶、置きっぱなしだわ」
「ああ、俺のあげるよ」
聖が右手に提げていたペットボトルをこちらに差し出す。中身は山道を歩いているさなかに泡立っていたが、冷たさはまだ残っていた。
誰もこの男が、俺たちが、今から身投げしようとしてるなんて思わないだろう。
俺は聖の清々しい表情を見て、より軽やかな観光気分になった。
崖際よりも遥か手前に建てられた柵と数台並ぶベンチ。
飛び降りる様は人様にお見せすることができないものであるため、俺たちはそこにまだ人が居たらどうしようかと考えていたが、そこへ辿り着いたときには意外にも俺たち以外に人間は存在しなかった。その代わりに見事な夕焼けが海と断崖を照らしつけ、日本の自然の美しさを浮き彫りにしていた。
「おお……綺麗だなあ」
自然と感嘆の言葉が口から漏れる。山道が少し険しかったということもあり、ほどよい疲労が感じられ、ある種の達成感が胸の内に湧いていた。崖に打ちつける潮の音と耳横を通り過ぎる風切り音。土曜日の行楽日和というのに俺たち以外に誰もいない空間。全身で感じるものすべてが心地良い。
「良い場所だ……ね、皐月さん」
「……最期を彩るには絶好の場所、ってことか?」
少し汗ばんだ手が、俺の左手を握ってくる。
飛び降りの打ち合わせは事前にしていた。確実に死ぬために抱き合わない。ただ、最期まで顔を見ていたいから手は繋いでいよう。そういう話だった。
俺がその右手を握り返すと、聖はまた嬉しそうに笑って言う。
「なんで皐月さんは俺の言いたいことがわかっちゃうんだろうなあ」
嬉しそうに、そして心底不思議そうにいつも通り笑う聖のことが、俺は本当に。
「あっ、花びら……」
眼帯の下から溢れ出る真っ赤な花弁が潮風に巻き上げられてどこかへ飛んでいく。
「聖の考えてることくらいわかるよ」
「それが不思議だって言ってんのに――初めて会ったときからそうだったじゃん」
「それは……お前がわかりやすい人間だからだよ」
「……皐月さんほど俺をわかってくれる人間なんて、いないよ」
及川聖は人からわかってもらえない苦しさを抱える男だった。この欲深い男はずっと、誰かに自分の苦痛を理解してほしいと思っていた。
――俺と似ていると思った。
一目見たときから、俺と聖は似ていると思っていた。だが、それは口にしない。似ているが、同じ苦しみではない。俺たちは違う人間なのだ。同じ痛みを抱えているわけでもない。だが、似た苦しみを持つ者同士、そばにいることが心地良く――俺以外の者にこの場所を譲る気もなかった。
「だが……それで良いだろう?」
「えっ?」
「俺だけで、良いだろう……聖のことがわかるのは、俺だけで良いだろう?」
もっと強く、手を握る。
どこまでが俺でどこからがお前なのかわからなくなればいい。
この気持ちを――お前に理解してもらえるだろうか。
「皐月さんは……もっと自分の可愛さを自覚するべきだったね」
「……はあ?」
聖の発言はいささか唐突に感じられた。しかも「可愛さ」とはどういうことか。
「皐月さん。俺は皐月さんが思ってるよりも多分、ずっと、皐月さんのこと知ってるよ――だから」
握ったままの手が強く引かれる。そして体温の上がった体をぴたりとくっつけて抱きしめられた。
「大丈夫。俺も皐月さんと一緒だ。一緒になろう。同じ気持ちで、同じ方法で終わらせよう」
潮風など関係ないほどの近い距離で低く子守唄のように囁かれる。本当にすべてが心地良い。
――そうだ、このまま終われるなら、これが一番幸せなんだ。
何度か口づけを交わして、いよいよ太陽が本当に沈みかけそうになる時間。
どちらが手を引くわけでもなく自然と、俺たちは鉄の鎖で張られた結界を踏み越えていった。
「どんな高さから飛び降りても滞空時間は変わらないらしい――本当かどうか知らないが」
「ふうん。加速度的なアレかあ。何秒くらい滞空できるんだろ」
「三秒とか、それくらいのもんだってどこかで読んだ記憶があるな」
「なんでそんなもん読んだことあるんだよ、皐月さんは……」
「飛び降りが続く場所の怪異払いをしてくれって依頼あっただろ。怪異以外に要因がないか調べようと思ったときにたまたま目にしたんだと思う」
「あー、アレか。最初から神社か寺に頼めばよかったのにって愚痴ってたヤツ」
「それそれ。結局怪異らしい怪異は居なかったけど、近場の寺の坊主にお経をあげてもらうように頼んだヤツな」
今日の計画を立てているときに交わした会話が脳裏をよぎる。
一歩踏み出すごとに潮騒がこちらの意識をどんどん飲み込んでいくのがわかった。侵食が深くなるほど、潮騒のざわざわとした音が一気に大量の記憶を呼び覚ます。俗に言う走馬灯とはこのことなのかもしれない。だが、なぜか思い出せる記憶はすべて隣で手を握っている男とのもので、その他のことは本当に何も考えられなくなっていた。
残された左目でちらりと聖を見る。聖は清々しい表情のまま、俺に合わせて――合わせているのは俺かもしれない――歩いていた。
同じ気持ちで、と聖は言っていた。聖も、俺との思い出ばかりをその脳に蘇らせているのだろう。いや、そうだったら嬉しいのだが。
そんなことを思っているといつの間にか断崖の本当に端まで辿り着いていた。
ごつごつとした岩肌が真下には広がっている。じきにその岩肌も海水に覆われるのだろう。岩肌に打ちつけられた俺たちの肉体は海水に攫われるかもしれない。運が良ければ誰かが見つけてくれる。
圧巻とも言うべき自然の凄まじさを目の前に、聖は笑っていた。快活と言っていい。端整で精悍な顔つきをした健康そうな青年が光量の弱くなりはじめている陽光に儚く照らされていた。
「皐月さんの最期を俺にくれて、ありがとう」
「……そう言うと思ってたよ」
「ああ……また俺の考え、見透かされてたか」
「そうだな……でも、どちらかというと……」
――もう一度だけ、口づけを。
少しだけ手を引くと、聖は俺のしたいことを察してもう一度俺を腕の中へ抱き入れ、唇を触れ合わせた。その肉の柔らかさ。温もり。今からすべてが壊れるのかと思うと惜しい気もしたが、だが、それよりも。
「見透かしていたというより……俺も同じ気持ちなんだ」
「……やっぱり、そうだったんだ」
「最期までちゃんと言えなかった……ごめん」
「今、言ってくれたから良いよ。それに俺も知ってたから……さっきも言ったじゃん。俺も皐月さんと一緒だって」
バラの花弁が潮風に攫われて吹き荒れる。儚い陽光とバラの吹雪の中に愛らしい人が立っていた。それは俺の愛する人だ。
そして今から、俺たちは、互いに互いを殺すのだ。
唯一の理解者が居なくなる苦しみは俺たちにしかわからない。ならばその唯一が居なくなる前に、これ以上苦しみが深くなる前に、幸せの中で終わらせる。
「聖の最期を、俺にくれて――ありがとう」
落下中に離れないように、強く強く互いに手を握り合って、そして俺たちは何もない場所へ足を踏み出した。
「ありがと、皐月さん」
調理を終えたのを見計らって、聖が声を掛けてくる。完璧主義な部分のある男だが寝癖のついた銀髪を整えるわけでもなく、少しだけ眠そうな表情で俺に微笑みを向けてくる。俺の右目は完全に機能を失っているため、聖は必ず俺の左隣にやってくる。そして聖は台所のすぐそばにある食卓にテキパキと皿や椀を移動させていった。
俺が右目を失って以降、台所にも立たせたがらない様子の聖だったが、片目で過ごすことに慣れた今では俺が台所に立つことに特に眉を顰めるようなこともなくなった。
今日は土曜日。特に出かける予定もなく、ゲームをするか本を読むか、はたまたぼんやりと動画投稿サイトを巡回して目ぼしい楽曲探しをするか――などと考えていたのだが。
塩胡椒をかけておいた目玉焼きを箸で割り、口の中へ入れる。少し塩気を強めに味付けをしたそれは白米との相性が抜群だった。一方、聖は目玉焼きの上に醤油をたらしている。いつもの休日の朝だ。
黙々と食事を進めていくのもいつも通りだった。しかし、味付けのりを取り出してごはんの上に置いたとき、聖が口を開いた。
「ねえ、皐月さん」
「ん?」
呼びかけられたが、こちらの視線はごはんの湿気に萎びていく味付けのりに注いだままだった。萎びたのりで白米をくるりと巻いて、それを口に運ぼうとした。しかし、白米をくるりと巻いたところで箸が止まることになった。
「俺と一緒に――」
<終>
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