3―4 ヴァーンジニゲス・フェスト 狂宴

 いつの間にか細かい雨が降り始めていた。蒸し暑い。この季節に特有の気候だ。波月は夜月にオレンジ色の小さな傘を渡して自分も傘を広げた。雨はどんどん勢いを増していく。

 小さな同窓会からの帰り道だ。しばらく歩いた所で、ふいに夜月が立ち止まった。

「どうしたの?」

「トイレ」

 夜月が波月の顔を見上げた。

「駅まで我慢できないの?」

「無理だと思う」

 おしゃべりの間の時間稼ぎにトマトジュースを飲ませ過ぎたのだろうか。

 波月は周囲を見回した。市役所などが入っている港嶺行政ビルの隣の緑花ろっか公園にさしかかった所だった。確か、トイレがあったはずだ。

 木立の葉陰にひっそりと建つコンクリート造りの小さなトイレの個室に入った。扉をロックする。

 波月は、夜月の為にトイレットペーパーを取ろうとした手を止めた。耳を澄ます。雨が木の葉を打つざわめきに交じって、湿った土を蹴る足音が近づいてきた。荒れた呼吸音のようなものも聞こえる。走ってきたのだろうか。

 まさか、変質者? 波月は静かに体の向きを変えてドアの隙間に顔を近づけた。そっと覗く。あまり建てつけが良くないようで、顔を左右に動かせば意外なほどに広く外が見えた。

 三人連れだ。男と女、そして夜月と同じぐらいの男の子。家族だろうか。みなびしょ濡れだ。変質者だと考えるのは不自然に思えた。波月は身の安全を感じて、音を立てないように一つ、息をついた。

 しかし、こんな時間に何をしているのだろう。激しく雨の降る、日の暮れた公園からは、とうに人影が消えている。傘を忘れたので、取り敢えず雨やどりに来たのだろうか。

 だが、それにしては様子がおかしい。男と女が何か大きなものを抱えている。重そうだ。細長い。先端には毛が生えていた。毛?

 髪の毛だ、と気づいた。二人は人間を運んできたのだ。横長の手洗い場に降ろした。異様な光景を目の当たりにして波月は動けなくなった。

「ねえ、やっぱりいつものようにお持ち帰りにした方がよくない? 私、なんだか落ち着かないんだけど」

 明らかにサイズの合っていない大きな丸メガネの奥の目を細めて、小柄な女が不安そうな声を出した。胸だけはやたらに重そうだ。

「それじゃあ、この子の勉強にならないよ」白髪交じりのオールバックをきちんと撫で付けた、立派な鼻髭の男が答えた。「それに、土砂降りのこんな時間の公園のトイレになんて誰も来ないさ」

「まあ、そうだけど」

 女はトイレの外に視線を送った。

「本当にやるの?」

 男の子が二人のやりとりを不安そうに見上げている。その姿を見て波月は違和感を覚えた。髪が光り輝くように黄色い。幼いのに染めているのだろうか。しかも、妙に筋肉質だ。

香輝こうき、これはお前たちにとって、避けては通れない試練なんだ」

 男は神妙な顔でそう言った。

「こちら側に来たばかりの君には刺激が強過ぎるかもしれないね。でも、しっかりついてきて」

 メガネをズリ上げながら女が励ました。

 懐から白い布に包まれたものを取り出すと、男はくるくると布を捲って巻き取った。中から冷たく光る刃物が現れた。料理用の包丁のようだ。手洗い場の方を向いて、慎重な様子で何やら作業を始めた。香輝と呼ばれた男の子が背伸びをしてそれを覗き込んだ。だが、すぐに顔を引きつらせて目を逸らした。

「熟成されてるからな、きっと美味いぞ」

 男が目で合図をした。女は頷いてビーカーを構えた。それは、すぐに赤い液体で満たされた。鉄の錆びたような臭いが漂って来る。

 ビーカーを受け取った香輝は、じっと見つめた。

「どうした、欲しくないのか」

 心配そうに、男が香輝の顔を覗き込んだ。

「そうじゃないけど」

 おそるおそる、ビーカーの中の赤い液体を少しだけ口に含んだ香輝は、そこからは一気に飲み干した。空になったビーカーを見つめて難しい顔をしている。

「なんだ、不味かったのか」

 女が不思議そうに尋ねた。

「逆だよ。正直に言って旨い。ものすごく旨い。とんでもなくだ」

「だったら……」

 男が安心したように息をついた。

「だからこそ、なんだか怖いんだ。だって、俺が今飲んだのは……」

「君たちは、そのように生まれたんだよ」

 優しい声をかけた女の方を見て香輝は頷いた。その目には涙が滲んでいた。

「よし、アペリティーフ食前酒のあとはアーベントマール晩餐だ」

 男が陽気に宣言した。慣れた手つきで作業を進めている。

「さすがだね、さかき厳寿朗げんじゅろう。見事な手際だ。九つ星の超人気和風創作レストランのオーナー料理人で、なおかつ天才と呼ばれた外科医だけの事はある。調理師免許を持ってる外科医だなんて、ちょっと恐いけど」

 女が褒めると、男は眉を上げて笑みを浮かべた。

「君だって寄生虫の研究で何度も世界中に名を轟かせた生物学者じゃないか。妖牙谷あやかしがたに楽夢らむの名を知らない研究者はいないだろ」

 妖牙谷楽夢? 羽月は記憶を刺激されるのを感じた。高校の生物部の先輩と同じ名だ。そんな珍しい名前が、そうそう何人もいるとは思えない。大き過ぎるメガネや童顔、そしてべらぼうに豊かな胸にも見覚えがあった。間違いない。

「もう昔の話だよ。今の方が何倍も充実している」

「俺もだ。こんなにも生きている事を実感できる生活があるなんて思わなかった」

「ノイエ・メンシェン=ガルヴァキスに感謝だね」

 ガルヴァキス! 楽夢の口からその言葉が出た事に、波月は動揺を抑えられなかった。変わり者ではあったが、けっして悪事を働くような人ではなかったのに。今ではガルヴァキスにくみする立場にあるというのだろうか。

 大人二人は優しい目で香輝を見つめた。

「さあ、新鮮なうちに」

 厳寿朗が差し出したものを楽夢が紙皿で受け取った。一瞬だけ躊躇った香輝は、涎を垂らしながら噛みついた。

「どうなってるんだ。こんなものを喰うなんて発想は、ついこの間まで全くなかったのに。旨過ぎて涙が出そうだ。それに、なんだか腹の底から力が湧いてくる」

 楽夢が大きく頷いた。

「それはガルヴァキスの特性の一つだよ、香輝」

 洗い場に置いたものから厳寿朗が何かを切り離した。

「兜は最後のお楽しみだ」

 手洗い場の角に厳寿朗が無造作に置いたものに波月の視線が吸い寄せられた。断末魔の表情と目が合った。

 腰が砕けた。バランスを崩した波月は、ひぃ、という息を吸い込む声と共に木の壁に手を突いた。隠しようのない大きな音が響いた。

 手洗い場の三人の動きが止まった。

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