第10話 命の隔だたり

 例年なら雪が降っていてもおかしくない十二月。この日は雨だった。

 いつも通り学校から帰ってドアを開けると、そこに真っ青な顔の祖母が立っていた。


「お父ちゃんが、お父ちゃんが死んだ。すぐ、深山病院に行きなさい」

「えっ?」

 私は訳がわからず聞き返す。

「お父ちゃんが死んだ。深山病院に行きなさい」

 祖母は、生まれて半年の弟を抱いたまま、ただ同じ言葉を繰り返す。表情が硬い。

 

 納得のいかぬまま、私は現実感のない不思議な空間を走り出した。

『あんなに元気なお父ちゃんが死んだりするはずない。お母ちゃんと間違えてるのかもしれない』

 亡くなったとすれば産後の具合が悪かった母の方ではないのか? 祖母は気が動転して言い間違えたのではないか? そう疑った。


『とにかく病院へ行こう』

 病院へ行けば何が起きたのかはっきりわかる。ただ、とんでもない悲しい事が起きているのは間違いない。人間はこんな時でも笑えるのだろうか? ふと、考えて私は走りながら笑顔を作ってみた。笑顔は作れた。頭の中が変な事になっていた。


 病院の表から入ると大人の人が裏口へ案内してくれた。

 その奥のシンとした冷たい空気の中に父と母がいた。


 母は声も出せずに泣いている。

 父はストレッチャーの上に横たわっていた。

 だが、私にはそれが父だとは到底思えなかった。表情を無くし物のようになってしまった体。ここに父はいない。横たわっているのは恐ろしい「死」だ。

 十歳の子供には理解の追い付かない隔たりが影になって横たわっていた。

 

 テレビドラマでは亡骸に家族がすがりついて泣くが、私には出来なかった。それどころか近づくことさえできなかった。後ずさりして階段を上り、踊り場から亡骸と母と病院の人たちを見下ろし、手すりにしがみついて泣いた。

 情けなかった。大好きな父が亡くなったというのに私は恐怖に支配されて動けなかったのだから。

 その場にいる全ての人が、母も含めて、私を非難しているように思えた。悲しみもせず怖がるなんて、と。なんて子供だ、と。



 火葬場は山の上にあった。

 父の仕事仲間が大勢でリヤカーに乗せた父を火葬場まで運んだ。最後に町を見せてやりたいと、その方法を選んだらしい。あるいは車の事故で死んだ父を車で運ぶのは酷だと思ってくれたのかもしれない。

 この辺の記憶は途切れ途切れだが、光景だけはうっすらと覚えている。


 葬儀が終わってからの母は、毎日何もせずただ仏壇の前で泣いていた。いつかそのうち、皆で一緒に死のうと言い出すのではないかと怖かった。

 三十歳そこそこで四人の子供と共に残された母の境遇は、あまりに残酷だと今ならわかる。

 けれども、その頃は私たちが頼るべきたった一人の親だったから、来る日も来る日もただ泣いている母に少し腹が立った。妹たちや弟はどうするのだ、と。

 幸い、祖母がいたから何とかなったけれど家の中はどんどん暗くなっていった。

 姉妹兄弟バラバラにどこかへ引き取られることになるかもしれないと大人たちが話しているのも聞こえて来た。


 結局、大人たちがどんな方法を考えたのかはわからなかったが、私たちは家族皆で一緒に暮らせることになった。古くて安い中古の家だけど、家があった事も助けになったようだ。家のローンも、哀しい話だが父が亡くなる一か月前に払い終えていた。


 暗い時間が流れる中、クリスマスには母の弟、つまり叔父が大きなクリスマスケーキを持って来てくれた。それを見て母は怒って泣いたけれど、私達子供は別の部屋へ連れていかれ、皆でケーキを食べた。母にはもう少し時間が必要だった。

 

 

 奇妙に思えるかもしれないが私たちも母も、父の親族に会ったのはこの葬儀の時が初めてだった。母が唯一知らされていた連絡先に電話を掛けたか、電報を打ったかで、父の兄だという人が遠い福島県から駆けつけて来た。

 父より随分年上で苗字も違っていたが間違いなく伯父さんだった。

 聞けば父の両親は早くに他界し、末っ子でまだ幼かった父は兄弟達に育てられたのだそうだ。だからか、と、山学校の謎も少し解けた気がした。

 苗字が違うのは跡継ぎ問題のせいらしい。そうまでして苗字を残したい理由は私にはわからなかったけれど。


 この翌年と翌々年、私とすぐ下の妹は福島県いわき市にある伯父さん宅に招かれ、家族総出で歓迎してもらった。このときにハワイアンセンターにも連れて行ってもらいムームーを着て写真を撮った。

 日本アルプスの麓のすり鉢の底からほとんど出た事のない私達には夢のような体験だった。

 それでも月日が流れるうちに、徐々に疎遠になり今では連絡をとる術もなくなってしまった。あの東日本大震災の時にも連絡はとれなかった。

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