月影に涙する異邦の少年


 静かな夜だった。


 月明かりが、荒野を白く照らしていた。


 話が尽きると、ヴォルフは静かに立ち上がり、岩陰を出た。用を足しにでも行くのだろうと、誰も気に止めなかった。


 お前のせいじゃない。———


 今日、フランチェスカが、ルナに言った言葉。ルナのこころを、この世界につなぎ止めようと、きつく抱き締めながら、叫んだ言葉。その言葉を、もう一度、自分からも掛けてやりたい、そう思ったのだ。何故だか、他人事とは思えなかった。


 綺麗で、可愛らしい姿態は、本来なら望ましく、優れた資質であるに違いない。しかし場合によっては、いや多くの場合、欲望や悪意、災厄や犯罪を、無意識のうちに招き寄せる強力な「呪い」として作用してしまう。


 少女と見紛うみまごう美しい少年。


 女性のような姿だからか、或いは、その境界的な年齢のせいなのか、さらわれそうになった挙句に、止むなく振るったサーベル、………


 お前のせいじゃない。そう、言葉を掛けてやりたかった。


 **


 皆から少し離れたところに、少年はいた。


 腰掛けるのにちょうどいい大きさの石が一つあって、それに腰かけて、少年は月を見上げていた。


「今日は色々あったし、一人になりたいんだろう」


 トラビスは言っていた。そっとして置いてやろう、と。しかし、たった独りで、今日体験した出来事と向き合うには、その、ポツンと座る、まるで子どものような姿は、あまりにも幼く、頼りなげに見えた。


 雲ひとつ無い、吸い込まれような星空に熱を奪われて、大地は冷え込んで来ていた。少年は、アフガンストールに頬を埋めて、中天に架かる月を、瞬きも忘れて見上げていた。


 冷たく降り注ぐ月光が、その少年の子どものようなまるい頬を、地表と同じように、白く、照らし付けている。


 ヴォルフは、歩るきながら声を掛けようとした。


(いい月だな———)


 しかし、それが声になることは無く、ヴォルフは、そのまま黙ってしまった。


 ルナは、涙を流していた。


 泣いている、という訳では無かった。ただ、涙を流していた。


 月の姿が、その瞳に宿り、きらきらと星屑のように揺らめいて、それが白い光の糸となって輝く頬を濡らし、そしてそれがしずくとなって、子供らしい小さな顎から、たくさん、たくさん滴り落ちた。


 子供のような、少女のような、小鳥のような、妖精のような、———


 ヴォルフは立ち尽くした。闇の中に出現したその光景に、瞬きはおろか、呼吸すら忘れた。


 少年は、美しかった。


 そして、

 その美しさは「境界的」だった。


 まだ大人じゃない、だけど全くの子どもでもない。女の子じゃない、だけど男の子とも言い切れない、———そんな。


 妖精、ではないかも知れない。だけど、それを人と呼ぶには、あまりにも可憐で、そして可愛らしかった。


 ヴォルフは、思わず見惚れてしまったが、なぜか胸の内側の中心が、その一点だけが、凍り付くほどに冷たく、痛んだ。初めて味わう、痛みだった。


 気が付くと彼は、少年に向かって、吸い寄せられるように歩いていた。無意識だった。いったい、どういう積りだったのか。


 と、その時———


 ブーツの硬い靴底が、砂礫されきを咬む乾いた音が発った。


 ハッとする。ルナも音に気付き、振り返って、ヴォルフの方を見た。


 少し驚いたのか、振り向くときに褪せた栗色の髪が、ふわりと宙に舞い、つややかな頬を撫でた。


 ルナは見開いた眼で、正面から兵役崩れの戦士を見る。


 大きな眼———


 鏡のようだ、とヴォルフは思った。星屑を、まわりの景色を、それを見る者のこころを、ただ無心に映す、一対の鏡———


 まだ少女のごとき容貌の、稚さを、その頬とくちびるとに滲ませる少年は、自分が涙を流していることに、全く気付いていないようだった。暗闇に呆然と立ち尽くす男を、不思議そうな眼差しで眺めている。


 しかし、余りにたくさんの涙だった。


 流れ、滴る、その顎がくすぐったかったからなのか、少年は、つるりとした手の甲で顎の先をこすると、その肌に、水滴が乗って流れて、さすがに違和感を覚えて、両手で白い頬を挟み、それから下を向いて、手のひらを見た。


 濡れている。


 その間にも止まる事なく湧き出でる涙は、頬を転がり、その子どものような顎から滴り落ち、手のひらを、腕を、そして砂色のカーゴパンツに包まれた大腿を、濡らした。


 濡れている。

 なんでだろう?

 泣いている?

 泣いてない。

 でも、………


 ぼくは、………


 ぼくは、泣いているのか。


 ハッとして、手元に落とした視線を上げて、ヴォルフを見る。しかしルナが見たのは、肩幅の広い大柄な戦士の、その痩せぎすな後ろ姿だった。


 ルナに背を向けて歩きながら、ヴォルフは思う。


 少年は、この残酷な時代を生き抜く、一人前の戦士になろうと、今、もがいている。厳しく屹立する断崖を、攀じ登っている。時に息が切れて、心が耐え切れなくて、メソメソ泣いてしまうことだってあるだろう。そんな、闘いの狭間で弱ったところを、覗き見るべきじゃ無いし、まして声を掛けるなんて、もっての他だろう。


 ルナは、しばらくその後ろ姿を見送っていた。何も言わず、ただ見送っていた。そして、その後ろ姿が見えなくなると、再び中天の月影に、そのきらめく眼差しを向けた。月影を映す、一対の鏡のごとき眼差しを。


 もう、涙は止まっていた。そして、涙に濡れた、赤い、子供のようなくちびるで、そっと、その月影に呼びかけた。


「おかあさん。———」


 声変わり前の、まるで女の子のような声だった。











 - [ ]

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る