事例1-1 N家邸宅への招き猫出現について

 ――市役所での会議、予定よりも延びすぎだろ……。

 今にも雪が降り出しそうな暗雲の下、及川聖おいかわ・ひじりは自身のデスクのある建物・市教育庁の敷地内に車を駐車させて駆け足で玄関口へ向かう。到底、教育委員会管轄の人間とは思えない派手な銀髪をふわふわと揺らしながら、しかし額は焦りに汗を浮かべている。その日、及川には来客の予定があった。

 ――昼飯も食べさせてもらえねえの。ほんと、どうかしてるわ。

 及川は午前十時に始まった会議が午後一時より少し前に終了したことへ大層不満を抱いていた。来客は午後二時の予定だ。そもそも、午前中に始まった会議が正午までに終わらないことの意味がわからなかったし、大した内容でもない――大体が前年度の報告をなぞるような形骸化した――議題をだらだら話し合うだけの会議に意味を見出せなかった。だが、これも公務員の、しかも中間管理職にとっては欠かせない業務であることも理解している。だが、こちらにもこちらの都合があるのだ。

 ほぼ空になっていた茶筒の中身を庁舎への帰路で買い足し、来客に備えて準備をして――という段取りをしている間にあっという間に時間は過ぎるのだ。及川が庁舎の玄関へ辿り着いたときには既に時計の針は二時の十分前を指していた。

 もしかしたら既に客が到着している可能性もある――と心配になりながら玄関の扉を引くと、庁舎内地図の目の前で五十代ほどの容姿の、小綺麗な格好をした女性がまじまじと地図を眺めているのを見つけた。及川はその女性が自分の客なのではないかと直感する。

 教育庁舎への来客は少なくもないが多くもない。しかも大体が教育委員会関係の人間か役所の人間のため、どこにどの管轄の部屋があるのか把握している場合がほとんどなのだ。だが、その女性はどこへ行くべきか明らかに迷っている。そのようにどこへ行くべきかわかっていない完全に外部の人間は大体、及川もしくは及川が課長を務める部署の来客者であることが多い。

「――もしかして、野田のださんでしょうか」

 及川が女性の背中から声をかけると、肩をびくりと揺らして振り返る。その両腕には新生児よりも少し大きいくらいの風呂敷で包まれた荷物が抱き抱えられていた。女性は及川の存在に気づいていなかった様子で驚いた表情を見せるが、やがてその表情が少し、というよりもかなり、訝しげなものに変化する。

「……そうですが……」

 スーツ姿で身なりはしっかりしているものの、銀の頭髪はやはり役所仕事に似つかわしくないと判断されるようだ。だが、そんなことは及川の実務、つまり『怪異対策課』の業務には関係ない。

「よかった、ちょうど会議から戻ってきたところでして。お会いできて良かったです。すぐにご案内いたします――そちらのお荷物が例の?」

 派手な頭をしているが物腰の柔らかい、しかも事情を知っていそうな青年に対して、女性が少しだけ警戒心を和らげたように見えた。

「そうなんです……『怪異対策課』の職員さんですか?」

「そうです。よろしければお荷物をお預かりしますよ。少し動きづらそうですし、男の私が運んだ方がいいでしょう」

「ありがとうございます。実は私、『怪異対策課』の『及川課長』という方と面談のお約束を……」

 及川が女性から荷物を受け取りながら「ああ!」と少しだけ慌てたように声を上げた。

「ご挨拶が遅れて申し訳ない! 私が『怪異対策課』、『課長の及川』です」

 長身の青年が皺のほとんど見当たらない精悍な顔ににっこりと笑顔を浮かべて告げると、女性は再び驚いて一瞬だけ息を呑み、そして一言。

「えっ! あら……お若いのに、課長さんなんですねえ……」

 荷物を預けて空いた両手で口元を押さえながら、女性はそれ以上何も言わず及川のあとをついて歩いてきた。



 

皐月さつきさぁん、ドア開けてぇ」

 プラスチック板に『怪異対策課』と書かれた看板の下には廊下の冷気を入れないようにしっかりと閉められた扉がある。両手の塞がっている及川が扉を開けるのは難しく、かと言って来客者である野田に開けさせるわけにもいかず、廊下から大声で呼びかける。

 一瞬の沈黙のあと、部屋の中からカツカツと急ぎ歩いてくる音が廊下まで漏れ聞こえてきた。やがて廊下の壁を挟んだ場所でその音が止むと勢いよく引き戸がスライドした。同時に不機嫌そうな声が及川の頭上から降ってくる。

「お前な、ドアくらい自分で……」

 日本人男性の平均身長よりも背の高い及川の、さらに上から声が聞こえてきたため、野田は驚いて首を上へ向ける。声の主は来客の存在に気づいたらしく、不機嫌さを一瞬にして抑え込み、気まずそうにしかし美しく微笑みを作って軽く会釈をした。

「こんにちは、お約束をしていた野田さんでしょうか」

「そ、そうです」

 野田は一瞬、その人間の性別を判別しかねた。どこか女性的でありながらシャープな輪郭で、これぞ「美人」と呼ぶに相応しい顔立ちの人間だ。しかし背は並大抵でないほど高く、体格も明らかに分厚く、極め付けに声はしっかり男のものだ。

「寒い中お越しいただきありがとうございます。どうぞ中へ。『課長』も突っ立ってないで早く入ってください」

「通せんぼしてたの皐月さんだろ」

「お客様の前ですよ、『課長』」

 美しい顔立ちの男が冷ややかな視線で及川を見下ろしている。

 皐月と呼ばれた男はとても美しい相貌であることと同時に、初対面の人間に対して強烈な違和感を覚えさせる特徴がもう一点ある。

 彼の右目は真っ黒な布製の眼帯に覆われていた。


「改めまして、今回、野田さんの担当となります日野ひの皐月と申します」

 野田は部屋の奥の間仕切りのされた空間へ通され、眼帯の背の高い男から名刺を丁寧に手渡された。厚紙に印字された名前には肩書きはない。ただ『○○市教育委員会怪異対策課』と部署名のみが書かれている。日野がいわゆる「ヒラ」であることの証だ。

 野田が椅子へ座ったのを確認すると日野も机を挟んだ向かい側の席へ腰をかける。

 客席に案内されるまでの間、野田がちらりと部署内を見回すと『怪異対策課』の中では何人かの職員がデスクワークに勤しんでいた。しかし、いくつかのデスクは山積みの書類があるにも関わらず空いていた。ここは名の通り『怪異』にまつわる事象を解決したり相談を受けたりする部門であり、人の座っていないデスクの持ち主は『怪異』に対応するために出動中ということだ。

 机の上には及川が、もとい野田が運び込んだ荷物が鎮座している。まだ風呂敷は広げられていない。この荷物こそが今回の面談の原因だ。

 野田は俄かに不安になった。庁舎の玄関で出会った及川と名乗る男も、目の前で美しく微笑んでいる日野も、自分と比べればどちらもまだまだ若い。年の功がどうのと言うつもりはまったくないが、本当に自分の不安――つまり『怪異』が解決されるものなのか。

「お待たせしました。熱いのでお気をつけて」

 間仕切りの向こうからひょっこりと及川が姿を現す。三人分の茶器と急須を盆の上にのせて運んできた。『課長』が自らこういうことをするものなのだろうかと野田は不思議に思いながら、だがしかし、自分の常識など結局覆っていくものだと言い聞かせて素直に礼を述べる。

「ありがとうございます、いただきます」

 現実に、自分の常識が覆ってしまう事象は既に発生してしまっている。それを解決するためにここへ来たのだ。人間の常識など所詮ちっぽけな凝り固まった枠組みでしかないのかもしれない。


 日野の隣へ腰掛ける前に、及川もまた同じように丁寧に名刺を差し出してきた。その名刺には『怪異対策課長』と記されている。野田はこの青年が課長であることを名刺を見るその瞬間までまだほんのわずかに疑っていたが、この男が課長であることは間違いないのだろうと考えを改めることになった。

 及川は茶器をのせた盆とともに何やら資料も持ち込んできていた。資料の中身が何なのか野田にはわからなかったが、それを見ながら及川が口を開く。

「様々なところで何度もお話しされていることは重々承知の上でお願いなのですが、『怪異対策課』に足を運んでいただくことになった経緯を念のためもう一度お聞かせいただけますか」

「……同じ内容を、ですか?」

 野田が湯呑みを机の上へ置き直して及川の顔を見る。及川自身も申し訳ないというような曖昧な笑顔でこちらを見ていた。

「形式上、聞き取り内容に齟齬がないかの確認をさせていただきたいんです」

 野田は、いわゆる「お役所仕事」のような聴取には飽き飽きしていた。まずは地域の交番で、警察署で、その段階で何度も話したことをまたも話さなければならないのかと思うと気が重い。だが、当てにしていた警察では対処できない事態だということになり最後の砦として案内されたのが『怪異対策課』だった。目の前の男ふたりに気取られぬようそっと溜め息をついたあと、野田は「わかりました」と湯呑みの中をもう一口だけ飲んで、現在の「困りごと」を説明し始めた。


 ここ一ヶ月ほどの出来事である。いつものように夫を仕事へ送り出したあと、ゴミ捨てのために外へ出たときに異変に気づいた。庭の門扉を開いたすぐ隣に見慣れない招き猫が置いてあった。その招き猫には粗大ゴミ用のシールが貼り付けてあり、一見して誰かがそこへ置いたものだとわかった。通常、粗大ゴミを出す場合もゴミ収集ステーションまで運んで置いておくのがルールになっている。近所の人間の誰かが間違えて置いていったのだろうかと思い、少し大きめとは言え両腕で抱えられるサイズのものであったためゴミ出しのついでに親切心でステーションへ運んだ。粗大ゴミの回収の日付もその日で間違いなかったため、業者が回収にくることは確実だった。

 そして次の日。いつものように夫を仕事へ送り出したあと、パートタイムシフトが入っていたため外へ出たときにまた異変に気づいた。昨日、粗大ゴミとして出したはずの招き猫が再び門扉の隣へ置かれていたのだ。気味が悪いと思った。誰かからの嫌がらせかと思った。だが、この粗大ゴミのシールというのは誰が出したか業者側がわかるシステムになっている。誰が出したゴミなのかわかる状態で嫌がらせをするというのは考えにくいと思った。気味は悪かったがパートの時間も迫っていたため再びステーションへ招き猫を運び、仕事へ出かけた。そしてパートを終えて帰ってきたとき、再び門扉のそばに招き猫が置いてあることに気づいた。いよいよ本当に気持ちが悪いと思った。

 こういうときに警察を呼んでも様子見をすると言われるのが精一杯かと思っていたが、相談実績は作っておくべきかと考えて近所の交番へ電話をかけ、実際に警察官へ現場も見に来てもらった。危険物が仕込まれていないかなど、招き猫を確認してもらい、次は警察官の手でステーションまで運んでもらい、その日は家の中へ入った。

 その日の夜に夫に招き猫の話をすると一緒に気味悪がりながらも「気のせいだろう」と。ふたりして笑いのネタになればいいと思っていた。

 次の日の朝再び門扉のそばに招き猫があるのを見つけて夫とともに悲鳴を上げて一度家の中へ戻った。その日は朝から警察を呼び、次はその招き猫を拾得物として回収してもらった。その際に、招き猫の元々の持ち主も特定されていたようだった。元持ち主については個人情報になるため教えてもらえなかったが、通常通りの手続きでステーションに招き猫を捨てたという話だった。

 その夜、夫には帰宅する前に簡易的な監視カメラを買ってきてもらうように頼み、庭の門扉近くへ設置した。その際に招き猫が戻ってきていないことは確認してもらった。流石に警察の手で回収され、保管されているのだから心配のしすぎだろう、と夫は半ば呆れた様子だったが、それでも私の不安は治らなかった。だが、これで監視カメラに何も映っていなければそれでいいのだと、それで安心できるならと思った。

 次の朝。不安は治らなかったが、同時に流石に招き猫は戻ってきていないだろうと思って外へ出た。これは本来なら嫌な予想ではあるが、誰かが嫌がらせをしているなら、違うものが置いてあるはずだ。そして門扉を恐る恐る開けて外を確認すると――そこには回収されたはずの粗大ゴミシールの貼られた招き猫が置いてあった。

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