第2話
埠頭、波頭、深夜の静寂……
真嶋慶は、港にいた。
その足元のすぐそばで黒く塗り潰された波が跳ねている。
さざめきに混じって弱い潮風が慶の髪をなぶった。ガシガシと掻き毟る。どこかで櫛を通す気はないらしい。
元から粗雑な雰囲気もあって、いまの慶は、小洒落た喧嘩屋、あるいは売れ損なった役者か何かに見える。一枚羽織ったシャツは純粋真紅、下は埃で汚れたデニム。どうでもいいが財布を持っている気配はまったく無く、よく見れば誰にでも分かる一文無し。デニムのバックポケットから手紙の切れ端だけが見えていた。
慶は歩いていく。
眩い光を浴びて、顔を上げた。
そこには、一隻の蒸気船が停泊している。
絵の中から出てきたように大きい。それは白く、青く、そして美しかった。古き良き船側外輪船(サイドホイーラー)。巨大な車輪が三つ、船の横に取り付けられている。水に濡れた木材は夜に妖しく輝き、職人の手による精巧な彫刻がびっしりと彫り込まれていた。執念さえ感じる。慶はそれを見上げながら、タラップのそばに近寄った。
黒服の男が、つまらなそうに立っている。
慶を見つけて、寄りかかっていた階段の手すりから身体を起こした。
「ああ、お客さん?」
「みたいだな」
「招待状、あれば」
手を差し出してきた黒服に、慶はポケットから出したクシャクシャの手紙を取り出した。黒服はそれを受け取り、胡散臭そうに目を走らせて、
「一応、確認しますが、あなたは生者?」
慶は面白そうな顔をして、美しい蒸気船を見上げた。
「ふうん。生きてても乗れるのか、これ」
「たまにそういうのも混ざってるんでね。ま、招待状も本物っぽいな……」
「白紙なのに分かるのか」
「あんたが読むと中身が消えちまうってことくらい知ってますよ」
黒服は何か招待状に赤ペンで書き付けてから、それを胸ポケットに仕舞った。よく見ると、まだ若く、目元に涙ぼくろが一つある。雑用には見えない、どことなく高貴な雰囲気の漂う男だった。
防腐剤のような匂いがする。
「ようこそ、『幽霊客船・アリューシャン・ゼロ』へ。歓迎しますよ、『バラストグール』」
「バラストグール……?」
「ああ、聞き慣れない? 船乗りのスラングでね、『腐乱死体』って意味ですよ。元はね」
黒服は意味ありげに笑って、
「この船のことは、ご存知と見てよろしいですか? 改めて説明しなくても?」
慶は淑女のように静まり返っている蒸気船を見上げた。
「死者の願いを叶える船、だろ。魔法の国の夢の船」
「あなたがうまくやれればね」と黒服は笑った。
挑発は嫌いじゃない。慶は笑った。
「試してみるか?」
「中でどうぞ。相手はいくらでもいますよ」
黒服がやる気なく手を広げ、階段の上へと慶を誘った。慶は横目に黒服を見ながら、素直に階段を登った。タラップから、外輪室に刻印された船名が見える。
『アリューシャン・ゼロ』。
そんな名前に、興味はなかった。――慶が気になったのは、蒸気船の煙突からもくもくと立ち上る、蒸気の方だった。
それは、悪夢のように赤かった。
○
タラップを上って、甲板に出る。
誰もいない。
振り返ると、ジオラマのようになった小さな港が見えた。巨大すぎる蒸気船に乗ると、空中に建てられた城の上にいるように思える。
メインデッキの上には、上部デッキへ通じるサロンが建てられている。楕円形のテーブルの上に載せられた木製のウェディングケーキ。その船内へと続く扉を開けた。
そこには、赤いカジノ。
一瞬、窓から夕陽が差し込んでいるのかと思った。
が、そんなわけはない。今は夜だ。見上げるとクリスタルのシャンデリアに油が満たされ、そこに立てられた蝋燭が眩い赤光を降り注がせているのだった。慶は顔をしかめながら、元から赤いのか、それとも蝋燭のせいか、真紅の絨毯に足を踏み出した。
カジノ――。
慶には、見慣れた場所。
お馴染みのテーブルが点々と配置され、ポーカー、バカラ、ブラックジャック、ルーレットなどに、猫背気味の男たちが興じていた。慶の方を見ようともしない。誰もが身なりが良さそうだった。よくある手で貸衣装かもしれない。
慶はいつもの癖でポケットに手を突っ込み、そこでふと気づいた。
手持ちがない。
ちょっとしばらく呆然として、その場に馬鹿みたいに突っ立っていた。換金所らしきものは見当たらない。バーカウンターが一つ、階下と階上へと続く螺旋階段が気まぐれな猫の足跡のように点在し、そしてそれだけだった。なぜか壁際には、普通ならスロットマシンが雁首揃えていそうなところを、ズラリと椅子に座ったメイド姿の少女が並んでいた……
人形だ。
生きているようには見えない。
人形たちは皆、目を閉じている。顔にそれぞれ、幾何学模様の黒い刺青が施されていた。亀裂のようにも見える。
その中の一機の前で、慶の足が、蜘蛛の巣を踏んだように止まった。
なんとなく、一機の人形を眺める。
それはくすんだ、どこか錆びた金髪をした奴隷人形だった。
頬は蝋で白く固められ、蜘蛛の巣のような刺青が入っている。首を肩に軽く預け、きっと鉄か何かで出来ているのだろう、しかし本物の人肌にしか見えない瞼を閉じ、両手を揃えて膝の上に重ねているのを見ると、まるで仕事の途中で寝入ってしまった少女のように思える。風もないのに、その白と金の狭間にある髪が揺れているようだった。
なぜか慶は、ほかのどれでもなく、その人形の前で磁力を流されたように動けなくなった。じっと見つめる。
その人形が、パチッと目を見開いた。
「…………ふあ?」
目を開けた金髪の人形は、惚けた声を上げて、あちこちをキョロキョロ見回した。
そしてシャンデリアを見上げると、すうっと目を細めた。赤い光が弱くなる。普通の白い照明がカジノを満たした。
そして少女は、慶を見つける。
「ごきげんよう、ご主人様!」
「……ごきげんよう?」
「ごきげんよう、です!」
「……なんだ、お前?」
「わたしはこの船に設置された奴隷人形(スレイブドール)です」
少女は元気に、はつらつとして答えた。
「新しいお客様ですね? わたしはこの蒸気船アリューシャン・ゼロの案内人、そしてあなたの勝負の進行をお手伝いし、疑問や質問にお答えするために造られた存在です。今後ともよろしく!」
「……よろしく」
ニコニコしている人形に慶は言った。
「人形にしては、元気なやつだな」
「ハイ! そういう風に造られましたから」
「……ふうん」
「わたしの名前を教えてください、ご主人様」
「なに?」
「名前です」
少女はエプロンドレスの胸元に手をやった。
「わたしには名前がありません。きっとどこかに隠されていると思います。それを探し出して、わたしに名前をください。そうすれば、わたしはご主人様の従僕になれます」
「名前……」
ふと、妙な気が回って、あっさりと慶は正答に辿り着いた。
少女の蒼眼、その奥に、時計のような、機械のような、何か金属製の機構が見えた。
その小さなフレームに英単語が刻印されているのが、かすかに見えた。
「エンプティ……」
「エンプティ」
少女が嬉しそうに笑う。
「ああ、いま、分かりました。実感があります。その名前こそ、わたしの名前だと」
「そうか。……なんか簡単に分かっちまったが、いいのか? もっとタメた方がよかったか?」
「大丈夫です。ダラダラしてたらボコボコにしようと思ってました」
「……お前、奴隷なんじゃないの?」
「時と場合によりけりですが、いつもはそうです。ところで、この船にお乗りになったばかりで、まだ要領を掴めていないのではありませんか? わたしから、この船に関する詳細を説明させて頂いてもよろしいですか。あっ、その前に、あなたのお名前を教えてください!」
慶はボリボリと髪を掻き毟って、奪われた主導権を取り戻すことを諦め、深々とため息をついた。
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