事例3-5

 三日後。ルカの占った日付が訪れる。

 その日は天気予報通りの晴天で、雲ひとつない青い空が眩しい日だ。日野はいつもどおり、及川の運転する車に乗って出勤する。

 ふたりが朝に阿部と顔を突き合わせたときはいつもの調子で「おはようございまぁす」と間延びした挨拶をしてきた。いたって健康そうである。

「阿部さん、トイレは控えてね」

 少しの意地悪と、少しの安堵が滲む声で及川が言うと阿部は「アホか」と笑って返事をしてくる。

 占い鑑定通りの出来事を防ぐのであれば確かに水場は避けるべきではあるが、生理現象を止められるわけもない。そしてよほどのことがない限り、なんのいわくもない庁舎のトイレを利用することで怪我をする可能性も低い。

 日野、阿部、そして及川の三人は外回りの予定もなく、それぞれの座席で書類仕事に勤しむ。時折ラップトップと自分の間に割り込んでくる三毛猫――名前をモチタという――のポルターガイストをあやしながら、日野は先日訪問した占い師の一覧表へ「特記事項なし」と記述していく。

 その間に例のショッピングモールに在籍している占い師の一覧にエクセルのタブを移動させ、ルカと名乗る女の情報に目を通す。

 阿部と峰がその女占い師の話題を上げるまですっかり存在を忘れていたが、表で改めて確認するとその若さが際立つ。ショッピングモールの占いコーナーは「占い館・F」というらしいこともようやく認識する。占い館・Fに所属する占い師はルカを除くと若くて四十代後半だ。

「……仙谷瑠美華せんごく・るみか……」

「ルカさんの情報ですか?」

 デスク越しに阿部が声をかけてくる。モチタは次のターゲットを阿部に変更したらしく、阿部に支給されたラップトップの隣でゴロンゴロンとのたうち回っていた。激しく動き回るせいでデスクの書類がぐちゃぐちゃに荒らされている。

「ああ」

「書面上では怪しいところはないんですよねえ」

「ううん……どこでタロットを習得してきたか分かればと思って、な」

「ですよねえ。その情報もないし。大学に通ってたんやったら学生時代にどこかで講習を受けてきた可能性はあるはずなんやけど……占い館・Fは間借りしてるだけやからそれらしい講習情報ポスターも見当たらなかったんですよねえ」

 タロットに限らず手相や風水などの占いは独学で習得することが可能だ。だが、占い業をするとなると素人が独学で学ぶのではなく、実績のある占い師に師事を仰いで道具が出した占い結果をより正確に読み取れるように訓練することが多い。また、実績のある占い師はそういった講習を開催することで稼ぎを出している。現代に残る師弟制度だ。師匠は技術を与えることで金儲けができ、弟子は師匠の名前を借りることで客寄せすることができる。そういった弟子の数が多くなると協会が組織されることがほとんどで、オカタイに登録されている占い師は、任意ではあるものの大体が所属している協会の情報も同時に提示してくるのが慣例となっていた。

 ふたりが揃ってデスク越しに唸っていると課長デスクから声が飛ぶ。

「阿部さん、資料完成したからそっちにデータ移しといたよ」

「おっ、ありがとう、及川くん。私の分さっさと入力するから、それ印刷したら印鑑もらえる?」

「オーケー」

 モチタの下敷きになっている書類を無慈悲なまでに乱暴に引っ張り上げて、阿部は作業へ戻る。しかし、モチタはそれにも構わずゴロゴロ動き回っていた。だがその動きもすぐに止まる。

 まさしく叩くというようなほど異常なスピードと力でデータを打ち込んでいく阿部の姿は何度見ても見慣れない。鬼気迫るとはこのことだ。

 キーボードが騒がしく音を立て始めたのを見るとモチタは渋々といった表情で再び日野の元へ戻ってきた。

「お前なあ、阿部さんに構ってもらえないのがわかったからってこっちに来るなよ。俺も仕事してんだぞ」

 そんなの知ったこっちゃない。

 そう返事するようにモチタが「にゃあああん」と見た目の大きさやふてぶてしさのわりに愛らしい鳴き声を上げると今度はラップトップと日野の間ではなく膝の上に乗って眠る体勢をとる。

 ――これをされると席を立てないから困るんだよな……。

 日野がそんな会話をモチタとしている内にあっという間に阿部の資料は完成したらしく、オカタイの隅に置かれている複合機が印刷する音を立て始めた。

「はい、及川くん」

「うーっす」

 阿部は印刷された紙をテキパキと取りに行くとそのまま及川へ直行で手渡し、及川も待ってましたとばかりに用意していた印鑑をその書面へ押した。

「あっ、歪んだ」

「あんた、何遍も印鑑押してきてんのにヘタクソやなあ……まあでも大丈夫やろ、これくらい。ほなこれ、教育センターに提出してくるわ」

「はいはい。阿部さん、トイレ行くなよ」

「及川くん、ええ加減にせえへんかったらセクハラで訴えるからな」

 オカタイは職務の性質上同期が存在することが珍しい。その上、同年齢ともなればさらにその確率は小さくなる。及川と阿部はその希少な同年齢の同期だった。その希少な同期同士が仲が良いのは殊更素晴らしいことだ――同期のいない日野はふたりの会話を微笑ましく見守っていた。


 日野はふたりの関係性にほっこり心温まっていたが、事態が急変することとなる。

 ――阿部さんが戻ってこない。

 阿部の行き先である教育センターは教育庁舎内に設置された部門であるため、そこまで時間もかからないはずだ。教育センターで呼び止められて話しかけられたとしても専門が違うため、立ち話をしてもせいぜい十五分が限度だ。だが阿部がオカタイを出てから悠に二十分は超えている。

 何かあったのかもしれないと思い日野は及川の方へ目配せをすると、及川も同じことを考えていたらしく黙って頷く。ふたりして席を立とうとしたときだ。

 カラカラとオカタイのドアが滑り開いた。

「いやあ、お待たせ……」

 挨拶とともに姿を現したのは阿部本人だった。

 しかし、オカタイを出たときとは格好が変わっている。シャツの袖は捲り上げられ、右手首には氷をあてた状態でぐるぐる巻かれた包帯と、前腕には大きな打ち身の痕があった。

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