事例3-6

「……だからトイレに行くなって言っただろ」

 及川は冗談を口に出しながらも狼狽は隠せない様子だった。

「トイレには行ってへんねんって……」

 いたた、と声を漏らしながら阿部は自席に戻る。日野は少しだけ浮かせた腰を再び椅子に落ち着けたが、及川はそのまま立ち上がり、阿部の隣のデスクの椅子を引いて座った。

「何があった?」

「それがさあ……」

 阿部の眉尻が今まで見たことがないほど下がっている。いつもしっかり者の後輩がそんな表情をしているのは日野としても苦しい。

「定期的に用務員さんが庁舎内の掃除してくれてるやんか。どうやら今日がその日やったみたいで……モップ使ってはるからあんまり近づかんとこうと思って距離とって移動しててんな。モップで拭いたところは水が反射するからわかるやんか。やし、教育センターに書類提出し終わったあとも作業してはるところとか、水が反射してるところを避けて歩いてたんやけど……」

「……モップ掛けの水でこけたのか、阿部さん?」

「まあ……結論を言うとそういうことにはなるかなあ……経費削減とかいうて昼間は廊下の電気ついてへんところもあるやんか。ちょうど反射がわからん場所で転んで……受け身を取ろうと思ったんやけどパンプスが脱げてもうて、手首と腕、思いっきりぶつけてもうたわ……ほんでこれは、センターにいる先生らが手当てしてくれたってわけ」

 教育センターに配属されている人員は元々学校現場に勤めていた教員ばかりのため、怪我の手当てなどはお手の物だ。

「病院に行かなくても大丈夫なのか?」

 及川はもう狼狽えてはいなかったが、無表情のまま阿部の腕を見つめて言う。精悍なその横顔は無表情でも視線が何かを伝えたがっていることは日野にはわかった。

「あー、それは大丈夫やと思う。手首はちょっと捻っただけやし、冷やしてたら良くなるって先生らも言うてたわ。腕の打ち身はまあ……多分今から青タンに変わっていくとは思うけど……見た目がちょっと派手なだけの怪我やね」

「怪我に派手も地味もないだろ……」

「骨折れてるとかではないから、大丈夫やって――心配かけてごめんなあ」

 普段とは違い、しょぼくれた阿部が謝罪を述べる。すると及川は無表情だった顔へ急速に焦りを取り戻し、目の前の同僚に頭を下げた。

「ごめん! 阿部さんが謝ることじゃない。俺がセンターまで行ってたら良かった」

「それは結果論やん。及川くんも悪くないし……結局最後まで用心できへんかった私の責任やから」

 それを聞いた及川はぶんぶんと首を激しく横に振る。その勢いでサラサラの銀髪が頬を打とうとも関係ないようだった。そしてピタリと止まって阿部を見つめた。

 その表情を見て、嫌な予感がしたのは日野だけだろう。

「違う、阿部さんの責任じゃない――部下の責任は」

「おいおい、待て、聖」

 日野が慌てて後輩たちの間に入ろうとするが時すでに遅し。

「上司である俺の責任だ。阿部さんの掴んできた一件、俺が引き継ぐ。俺もそのルカという占い師と直接話して探りを入れる」

 あちゃあ、と言いかけたのを喉の奥に留めた自分を褒めたい。日野はそう自身を納得させようとする。

 及川の発言は筋が通っている。部下が稼働できなくなれば上司が動くことは当然のことだ。だが一方で、厄を正確に言い当てられる占い師に対して自身の恋人を差し向けるというのは不安になるのも自然のことだ。

 しかし、いくら説得を試みたところで、及川はやると言ったことはやる男だ。誰も止めることはできない。たとえ恋人の日野であっても、だ。

「あー……聖が阿部さんの件を引き継ぐとして、実働は俺で良いんじゃないか? 俺が調査を続行して、その案件を俺とお前のふたりで受け持つ……」

 これは日野としては最大限、精一杯の説得だった。しかしその努力も虚しく論破される。

「はあ? 皐月さんみたいな男が実働隊で調査に動いたら目立ちすぎるでしょ」

「美形の眼帯キャラなんか、モグリでは悪目立ちしますよ、日野さん」

 ほぼ同時に発せられたセリフ。そして白白と呆れたふたつの視線が、一斉に日野に向けて注がれた。

 自身の容姿を美醜のどちらかで判別しろと言われれば美側である自己認識があるだけに、日野はふたりに返す言葉が思い浮かばない。そして眼帯はただでさえ目立つ。確かに潜入調査には向かない。

「しかもルカは……仙谷瑠美華は大学卒業したての女の子でしょ?」

「あ、ああ……そうだな?」

「じゃあさ……この調査はオカタイで一番『メロい』男に向いてると思わない? 色恋で情報を釣ってみるの、面白そうじゃん?」

 腕と足をそれぞれ組み、椅子の背を軋ませながら踏ん反り返る男は、確実に怪異対策課の中で一番の男前だ。誰が見てもそう答える、と日野は思っている。

 鼻梁の通った男らしい顔つきに明るい色の瞳がコントラストとなり、雄々しい中にも甘さを感じさせる顔立ちをしている。実際、及川は大学時代に女を取っ替え引っ替えしては問題を起こしたり起こさなかったり、とにかく性的な方面では落ち着きのない人間だった。それだけ女性を惹きつける能力の持ち主であると評価することもできる。

 日野は及川の発言に顔を引き攣らせ、何かないかと自分の脳の中身をひっくり返していた。しかし。

「……無理やり若者言葉を使おうとするなよ……」

 自身の心の内に色々蠢くものを感じながら、ろくな反論を思いつくこともできず、苦し紛れにそう言うしかなかった。

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