第2話『廃校の文化祭』
夕暮れに染まる校舎が、まるで時が止まったかのように佇んでいた。
私立明泉学園。八十年の歴史を持つ女子校は、この春で幕を閉じた。錆びついた校門には「立入禁止」の看板。蔦の絡まった赤レンガの外壁には、夕日が深い影を落としている。
「取材、ですか?」
管理人は私の申し出に、困惑した表情を見せた。典型的な「物好きな若い人」という目つきだ。確かに、廃校の夜間撮影という依頼は異常かもしれない。
「はい。23時までに撮影を終えたいのですが」
「あの...それは」
私は内ポケットから名刺を取り出した。月城杏子、フリーランス・カメラマン兼ライター。そして、今回の依頼主である学園理事長からの紹介状。つい先日の古美術商の案件以来、不思議な依頼が続いている。
管理人は紹介状に目を通すと、深いため息をついた。その表情には、何か言いたげな影が浮かんでいる。
「分かりました。でも、23時になったら必ず出てきてください」
老人は一瞬言葉を切り、私の目をじっと見つめた。
「それと...文化祭の写真だけは撮らないでください」
首を傾げる私に、管理人は口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
「理由は、お分かりになるでしょう」
そう言って鍵を渡すと、足早に去っていった。後ろ姿には、この場所への後ろめたさのようなものが感じられた。
祖父から受け継いだライカM3を肩に、私は校舎に足を踏み入れた。玄関の床には夕日が差し込み、埃の舞う空気が黄金色に輝いている。
靴音が廊下に響き、それが何倍にも増幅されて返ってくる。かつての生徒たちの声が、今でもどこかに残っているかのようだ。
最上階から撮影を始めることにした。階段を上がりながら、依頼内容を思い返す。
「40年前に突然中止された文化祭の謎を、写真で解き明かしてほしい」
理事長からのメールには、そう書かれていた。添付された古い新聞記事には、文化祭前夜の事故について、わずかな記述があった。
4階の廊下に出ると、夕日が窓から差し込み、オレンジ色の光が床を染めていた。放課後の教室特有の静けさが、空間を支配している。
時刻は19時。シャッターを切る。古い黒板、整然と並ぶ机と椅子。どこにでもある光景なのに、どこか違和感がある。まるで、時間が正しく流れていないような。
ファインダーを覗き直すと、黒板に何かが写り込んでいた。かすかな文字——「文化祭実行委員会」。その下には日付が書かれている。1983年10月31日。事故の前日の日付だ。
次の教室、また次の教室。撮影を重ねるうちに、不思議なことに気付いた。どの教室にも文化祭の準備をしているような痕跡が写り込む。展示パネルの影、装飾の跡、準備中の看板。カメラは40年前の記憶を捉えているようだった。
時計が20時を指したとき、突然校内放送が鳴り響いた。
「間もなく文化祭の準備を始めます。各クラス委員は体育館に集合してください」
声は途中で途切れ、静寂が戻る。私は思わず背筋を伸ばした。電源の入っているはずのない放送設備。しかし、確かに聞こえた少女の声は、どこか切実な響きを持っていた。
3階に降りると、音楽室から微かなピアノの音が漏れてきた。ショパンのノクターン。優雅な旋律が、闇に包まれた廊下に漂う。
扉を開けると、そこにはグランドピアノが月明かりに照らされて佇んでいる。誰もいない。でも、確かに音は鳴り続けている。
ファインダーを覗くと、ピアノの前に制服姿の女生徒が座っていた。艶やかな黒髪が月光に照らされ、指が優雅に鍵盤を踊る。彼女は私に気付くと、にっこりと微笑んで立ち上がった。
「先生、これでいいですか?前夜祭の曲、完成しました」
そう口を動かした彼女の姿は、どこか儚げだった。
カメラを下ろすと、そこには誰もいない。ピアノの音も消えていた。鍵盤の上には、一枚の楽譜が残されている。表紙には「文化祭前夜祭プログラム」の文字。
時計は21時を回っていた。2階の図書室で、40年前の学校新聞を見つけた。一面には大きく「文化祭中止のお知らせ」の文字。その下の記事は、インクで黒く塗りつぶされている。
ファインダー越しに新聞を見ると、塗りつぶされた部分が透けて見えた。
「文化祭前夜、音楽室での事故により、複数の生徒が意識不明の重体に...」
その瞬間、図書室の明かりが消え、暗闇が訪れた。しかし、廊下からは賑やかな声が聞こえ始めていた。
「もうすぐ本番だね」
「衣装は仕上がった?」
「先生、これでいいですか?」
女子生徒たちの声。廊下に出ると、制服姿の生徒たちが行き交う姿が、カメラを通して見えた。彼女たちは皆、生き生きとした表情で文化祭の準備に励んでいる。
しかし、その中の一人が、私の方を振り向いた。血の気が引いた。彼女の顔には、目も鼻も口もない。ただの平らな肌の表面だけが、月明かりに照らされている。
カメラを下ろすと、そこには誰もいない。だが、準備の音は続いている。黒板を拭く音、紙を切る音、誰かが走る足音。
22時。音楽室からまたピアノの音が聞こえ始めた。今度はショパンではない。不協和音の混ざった、不気味な旋律。狂気を帯びたその音は、校舎中に反響している。
ファインダーを覗くと、ピアノの前には顔のない生徒が座っていた。彼女の指は血を流しながら、狂ったように鍵盤を叩いている。その音は次第に大きくなり、私の胸を震わせた。
「あの夜、あの音が鳴り響いて...」
背後で声がした。振り返ると、一人の女性教師が立っていた。40年前の文化祭実行委員会の顧問だという。彼女の姿は半透明で、月明かりが透けて見える。
「優等生だった彼女が、突然あんな演奏を...その音を聴いた生徒たちが次々と倒れて」
彼女の話によると、前夜祭でピアノを弾くはずだった生徒が、突然狂ったような演奏を始めた。その音には何か異常な力が宿っていたという。音を聴いた生徒たちが次々と意識を失い、中には命を落とした者も。文化祭は中止となり、学校は事件を闇に葬った。
「でも、彼女たちは今でも、あの文化祭を完成させたがっているの。40年もの間...」
そう言って教師は消えた。時計は22時30分を指している。
校内は次第に文化祭の熱気に包まれていく。カメラを通して見える生徒たちは、みな顔のない姿で準備に励んでいる。展示物を飾り、ポスターを貼り、装飾を施す。その動きには必死さが感じられた。
「あと30分で本番です!」
放送が鳴り響く。私は決意を固めた。祖父のカメラには、魂を救う力がある。なら、きっと...。
音楽室に戻り、ピアノの前に立つ。狂った演奏は続いている。ファインダーを通して見える顔のない生徒に、私は語りかけた。
「あなたたちの文化祭を、私が記録します。40年越しの記録を。そして、新しい場所へ...」
シャッターを切るたび、生徒たちの顔が戻っていく。展示物を飾る生徒、合唱の練習をする生徒、受付の準備をする生徒。みな、いきいきとした表情を取り戻していく。
ピアノの音も、穏やかな旋律に変わっていった。最後の一枚を撮影したとき、時計は22時59分を指していた。
校舎は静寂を取り戻し、もう幽霊たちの姿は見えない。しかし、私のカメラには確かに、彼女たちの文化祭の記録が残されている。
最後に音楽室を見回すと、ピアノの上に一冊の古びたアルバムが置かれていた。開くと、40年前の文化祭準備の写真が並んでいる。そして最後のページには、生徒たちの直筆のメッセージ。
「私たちの文化祭、必ず完成させましょう」
後日、これらの写真は学園の記念誌に掲載された。そこには、40年の時を超えて実現した文化祭の、生き生きとした風景が記録されている。顔のない幽霊ではなく、輝く笑顔の女生徒たちの姿が。
事務所に戻った私のもとに、また新しい依頼が届いた。今度は、廃棄予定の古い映画館からの依頼だ。そこでも、きっと記録すべき物語が眠っているのだろう。
ファインダーの向こうには、まだ見ぬ物語が待っている。そして私は、そのすべてを救済の光で照らし出す準備ができていた。
(第二話・完)
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