『深夜カメラマンの怪談ファイル』

ソコニ

第1話『古美術商の遺品』


私の人生を変えたのは、祖父の遺したカメラだった。


古びたライカM3。使い込まれた革の質感と、レンズに残る微細な傷が、数多の時を物語っている。「このカメラには魂が宿る」と祖父は言っていた。写真には、目に見えないものが写り込むことがある——。当時の私は、そんな言葉を戯言だと思っていた。


しかし今、私はそのカメラを手に、不思議な依頼に向き合っていた。


「月城さん、お願いできますか?」


目の前で深く頭を下げる女性——村井美香は、先月他界した古美術商・村井啓介の一人娘だ。黒の喪服が似合う端正な顔立ちに、深い疲労の色が滲んでいる。


新聞社を辞めてフリーのカメラマン兼ライターになって3年。「モノに宿る物語を撮る」をモットーに活動してきた私だが、今回の依頼は異質だった。


「23時までに撮影を終えないと...」


「はい。その時間を過ぎると、もう誰にも制御できなくなります」


依頼の内容は、遺品となった骨董品の撮影。一見シンプルな仕事に思えたが、夜間撮影という異常な条件が付いていた。


村井啓介という男を、私は知っていた。業界では「禁忌の骨董商」として名高い存在だ。事故や事件に関わった品々、所有者に不幸をもたらしたと噂される美術品。通常の古美術商が忌避するような品を、あえて収集していた。


新聞記者時代、一度だけ取材を試みたことがある。「これらの品は、まだ記事にできる状態ではない」。そう言って丁重に断られた時の、彼の切なさを含んだ表情が忘れられない。


深夜、書斎で倒れているところを娘が発見した——。先月の訃報は、そんな形で私の元に届いた。心臓発作という診断だが、業界では様々な噂が飛び交っている。


「これが父の最後の...封印作業でした」


美香が差し出した古い写真には、骨董品に向かってカメラを構える啓介の姿があった。その表情は尋常ではなく、まるで何かと対峙しているかのようだ。


玄関先での会話を終え、二階の和室へと案内された。そこには見事な骨董品が並んでいた。螺鈿細工の美しい箪笥、古めかしい三面鏡、数枚の掛け軸。どれもが確かな価値を持つ品々だが、同時に不吉な雰囲気を漂わせていた。


時計は21時を指している。これから2時間の間に、全ての品の撮影を終えなければならない。


「一つずつ、説明していただけますか」


最初に向かった螺鈿細工の箪笥は、大正時代の逸品だ。月光に照らされた梅の意匠が、幻想的な輝きを放っている。


「大正12年、横浜の旧家で起きた令嬢失踪事件に関わった品です」


三脚を立てながら、美香の説明に耳を傾ける。名家の令嬢が突然姿を消し、三日後、この箪笥の中から遺体で発見された。事件は迷宮入りとなったが、以後、この箪笥を所有した家では若い女性が次々と失踪したという。


ファインダーを覗き、シャッターを切る。デジタルカメラのディスプレイで確認すると、箪笥の前に着物姿の若い女性の影が、かすかに写り込んでいた。


祖父の古いライカで撮影した写真には、さらに鮮明な姿が写っている。しかし、カメラから目を離すと、そこには何もない。


次は大きな三面鏡。戦後まもない頃、心中した夫婦の遺品だという。鏡に映った自分たちの姿を最後に、二人は命を絶った。その後、この鏡を手に入れた者たちも、鏡に映る異様な映像に苦しめられたという。


「父は『鏡は記憶を映す』と言っていました」


ライカのファインダーに目を凝らすと、鏡の中に中年夫婦の姿が浮かび上がる。表情には深い悲しみと、どこか救いを求めるような切実さが滲んでいた。


掛け軸は江戸時代末期の作とされる寺院の図。描かれた寺は明治初期に火災で全焼。その後、この掛け軸を手にした者の家でも、原因不明の火災が相次いだという。


撮影を進めるうち、時計は22時を回っていた。その瞬間、部屋の空気が一変する。温度が急激に下がり、何かが蠢くような違和感が背筋を走った。


ライカのファインダーを通して見ると、先ほどまでのかすかな影が、はっきりとした人型に変化していた。箪笥の前の着物姿の女性、鏡に映る夫婦、掛け軸の前に佇む法衣姿の僧侶。


「父は毎晩、23時前にこれらを封印していました」


美香の説明によると、啓介は特殊な方法でこれらの品を鎮めていたという。しかし、その手順は娘にすら明かされていない。


「先月、最後の封印の途中で父は...」


彼女の言葉が途切れる中、時計は22時30分を指した。ファインダーに写る彼らの姿は、さらにはっきりとしてくる。そして、ゆっくりと私たちの方を向き始めた。


悲しみ、怒り、未練。様々な感情が、その表情に刻まれている。しかし、その奥には何か別のものを感じた。解放を求める魂の叫びとでも言うべきものを。


そのとき、啓介の真意が分かった気がした。彼は呪いを集めていたのではない。これらの品に宿る魂の救済を求めていたのだ。そして、その救済の手段として、写真という方法を選んでいた。


私は決意を固めた。肩から提げていた祖父のカメラを構え直す。


「あなたたちの物語を、私が記録します。そして、新しい場所へ。もう誰も傷つかない場所へ」


シャッターを切るたび、幽霊たちの表情が変化していく。女性の怒りが和らぎ、夫婦が穏やかな笑みを浮かべ、僧侶が深々と頭を下げる。


最後の一枚を撮り終えたとき、時計は22時59分を指していた。もう、不気味な影は見えない。代わりに、安らかな表情の彼らが、静かに佇んでいる。


「これで...父の仕事を、終わらせることができました」


美香の声に、深い安堵が滲んでいた。


翌日、これらの骨董品は全て焼却処分された。しかし、私のカメラには確かに「彼ら」の姿が記録されている。不思議なことに、これらの写真を見ても不吉な気配は感じない。むしろ、どこか救われたような印象すら受ける。


事務所に戻り、現像作業をしていた私のもとに、新たな依頼のメールが届いた。差出人は美香からの紹介という。


「廃校となった私立明泉学園の写真撮影をお願いできないでしょうか。23時までに、という条件付きになります」


私は、祖父のカメラを手に取りながら考える。このカメラには、単なる記録以上の力がある。そして、それを見出したのは私だけかもしれない。


ファインダーの向こうに広がる世界は、まだまだ謎に満ちている。しかし、その謎に触れる度に、私は少しずつ分かってきた。


写真は記録だけでなく、時として救済にもなりうるのだと。


そして、それこそが祖父と村井啓介が、最後に伝えたかったことなのかもしれない。


(第一話・完)

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