3―5 エアステス・キント 第一の子供
「気づかなかったのか? 香輝。中に人がいるって。お前らしくないな」
厳寿朗が香輝に尋ねた。
「気づいてたよ」
不服そうに香輝が答える。
「なんで言わなかったの?」
楽夢が首を傾げた。
「だって、言ったら晩餐が中断しちゃうでしょ?」
「まあな」厳寿朗は軽く息を吐き出した。「でも、料理が増えるじゃないか」
「そんなにたくさん、お腹に入らないよ」
三人は愉快そうに笑った。屈託がない。幸せな家族の食卓を思い起こさせた。
厳寿朗が波月たちのいる個室に近づいて来た。ノックされた。
「入ってますかー」
そう言うなり厳寿朗はドアを蹴った。埃が舞い、薄い木のドアが大きく内側にたわんだ。幸い、開きはしなかったが。
ドアの隙間から鈍く光る刃が見えた。油のようなもので曇っている。波月は、ついさっきまでそれが何を切っていたのかを考えないように努力したが、無駄だった。
「見ましたよね?」
見てません、と答えれば助かるのだろうか。
連続してドアが蹴られた。全く容赦がない。ロックの金具が激しく揺れてネジが緩んでいく。そのうちの一本が弾け飛んで床で跳ねた。小さく硬い金属音がコンクリートに囲まれたトイレの中に響いた。
波月は顎を震わせた。血の気が引いて顔が蒼くなっているのが自分でも分かる。このままでは自分たちも手洗い場の人物と同じ事をされるに違いない。妖牙谷先輩に声をかければ、なんとかなるだろうか。そう思いはするものの、首を絞められているかのごとく息が苦しくて、声を出す事ができない。
「ふんっ」
気合いと共に蹴られたドアのロックがついに破壊された。勢いのままにドアが内側に開いて来る。波月はとっさに両手を伸ばして押し返した。だが、最後まで閉めきる事ができなかった。ドアの下を見ると足が挟まれていた。深い光沢を湛えた高そうな革靴だ。傷がついてもいいのだろうか。なぜか、そんな事を考えた。
包丁を持った手が隙間から入ってきた。波月の左腕の上で無造作に刃が滑った。激痛に思わずドアから手を放す。勢いよく開いたドアの角で顔面を強打した。鼻の穴から何かが垂れるのが分かった。
厳寿朗の顔が覗いた。穏やかで優しそうな目をしている。やあどうも。そんな陽気な挨拶が口から飛び出しそうだった。
「いただきまーす」
明るい声だ。でも、その言葉の意味するところは波月の血を凍らせた。
「嫌! やめて」
叫んだ波月は夜月に覆い被さった。夜月だけは、夜月だけは守らなくては。波月の髪飾りの鈴が、ちりーん、と鳴った。
「子持ちか。しかも、かなりの美人さんだ」
波月が振り返ると、厳寿朗はすぐ傍に立っていた。無表情に包丁を握っている。それはゆっくりと振り上げられた。波月の頬が震えた。
「待って。その子に手を出しちゃだめだ」
香輝の真剣な声と共に厳寿朗の動きが止まった。
「なぜだ、香輝」
厳寿朗は不審そうに香輝の方を見た。
「もし襲いかかったとしても、勝てる気がしないけどね」
硬い表情をした香輝が、唇の片端にだけ微かに笑みを浮かべた。
「なんだと? こっちにはお前がいるんだぞ。それに、外に立たせている護衛だって猛者ぞろいだ」
「感じないかな。この、大地をも揺るがすほどに巨大な波動を」じれったそうに、香輝は拳を震わせた。「その子は間違いなく……」
「エアステス・キント、なのか」
期待と怖れの入り交じった声で、厳寿朗は香輝に問うた。
「まだ目覚めていないようだけど」
香輝は、波月の体の陰から半分だけ顔を覗かせている夜月をじっと見つめた。夜月も見返した。
「こんな所で遭遇するなんて。奇遇だね」
楽夢の声も興奮気味だ。
「いずれまた会う事になる。間違いなく。でも今は、ヘタに刺激しない方がいい」
「そうだな」厳寿朗は香輝に向かって頷いた。「歪んだ覚醒をされたら、我々は全滅するかもしれない。自然な目覚めを待とう」
「賛成だ。退散しよう」楽夢は手洗い場の方をちらりと見た。「やりかけの仕事を放置するのは忍びないけど」
厳寿朗、楽夢、そして香輝は、波月と夜月を残して立ち去った。波月は魂が抜けたようになって、しばらく動けなかった。
「ねえ、お母さん」自分で身支度を整えながら夜月が声をかけてきた。「手は大丈夫?」
「え? あ、ああ……」
波月はまともに返事ができない。
夜月は波月のポーチからハンカチを取り出して手早く止血すると、波月の携帯電話で救急と警察に連絡した。
すぐ近くにある県警本部から何台ものパトカーが慌ただしくやって来て、大勢の警察官が黄色と黒の規制線を張り巡らせた。
*
救急車で運ばれて港嶺市立中央市民病院で手当を受けた波月は、警察の事情聴取に対して、全く要領を得ない受け答えしかできなかった。事件の現場からは離れたが、まだ食人鬼ガルヴァキスたちの行動範囲に留まっている気がして動揺が収らなかった。代わりに夜月が理路整然と状況を説明した。警察官たちは、異世界の人間を見るような目を夜月に向けた。
警察からの連絡で迎えに来た両親に、波月は緑花公園でのできごとを混乱しつつもなんとか話した。母は両手で口を押さえてしゃがみ込み、父は握った拳を震わせながら立ち尽くした。夜月は廊下のベンチに座って、静かに本を読んでいる。
「危なかったね」
波月の左腕に巻かれた包帯と顔面のガーゼを交互に見ながら、母はようやくそう言った。
「わけが分からないの。今にも殺されそうだったのに、突然、攻撃の手を止めて出て行った。夜月の方を見ながら、エラストマー金魚、とかなんとか言ってた気がするけど、よく聞き取れなかった」
「
「うん、気をつける」
両親に話して少し落ち着いた波月は海歌に電話をかけた。両親以外にも話を聞いてもらいたかった。話す事によって嫌な気分を洗い流したかったのだ。
『波月、聞いてえな』
海歌の方が先にしゃべり始めた。ただごとではない感じがした。
「どうしたの? 大丈夫?」
『別れた』
「え?」
『栗本と別れてん』
「なんでよ? あんなに仲がよかったじゃない」
あまりにも予想外の話だった。
『それがな、なんか急に、君に対する興味がなくなった、言うて離婚届書かされた』
「喧嘩でもしたの?」
『してない。浮気もない。ただ、一緒にいるのが不自然に思えて我慢でけへんらしい』
「そんな一方的な」
『君に恋するなんて有り得ないんだ、何かの間違いに決まってる、とまで言われてん』
一緒だ、と波月は思った。波月も誠司と共に暮らす事に違和感を覚えた。おそらく誠司の方も同様だったのだろう。そして嫌になるほどあっさり別れてしまった。
『前にな、離婚が増えとう、いう話したやろ?』
「うん、覚えてる。私が別れる少し前よね」
『当事者になってもうたな、二人とも』
海歌の声には、どこかすっきりと割り切れたような調子があった。
「そうだね」
『あっけないもんやな、夫婦なんて』
同感だった。
「そんなものなのかもしれないよ。元々は他人同士なんだから」
他人同士の男女。それが恋をして結ばれ子供を作る。ありふれた、とても自然な流れだと言えるだろう。だが、それがもし何者かによって仕組まれた恋だったとしたら。
魔法が解けたとたんに目が覚めて、あ、この人じゃない、となっても不思議はない。魔法をかけたのは誰だ。
『夜月ちゃん、どうしてる?』
「なんか難しそうな本を毎日読んでる」
『一緒に暮らしてるんや』
不吉な感じがした。まさか。
「ねえ、海歌。
『預けた。施設に』
「なんていう施設?」
波月には予感があった。
『なんやったかな。ああ、そうや。前に話したやろ、九院の家や』
やっぱりそうなのか。
「急に海王ちゃんに対する興味を失った。そんな感じだったんじゃないの?」
『なんで知っとん? その通りやで。ぜんぜん、可愛いと思えんようになった』
同級生の絵美と祐子だけじゃない。海歌のところまで離婚、そして子供を手放した。引き取ったのは九院の施設。
見えない所で何かが起こっている。それはもう、確信だった。
思い返せば、結婚ラッシュの時点で既に不自然だった。なぜあの時、もっと深く考えなかったのだろう。私たちはもう、何者かの手のひらで転がされてしまったあとなんじゃないだろうか。
でも波月には夜月が残されている。その点だけが他とは違った。夜月を手放すなんて考えられない。誠司はあんなに可愛がっていたのにあっさり親権を放棄したけれど。
波月は電話を握ったまま夜月に視線を送った。目が合った。夜月は本から顔を上げて微笑んだ。無垢で純真な表情に、波月は胸が熱くなるのを感じた。この子を守る。何があっても。
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