事例3-9

「わかっているとは思うが、スマートウォッチの通話は切るなよ」

「わかってますって。仙谷瑠美華の口添えがあれば没収もないと思いますし、そこらへんは適当にやります」

「まったく……毎回急すぎるんだ。どうしてこちらに相談もなく話を進めるんだ?」

「いやいや、村雨さん。これ以上被害者が出たら困るでしょ。ことは急を要する……『事件は会議室で起きてるんじゃない』ってね」

 悪びれる様子もない及川は運動のしやすい格好で運転席に座ったまま後部座席に座る男の小言をのらりくらりと躱している。同じく後部座席に座っている日野は隣の男の表情が芳しくないのを見ていた。

 他のオカタイ職員と同様に黒のスーツを着込んでいるが、そのジャケットは少し年季を感じさせる。警察署に駐在しているということもあり、少し威圧感のある男だ。襟足もしっかりと切り揃えられた黒の短髪で、その顔もやはりいかめしく、本物の刑事だと言われても騙されてしまうほどだ。だが、警察官ほど逞しいというわけでもない。れっきとした出向職員だ。

 三人はとある市民会館の駐車場に居た。夏も近づいているということもあり、まだ太陽は落ち切っていない。件の「ヨガ教室」は十九時から開始だ。現在時刻は十八時四十五分。仙谷瑠美華とは十八時五十分に会館前で待ち合わせの予定だ。「ヨガ教室」の間は否が応でも待機の必要があり、なおかつ他の人間から日野と村雨の存在を知られないようにするため、ふたりは後部座席に座っていた。

「今回、怪しいところがなくてもまた来週の教室にも参加予定なので、その時もよろしくお願いします」

「おい……俺の仕事の都合とか、そういうことは考えないのか、及川」

 ただでさえいかめしい顔が一層恐ろしいものに変化する。だが、日野も及川も知っている。村雨は「なんだかんだ面倒見が良い」。及川はにっこり笑顔を作って後部座席を振り返る。

「村雨さんだから大丈夫って知ってるんですよ、俺も」

「わかりやすいおべっかを言うな。このバカ野郎」

「すみません」

「思ってもいない謝罪を口にするな」

「ええー。じゃあ何を言えば良いんですか」

「おい、日野。お前の後輩指導はどうなっているんだ」

 突然矛先を向けられた日野は曖昧に微笑みを浮かべるしかない。

「本当に……申し訳ないとしか……」

「及川。お前の先輩も困ってるだろ」

「皐月さんは俺のこと許してくれてるから。村雨さんもドウドウ」

「ふざけやがって……」

 村雨が何を言っても、オカタイの課長は及川だ。序列上、一番上に来るのは日野でも村雨でもなく、及川である。課長が職務としてこの案件を最優先すると言えばそれに従うしかない。

「とりあえず行ってきます。何かあれば容赦なく殴り込みに来ていただいて構いません」

 及川が真剣な表情で日野と村雨の両者にそれぞれ視線を向ける。

 精悍な顔つきの及川を見て、日野の胸が再びざわつく。及川の顔には不安を感じさせる要素など微塵もないのに、嫌な予感が止まらない。だが、日野はそれを口にすることはできなかった。

「……わかった。気をつけて行けよ」

 村雨が声をかけてようやく、日野も口を開くことができた。

「聖、気をつけて」

「ありがとう、皐月さん。行ってきます」

 最後にもう一度だけにっこりと、今度は日野にだけ笑顔を向けて、及川は車を後にした。


 村雨のスマートフォンは及川からの通信を受信したまま常時録音された状態になっている。

『及川さん! 本当に来てくださったんですね、嬉しいです!』

 阿部の音声データで聞いた若い声が弾むように及川に話しかけているのが聞こえてきた。仙谷瑠美華の声だ。

『勿論ですよ。ルカさんの占いが本当にすごいから、やっぱり俺も気になっちゃって』

『そう言ってもらえるのが一番嬉しいです!』

 通話越しからもわかる。「女の色」をした声だ。こういった「色のある声」を何度も浴びてきたため日野にはわかった。仙谷瑠美華はおそらく及川を信用しきっている。

「……こいつ、相変わらずだな」

 そしてそれは警察署に常駐して様々な人種と接してきた村雨にもわかるものだ。呆れたような村雨の言葉に日野はまたも曖昧に笑顔を浮かべるしかできない。

『一応、携帯電話などの通信機器は電源を切っていただくのがこの会のルールなんですけど……』

『その件に関してルカさんにお願いがあって……過去に心臓を患ったことがありまして、常時データをとっていないといけないんです……』

 申し訳なさそうな声色の及川に仙谷が明らかに慌てふためいて言う。

『あのっ、そういうことでしたら、例外で! 私がなんとか言っておきます。スマートウォッチ以外に通信機器はお持ちですか?』

『スマホがあるのでそっちの電源は切りますね……はい、これでどうかな』

『ご協力ありがとうございます』

『いや、こちらこそ気遣わせて……ごめんね、ルカさん』

 基本的には敬語を使いながらも適度に距離の近い言葉遣いを織り交ぜる。及川の会話術は女を落とすという意味で本当に上手い。

 それを聞かされる日野は、恋人の身としてはなんとも複雑な心境だ。

『そんな……及川さんが悪いわけじゃないですから……とにかく、案内しますね!』

「通信機器の電源が切れたか確認するのはやはり……怪しいな」

 村雨の表情は険しい。通常のヨガ教室であればマナーモードなどで済むところを仙谷瑠美華はわざわざ電源オフの確認作業まで行っている。少しの物音ののち、会館の入り口付近でも何人かの人間が確認を行っている様子も通信で聞こえてきた。

『では及川さんはこちらでお待ちくださいね』

『あれ? ルカさんも一緒にヨガをするんじゃないの?』

『私もヨガをしますよ! ちょっと準備があるので……』

『そっかあ……』

『そんな顔をしないでください、及川さん。女性が多いんですが、男性の会員の方もいらっしゃるので安心してくださいね。何よりリラックスと一体感が大切なんですよ。親切な方ばかりなので大丈夫です』

『ううん……ちょっと緊張するなあ』

 思ってもいないことを言っている。日野が目を細めると同時に村雨も「ふふ」と笑いを漏らした。裏腹すぎる言葉に耐えられなかったのだろう。

「本当に相変わらずだな、お前の後輩」

「……良くも悪くも変わりませんよ、聖は……」

 そう言いながら、日野は目を伏せた。

 真っ暗な視界の中で、己の胸の内に蠢く不安をなんとか抑えつけていた。すると別の女の声が聞こえてくる。

『あの……今回初めての参加ですか?』

『あ、はい。そうです。ルカさんに誘われて』

『ルカ様直々にですか!』

 日野は伏せていた目を開くしかなくなった。村雨も同じように驚いたような表情で通信に耳を傾けている。

 ――ルカ『様』って、どういうことだ?

『ええっと、そうですね……?』

 猫を被っていた及川も動揺を隠せていない様子だったが、女はそれに構わず話を続ける。

『わあ! それは素晴らしい! どのようなきっかけでルカ様に?』

『ルカさんの占いで同僚が怪我をするっていう結果が出て、それが見事に当たってこの人はすごいって勧められて鑑定してもらったんです。俺のことも色々言い当てられて……』

『ああ……同僚の方の具合は……?』

 女の語り口は本心から阿部の怪我を心配するものだ。善良な市民そのものといった具合だ。

『今はだいぶ良くなりました。今日はヨガっていうことだったんで、俺ひとりだけで参加しにきたんです』

『そうだったんですね。怪我が完治されたらぜひその方も誘ってあげてください! とても素晴らしい集まりなので』

『そうですね。みなさん、本当にお優しそうな方々ばかりで、少し安心しました』

『それは良かった……あっ、そろそろ始まる……貸し出しのヨガマットがあるのでこちらを使ってくださいね』

 女の言葉の直後、ハウリング音が響く。主催がマイクを使っているのだ。

『――みなさま、こんばんは。今週もみなさまとお会いできたことに一層の喜びを覚えております』

 ノイズが掛かっているが男の声だということは聞き取れる。

『それではみなさま、まずは呼吸法から始めましょう。ゆったりと、気を鎮め、そしてこの場にいるみなさまと、身も心も合一させましょう』

 いよいよヨガ教室が開催される。しかし仙谷瑠美華はどこにいるのだろうか。

『ではみなさま深く空気を吸い込み、みなさまの中に蓄積された不浄を吐き出しましょう――こちらにおわすルカ様とともに』

 その言葉に日野が村雨の顔を見る。村雨も緊張した表情で日野の方を見た。

 登壇しているのは男だけではない。仙谷瑠美華本人もステージに、そして集会の中心人物として据えられているのだ。

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