事例1-2
「その後すぐに監視カメラの内容を確認したのですが、ご近所の方が日課のランニングをされていてカメラの前を横切った瞬間に招き猫が……本当に一瞬の間に出現しまして。警察の方でもすぐに交番のカメラも確認をされて、そちらの方は誰も招き猫サイズの荷物の持ち出しをしていないということがわかったようで……警察の方々もこのままではメンツが潰れると思われたのか、定期巡回の強化をしてくださったのですが、そこから一週間ほど警察の方が招き猫を回収されては人の見ていない隙をついて庭の門の隣に招き猫が現れるという現象が発生し続けて……今度は交番ではなく警察署の方で管理していただくことになったんですがそれでも状況は変わらず……結局埒が空かないということで元持ち主の方に了解を得て、招き猫を私どもの家の庭に置いておくことになりました。すると今度は庭の中を……自由にあちらこちら移動するんです。私たちが見ている間は動いている素振りなんてまったくないんですけど、見ていない間に花壇のそばに移動していたり、庭の塀の上に居たり。ここまで来るともうなんだか、『本物の猫』を相手にしているような感覚にもなってきたんですけど、流石にご近所の方も不気味がられてしまいまして、定期巡回担当の方に再度相談をして『怪異対策課』をご紹介いただいた――というのが今日までの出来事になります」
野田は一ヶ月の出来事を端折った部分がありながらも話し切った。何度か話してきた内容の最後に『怪異対策課』のくだりが入ったくらいだったのでもう慣れたものだった。
目の前に座る日野は穏やかな笑顔で時折相槌を打ちながら、及川は資料を確認しながらも何度も話を促すように、しかしその視線は柔和なもので何度も野田と視線を合わせながら、今までの聴取の中で一番話しやすい空気感があった。
「ありがとうございます。こちらで把握している内容と大きな食い違いはないことがはっきりしました」
及川はフォルダの中で紙をペラリと一枚捲りながら続ける。
「実は質問がいくつかありまして……この一ヶ月、野田さんの周りで招き猫の件以外に何か奇妙なことが発生してはいませんか?」
「奇妙なこと、ですか?」
「ええ」
野田は「うーん」と唸りながら、しかし特に思い当たる節もなく、首を傾げて答える。
「いえ……特には」
「では少し質問を変えますね」
及川がにっこりと笑みを浮かべて資料の中から一枚紙を取り出し、机の上に置いた。それは「保護猫里親募集」のチラシだった。
「あっ……なぜこれを?」
野田は驚いてチラシからすぐさま視線を及川の方へ戻す。及川は変わらず笑顔のままだ。
「警察の方からもいくつか情報をいただいておりまして、その中には当事者の方がどのような人物像なのかというものも含まれております。野田さんはこちらの地域猫の管理保護団体の活動に参加されていますよね」
「そうです……でもそれが今回の件と……?」
及川の言及する通り、野田はいわゆる地域猫と呼ばれる野良猫の去勢や保護を手伝う活動に参加していた。だが、夫に猫アレルギーがあるため自宅での飼育はできず、あくまでシェルターでの活動に限られていた。そしてシェルターでの活動にはなんら不思議な現象は発生していない。
「実は今回の件を調べるにあたって、団体代表の方にも問い合わせをいたしました。少し予定が立て込んでいたので野田さんにお話を通せておらず申し訳ないとは思っているのですが」
「いえ……ですが、その活動で特に何か妙な出来事などはなかったと思うんですけど……」
「ええ。大きな異常はなかったと思います。ただ代表の方に少々詳しくお話をお伺いしたところ――」
そう言いながら及川は次に地図が印刷された用紙を取り出す。それは野田邸を中心とした同心円が三重に引かれており、いくつかの点が打ってある。その点は野田邸へ近づくにつれて少なくなっていた。
「地図……?」
「はい。そしてこの点はもしかすると心当たりがあるかもしれませんが――猫が保護されたり、去勢した猫を放した場所を示すものです」
野田はそう言われて初めて納得がいった。野田が関わった保護猫・地域猫についていくつか心当たりのある地点があったのだ。
「ああ……この辺りの子たちは確かに、私が保護した点ですね」と指を差しながら野田が答える。
「そして見ていただくとわかる通り、野田さんのご自宅を中心として猫の活動範囲が――縄張りが形成されているように見えませんか?」
「縄張り……?」
確かに、猫には縄張りというものが存在する。だが、点の数を見るにつけて、逆に縄張りが見当たらない。空白だ。
「どういうことでしょう。私が把握している限り、縄張りがないのですが……この地図上でもわかる通り、私の家の周りには……」
するとそれまで黙っていて微笑んでいた日野が風呂敷を解いて机の上に野田の荷物を広げる。その中からは今回野田を悩ませている小判を抱えたにっこりと笑う愛らしい招き猫が現れた。
日野の微笑みは少し変化して、いたずらしている子どもを見守るような、困りながらも慈しみに満ちた微笑みで招き猫を見ている。
「この『招き猫』が野田さんの家を中心に縄張りを形成しているのではないか――そのように我々は分析しています。代表の方に一ヶ月ほど前に大きな出来事はなかったかお伺いしました」
「一ヶ月前――えっ、でも、もしかして、そんな……」
日野の優しい語り口に、野田は自分の心が震えるのがわかった。
怪異という視点で捉えれば、何も奇妙なことは発生していなかった。だが、地域猫の活動でひとつ大きな出来事は発生していた。
「……『モチタ』……」
ぽつり。
野田がなんらかの愛称を、呼びかけるというよりも、悼むようにこぼした。
モチタは野田が保護猫・地域猫の活動に関わるようになって初めて世話をした猫の一頭だった。出会いはもう五年ほど前となる。活動に関わる前までは大きな野良の三毛猫が居るなあ程度の認識だったが、団体に所属してその猫がモチタと呼ばれるこの辺りのボス猫であるということを知った。三毛猫というだけでも目をひくのに、モチタはその名が表す通り大きな筋肉質の体躯を持つ、それでいてオスの猫だ。毛色が三毛のオスは本当に珍しい。
野良猫は通常、他の猫と関わり合いを持たない。モチタも例外ではなく、野田の自宅周辺のみだけをテリトリーとし、しかしわりと人懐こいところのある猫で、地域猫の世話をしてる人間を認識すると積極的に餌をねだってくる、要領の良い猫だった。
モチタを語るときにすべて過去形となってしまうのは、モチタが一ヶ月ほど前に野田邸の庭の影でひっそり死んでいたのを確認していたからだ。
どんな因果か、招き猫はちょうどモチタと同じ三毛に色つけをされている。大きさもちょうどモチタくらいで――自身の喪失感と目の前の事象を勝手に結びつけてはいけない。そう考えて、野田は意識的にモチタの死と招き猫の異変を切り離していたのだが。
「……何か、思い当たるところがありそうですね」
そう言った日野はまだ困ったような優しい目で招き猫を見つめている。まるでそこに何かが居るかのように。
「……でも、そんなことって有り得るんでしょうか」
野田は自分の心だけでなく、声さえも震えてくるのを感じて、目頭が少し熱くなる。
「一ヶ月ほど前に、私の家の周りに縄張りを持っていた猫が死んだんです。年齢的にももう死んでもおかしくないくらいのオス猫でした……モチタは、とても……とても人懐こい、三毛猫で……」
「……野良猫はその性質上、自身の縄張りをしっかり持ち、互いにその境界を守るというのを団体代表の方からお聞きしてます。しかし、既に死んでしまったモチタの縄張りに新たな猫が自分の狩場としてやってくる可能性もあるはずですよね」
「……はい……」
野田の返事を聞いた日野はそのまま続ける。
「しかし、モチタの死後、野田さんのお宅周辺で新たな地域猫が縄張りを作った様子はありません。まるで未だモチタがそこにいて、自分の縄張りを守り続けている……そのように見えませんか」
野田の視界が大きく歪む。目の前の三毛猫は笑っていたはずなのに、心配そうな表情でこちらを見ていた。自然と自分の頬に温かい雫が溢れ落ちていく。
「……モチタだったんですね……」
「――おそらくは」
そう言いながら及川が資料をフォルダに片付けて、唐突に立ち上がる。何やら日野に目配せをすると仕切りの外へ出ていった。日野は及川の目配せに頷き、次は招き猫の方ではなく、野田を見て話し始める。
大きく歪んだ視界の中でも、日野の美しい相貌とまっすぐに野田を見つめてくる左目の輝きはわかった。
「私たちの見立てはおそらく間違っていないかと思います。モチタは特に野田さんに懐いていたと代表の方からもお伺いしていました」
「はい……私が地域猫の活動を始める前からの顔馴染みだったので……」
「猫又の伝説はご存知でしょうか」
「……長生きをした猫が戸を開けたり、人の言葉を話したり、というものですよね」
「流石に猫好きの方であればご存知ですよね。そう、それです」
「でもそんな……実際にモチタは、私の手で」
「そう、荼毘に付した。実際に火葬の記録もこちらで入手しています。確実に死んではいる――だが、おそらくモチタは野田さんの言葉を理解できて、未だ自分の縄張りを守るためにそこに留まっている……モチタは長生きをした賢い猫です。野田さん、あなたの悲しみを理解してしまったのでしょう。そして何の因果か、依代にするにはちょうど良い、自分と似た置物を見つけてしまった。これが今回の事件の始まりです」
野田はそんな都合の良い話があるものかと日野の話を信じきれずにいたが、目の前の招き猫はまるで生前のモチタがしていたように今にも愛らしく「にゃーお」と鳴き始めそうに見えた。
「……案外、偶然というのは重なるものです。心で感じるものを信じてみてはいかがでしょうか」
野田の当惑を察して日野が説得するような口調で語りかける。だがその口調は強制力ではない別の力を持つものだった。野田は、自身の心に精一杯寄り添おうとする目の前の男の気持ちが温かく、そしてモチタに気づいてあげられなかった――気づこうとしなかった自分の不甲斐なさにますます涙が溢れるのを感じた。
そんなふうに感傷に浸っていると、ガサガサというビニールの擦れる音とともに仕切りの中へ及川が戻ってきた。手には何かを入れたナイロン袋を提げている。そして元いた席に座り直した。
「野田さん、私たちの見解は日野がお話しした通りのものです」と及川が言う。
「はい……この招き猫がモチタだと言うのであれば、私は」
「いいえ、待ってください」
及川は野田が言いたいことを目の前に手のひらを差し出すことで制した。そして言い出しづらそうな表情の及川はそれでもといった様子で口を開いた。
「愛着のある死んでしまった猫が今もそばで見守ってくれているかもしれない――これは紛れもない美談ですが、同時に紛れもない怪異です。私たちは『現在』に存在する生き物ですが、死んだものは人であれ猫であれ『過去』のもの。生と死は常に隣り合わせで密接なものですが、共存はできない――だから怪異は厄介なんです。人は執着の生き物だ……執着とは過去に端を発する。だが過去に囚われては現在を生きることは難しい。そして過去に囚われるということとは……それは例えば神や怨霊の類と近しいものになってしまう。現にモチタは今も縄張りを守って野田さんの周辺に猫を近寄らせまいとしていますよね――これは今を生きるものたちへの多大な損害とも言える」
「……どうして?」
及川の話に理解を示すことはできたが、野田には男の語る「多大な損害」が想像できなかった。どういう部分に「損害」があるのだろうか。
涙を拭って及川を見る。すると銀髪の端整な顔立ちの男は真摯な眼差しで野田に視線を返してきた。
「新たな出会いや変化を得ること――これが現在を生きるということだからです」
モチタがいることで自宅周辺に猫が寄りつかなくなる。当面は活動や生活に支障が出るものではないかもしれない。しかし長い目で見たとき、私が死んだとき、この家がなくなったとき、そのとき過去に囚われているモチタはどうなるのか――そこまで先の未来を予測することは野田には難しかった。
及川の言いたいことを理解できた野田は悟った。
――ああ、本当にお別れのときが来たのだ。
「さて」
野田の心の内を理解しているだろう日野はなぜだか大きくパンッと手を打ち鳴らした。その瞬間に、その場の空気が一瞬にして別物に変化した――野田は怪異に関してはからっきしわからない素人だったが、空気の変化だけははっきりとわかった。
眼帯の男は左目に優しさを湛えたまま、野田にゆっくりと語りかける。
「野田さん。先程、モチタは人の言葉を理解できていた、という旨をお話ししたのを……覚えていらっしゃいますか」
「え、ええ……」
優しいが、その空気の変化に気圧されて野田はわずかにどもる。野田の動揺を見ても左目だけの男は動じず、美しい表情でゆっくりゆっくり、語る。
「では、野田さん……私たち、いえ……野田さんが何をすればいいか、お教えいたします。ご協力、いただけますか?」
「……はい」
その返事に満足をしたのか、男の左目が今まで以上に華やかな麗しい笑顔に変化した。そして同時に隣の男に呼びかける。
「及川課長、準備してきたやつを出してくれ」
「はいはい」
仕切りの中に戻ってきた男は何を持ってきていたのだろうと不思議だったが、ナイロン袋の中から出てきたのは野田にも馴染みのある物だった。
「んん? ちゅ〜……」
「そうです、猫用液状餌です。モチタも他の猫と同じくこれが好物だったと聞いていましたので、今日買ってきました」
棒状に個包装された餌を及川がひとつ、野田に差し出す。そして差し出されたまま餌を受け取ると日野が話を続けた。
「相手が言葉を解するのであれば、説得……いや、違うな……安心させてあげてください。これからは野田さんご自身が元気に過ごすという約束をしてあげること、そして、野田さんのお宅は既にモチタの居場所ではなくなったということを。この餌は餞別としてモチタにあげてください――賢いモチタであれば、野田さんの言葉を理解してくれるはずです」
日野の言葉に、野田が頷く。そして日野も野田に頷き返す。
男の美しい笑顔は野田の背中を押してくれるような、勇気づけられるものだった。だから、モチタに対する別れの言葉を紡ぐことは何のためらいもなくなっていた。自分の口が自然と動くのを感じた。
「モチタ――」
何度もお辞儀を繰り返しながら去っていく女性の背を冷気がこれでもかと立ち込める廊下で見送ったあと、及川と日野は身震いを隠すことなく両腕で体をさすりながら『怪異対策課』の部屋の中に急いで戻った。
長身の男がふたり揃ってぶるぶる震えている様子を見た同僚たちは苦笑いを浮かべているが、そんな視線すらも気にならないくらい寒かった。窓の外を見ると雪がちらちらと降り出しているのがわかった。
「寒すぎる! やばい! あったかいもん飲みてえ!」
いつもは背筋を伸ばしてモデルのような出立ちの男が暖房の前に陣取る。身長が百八十五センチもあるとは到底思えないくらいぎゅっと体を圧縮させ震わせていた。
「皐月さん、俺、お昼まだだから、報告書頼む……寒すぎ……腹減った……」
及川が暖房と日野の間を横切りながら自分のデスクの上に置いていた弁当に手を伸ばす。そしてそのまま部屋に備え付けの電子レンジの方向へ足を向けようとしたところで肩を掴まれた。
眼帯の男が左目だけで及川をじっと睨んでいる。
「待った。あれはお前の担当事例だろ。俺は『縁断ち』を手伝うだけだって言ってたじゃねえか。結局あの招き猫を保管するのか処分するのか決めてもないだろ、お前」
「ええー、めんどくさ……」
「やっぱり面倒臭いが本音かよ」
「いや、お腹は本当に空いてるんだけど……だってあれ『縁断ちしただけ』でしょ? しっかり除霊して物品処分書類を用意するのめんどくせえよ」
「やっぱりそれが本音じゃないか」
ふたりは間仕切りの向こうにある招き猫をちらりと見た。
招き猫の周りに置いた液状餌の上で楽しげにころころ転がる、野良猫にしては大きめの三毛猫を見て、ふたりの間に沈黙が流れる。
「ねえ、皐月さん――あれ、除霊するのもったいなくない?」
自分よりも少しだけ背の低い男が銀髪を揺らしてこちらを見上げてくる。精悍な顔立ちの瞳に映される己の姿――これは自分をじいっと見つめてくる視線に他ならないわけで。その視線の甘やかな部分は大学時代からずっと変わらない。
「お前……お前なあ……」
及川の肩を掴んでいた手で今度は自身の眉間を押さえる。日野は及川のこういうところが――可愛いと思っていた。そして、そういう愛おしいと思う気持ちが今にも『右目から溢れそう』で、日野は内心慌てていた。だから、男は話を進展させて己の気持ちを紛らわせるしかなかったのだ。
「ああ、もう……わかったよ……除霊の必要なしで、物品は『オカタイ』預かりにしておく――そういう方向性だな?」
「うん、ありがとう、皐月さん。それでお願い」
及川がにっこりと笑って再び電子レンジラックの方へ向かいだす。
――なあに満面の笑みを浮かべてんだ、こいつは!
「『お願い』じゃねえよ、本来はお前の仕事だぞ、このブラック課長が!」
そうは言いながらも、結局は可愛い後輩の、否、可愛い恋人の笑顔に、空洞の右目の奥が愛おしさで疼くのを感じて仕方なかった。
<終>
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