不思議と戦慄の短編集
羽柴吉高
第1話 死してなお、そこにいる
第一部:社長死す
【東京の片隅にある、わびしい街】
東京の片隅、栄えているとも言えず、かといって完全に寂れているとも言えない、どこか宙ぶらりんな街がある。
駅から少し歩けば、錆びた電飾の看板が点滅するラブホテルが立ち並び、その合間に風俗店の看板がひしめいている。昼間は閑散としており、道を歩く人々もどこか影が薄い。活気に満ちた繁華街とも、秩序のあるオフィス街とも違う、荒んだ空気が街全体を覆っていた。
そんな雑多な街並みの一角に、田村誠一(たむら せいいち)、26歳が勤める会社はあった。
【薄汚れた貸しビル】
彼の会社が入っているのは、古びた貸しビルだった。
グレーに塗られた外壁は、長年の排気ガスと雨風にさらされ、すでに色褪せている。塗装は剥がれ落ち、鉄骨が赤茶けた錆を帯びてむき出しになっている。ビルの入り口には、無造作に張り紙が貼られ、見知らぬ企業のチラシや求人広告が風に揺れていた。
エントランスのガラス扉には無数の指紋がつき、薄汚れて曇っている。ドアを開けると、薄暗い廊下が続き、古びたエレベーターが鈍い軋みを上げる。ボタンを押すと、ギギギ……と不気味な音を立てながら、ゆっくりと降りてくる。
階段を上れば、どこからか油のような匂いが漂い、壁には薄汚れたポスターが貼られている。天井の蛍光灯は古く、点滅を繰り返しており、その光が廊下に落ちる影を不気味に揺らしていた。
そんなビルの一角に、田村が勤める英会話教材販売会社があった。
【営業員・田村誠一】
田村は、英会話教材を売る営業員だった。しかし、成績はさほど良くない。むしろ、営業の中では落ちこぼれだった。
「50万円もする英会話教材なんて、誰が買うんだよ……」
何度そう思ったかわからない。
この会社の営業マンは、ほとんどが長続きせずに辞めていった。
田村と同じように成績が悪い者は、最終的には見切りをつけて転職する。だが、中には辞めるに辞められず、ズルズルと会社にしがみついている者もいた。田村もその一人だった。
春の訪れが感じられる頃。
暖かくなるにつれて、営業の仕事はさらに辛くなった。スーツを着たまま街を歩き回り、ひたすら飛び込み営業をする。門前払いを食らい、時には冷たい言葉を浴びせられ、心身ともにすり減る日々。
夜になると、疲れ果てた体を引きずりながら、あの古びたビルへと戻る。
そんな日々が続く中、ある出来事が起こった。
第二部:忍び寄る影
【忍び寄る影】
社長の亡霊を最後に見た日から、田村は奇妙な違和感を抱えたまま過ごしていた。
社長の亡霊はもう現れない。それなのに、オフィスの空気はどこか重く、陰鬱なものになっていた。
最初のうちは、ただの気のせいだと思った。
だが、それは次第に無視できないものへと変わっていった。
ある夜、田村はひとり残業をしていた。
時計を見ると、すでに23時を回っている。
誰もいないオフィス。
キーボードを打つ音が響いていたはずの空間は、今は静寂に包まれていた。
その時だった。
──カタ……
デスクの上の書類が、一枚だけ勝手にめくれた。
ぞくりと背筋に寒気が走る。
「……風か?」
しかし、オフィスには窓はなく、エアコンも切られていた。
心臓が高鳴るのを感じながら、足早に出口へ向かった。
エレベーターに乗り、ドアが閉まる。
ふとオフィスの方を振り返った。
その瞬間、社長のデスクの椅子がほんの少し、動いた。
【悪夢の始まり】
それから田村は、奇妙な夢を見るようになった。
夢の中、田村は会社のオフィスにいた。
しかし、そこには誰もいない。
薄暗い室内に、デスクが並び、静寂だけが支配している。
「……誰かいるのか?」
自分の声が、不自然に響いた。
やがて、社長のデスクの前まで来る。
社長の椅子は、空っぽだった。
しかし──
机の上の書類が、勝手にめくられていく。
まるで、誰かが見ているかのように。
「な……」
背筋が凍りついた。
そして、その瞬間──
背後から、誰かの低い声が聞こえた。
「……田村くん……」
振り向いた。
そこには、社長がいた。
蒼白な顔。
血の気のない唇。
黒いスーツのまま、じっと田村を見つめていた。
「社、長……?」
声が震える。
社長は、口を開き、何かを言おうとしていた。
しかし──
突然、その顔が、ぐにゃりと歪んだ。
目の奥が闇に沈み、口がありえないほど大きく開く。
「うあああああああ!!!」
田村は絶叫し、後ずさった。
その瞬間、世界が暗転した。
【目覚め】
田村は飛び起きた。
額にはびっしょりと汗をかき、胸が激しく上下している。部屋の天井を見上げながら、現実に戻ってきたことを確認する。
「……夢、だったのか?」
荒い息を整えながら周囲を見渡す。だが、何かが違う。
空気が重い。
妙な圧迫感が部屋を包んでいる。
そして──布団の端に、黒い手形がついていた。
田村は凍りついた。まるで誰かが這い上がってきたかのような形だ。これはただの夢ではない。
ガタガタと震えながら布団を払い、ベッドから降りた。
その時だった。
──コン……コン……
部屋のドアが、小さくノックされた。
この時間に誰が?
時計を確認する。午前3時40分。
「……誰だ?」
返事はない。
田村は恐る恐る近づき、ドアの覗き穴を覗いた。しかし、そこには誰もいなかった。
安堵した瞬間──
──コン……コン……
今度は、もっと強く。
息をのむ。
ドアノブがカタカタと揺れ、ゆっくりと回ろうとしていた。
「……っ!」
田村は咄嗟にドアを押さえた。
その瞬間、ドアの下の隙間から、黒い影のようなものが這い出てきた。
「うわぁぁっ!!」
後ずさると同時に、ドアノブが激しく揺れ、ガタガタと大きな音を立てた。
──だが、突然、ピタリと音が止まる。
静寂。
心臓がバクバクと鳴り響く中、田村は恐る恐るドアに手を伸ばした。
覗き穴を覗く。
──誰もいない。
「……気のせいか?」
深呼吸し、もう一度覗き穴から確認する。
その瞬間、
──覗き穴の向こうに、蒼白な顔があった。
「うあああああっ!!」
田村は飛び退き、ドアから離れた。
しかし、気づくと、部屋の中に奇妙な気配が漂っていた。
ゆっくりと振り返る。
ベッドの傍に、黒い靄のようなものが漂っていた。
その中から、細長い手が伸びてくる。
「……田村くん……」
低くかすれた声。
社長のものだった。
その手は田村の足元へと這い寄り、指先がスーツの裾を掴んだ。
「やめろっ!!」
田村は必死に振り払い、部屋のドアを開けて飛び出した。
廊下を駆ける。
エレベーターのボタンを乱暴に押す。
しかし、エレベーターはなかなか降りてこない。
背後から、ゆっくりと黒い影が迫ってくる。
「早く……早く!!」
ボタンを連打する。
その時──
──チンッ。
エレベーターの扉が開いた。
田村は飛び込む。
扉が閉まる直前、廊下の暗闇に佇む社長の亡霊が見えた。
「……逃げられると思うなよ……」
不気味な声が聞こえた瞬間、エレベーターの扉が閉まった。
【警告】
エレベーターの中で田村は荒い息を吐きながら、床に座り込んだ。
「……なんなんだ、これ……」
まるで、夢と現実の境界が曖昧になったような感覚。
エレベーターが1階に到着し、田村は急いで外へ出た。
外の空気を吸い込む。
しかし、安心する間もなく、ポケットの中に何かがあることに気づいた。
取り出すと──
それは、社長の名刺だった。
震える手で裏返す。
そこには、黒いインクでこう書かれていた。
──【また会おう】──
田村は叫び声をあげ、名刺を放り投げた。
その瞬間、ビルの上の階の窓に、蒼白な顔が浮かび上がった。
社長だった。
笑っていた。
田村はもう、逃げられないのかもしれない……。
第三部:呪われた影
【追跡】
田村は、震える手でスマホを取り出し、警察に通報しようとした。しかし、画面には圏外の表示が出ている。
「……嘘だろ……?」
足がすくみ、心臓の鼓動が耳の奥で響く。
振り返ると、ビルの上層階にある窓の向こうで、社長の亡霊がじっとこちらを見下ろしていた。
「……逃げられない……」
かすれた声が、どこからともなく聞こえた。
田村は思わず後ずさる。足元に何かがぶつかる感触があり、恐る恐る視線を落とす。
そこには──
社長の名刺が、何枚も何枚も散らばっていた。
「なんなんだよ、これ……っ!」
田村は無我夢中で駆け出した。夜の街を彷徨いながら、人の気配がする場所へと向かおうとする。しかし、街は妙に静まり返っていた。
まるで、自分だけが異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。
「誰か……誰かいないのか!」
叫ぶが、返事はない。
ふと、商店街の脇にあるコンビニの明かりが目に入った。
「あそこなら……!」
田村はコンビニのドアを押し開け、中へ飛び込んだ。
【異変】
コンビニの中は、異様なほど静かだった。
レジの奥に店員が立っているが、まるで動かない。
「すみません、助けてください! 誰かに追われてるんです!」
田村が叫ぶと、店員がゆっくりと顔を上げた。
その顔は──
社長だった。
「うわっ……!」
田村は後ずさる。しかし、店員の顔は再び普通のものに戻っていた。
「……お客様、どうされましたか?」
落ち着いた声が返ってくる。
田村は混乱しながらも、呼吸を整え、コンビニの防犯カメラを確認しようとした。
しかし、モニターには何も映っていなかった。
そこには、まっさらな画面があるだけだった。
田村はその場に立ち尽くした。
「……もう、ダメなのか……?」
その時だった。
レジの奥から、低く不気味な声が響いた。
「田村くん……」
【絶望】
次の瞬間、コンビニの照明が一斉に消えた。
真っ暗な空間に、何かが蠢く気配がする。
田村は咄嗟に外へ飛び出した。
外の街灯の下、周囲を見回す。
しかし──
そこには、何もなかった。
どこか遠くで、社長の声が囁く。
「……田村くん、まだ終わっていないよ……」
その言葉に、田村は震え上がった。
一体、いつまでこの悪夢は続くのか……。
第四部:終わらぬ悪夢
【逃亡】
田村は震える足を引きずりながら、夜の街をさまよっていた。
どこへ逃げても、社長の声が囁く。
「……田村くん……」
振り返っても誰もいない。しかし、確かに何かがそばにいる。
コンビニを出てからどれほど歩いただろうか。街は静まり返り、異様な気配が漂っている。
「……誰か……助けてくれ……」
田村は泣きそうになりながら、近くの公園へと駆け込んだ。
しかし、そこも異様な静けさに包まれていた。
ブランコがゆっくりと揺れている。
誰も乗っていないのに。
田村は足を止め、息を整えた。その時だった。
──ザッ……ザッ……
背後から、靴音が聞こえてくる。
心臓が締め付けられるような感覚。
田村は恐る恐る振り返った。
そこには──
スーツ姿の社長が、こちらを見ていた。
「もう……逃げられないよ……」
社長の顔はゆっくりと歪み、口元が異様に広がった。
田村は叫び声をあげ、再び駆け出した。
【封じられた記憶】
気づくと、田村は自宅の前に立っていた。
どうやってここに戻ったのか、記憶が曖昧だった。
ドアを開ける。
部屋は静まり返っている。
「……夢、だったのか……?」
そう思った瞬間、足元に何かが落ちていた。
社長の名刺。
震える手で拾い上げると、その裏にはこう書かれていた。
──【思い出せ】──
「思い出せ……?」
田村は胸に込み上げる不安を抑えながら、記憶を辿った。
何かを……忘れている?
その瞬間、頭の中に鋭い痛みが走った。
そして、フラッシュバックする記憶──
【真実】
田村は、数週間前の夜のことを思い出した。
社長のデスクの前に立ち、激しく言い争っていた。
「こんな会社、もうやめます! 俺はもう限界なんです!」
「田村くん、それは……」
社長が何かを言おうとしたその瞬間──
田村の手が、社長の胸を突いていた。
鈍い音。
社長はよろめき、バランスを崩して後ろへ倒れた。
頭がデスクの角にぶつかる。
……そして、動かなくなった。
「……嘘だろ……?」
田村は震えながら社長の体に触れた。
冷たい。
「俺が……殺した……?」
その事実が頭をよぎった瞬間、背後から冷たい声が響いた。
「思い出したかい?」
田村は振り返った。
そこには、社長の亡霊が立っていた。
「……終わりにしよう」
社長はゆっくりと手を伸ばす。
田村は後ずさるが、足がすくんで動けない。
次の瞬間、視界が暗転した。
【そして、消失】
目を覚ますと、田村はデスクの前に座っていた。
オフィスのいつもの風景。
まるで、何もなかったかのように。
だが──
デスクの上には、社長の名刺が置かれていた。
裏には、こう書かれていた。
──【また会おう】──
田村は、震える手でそれを握りしめた。
遠くで、社長の笑い声が聞こえた。
これで、本当に終わったのか……。
(終わり)
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