第2話 名もわからない恩人供養
第1章:奇妙な依頼
空気がひんやりと澄み渡り、木々の葉は鮮やかな紅や黄金に染まり始めていた。風が吹けば、枝から落ちた枯葉が静かに舞い、地面を覆っていく。夕刻が近づくにつれ、辺りは次第に静寂に包まれ、秋の深まりを告げる鐘の音が寺の境内に響いた。
そんなある日、一人の男が寺を訪れた。境内の門をくぐる足音は重く、迷いを含んでいるようにも聞こえた。堂内では孝謙(こうけん)和尚が静かに経を唱えていたが、男が近づく気配に気付き、顔を上げた。
男は四十代半ばほどだろうか。薄く汗ばみ、疲れ切った表情をしているが、身なりはきちんとしていた。黒の背広に無難なネクタイ、どこにでもいる中小企業の社長といった雰囲気だ。しかし、その眼差しには、深い悩みと迷いが垣間見えた。
男は軽く頭を下げた後、おずおずと切り出した。
「和尚…実は、名前も歳も住所もわからない人の供養をお願いしたいのです。」
孝謙和尚は驚きつつも、表情を変えずに頷いた。
「詳しくお聞かせいただけますか?」
男はしばし沈黙し、どこか遠くを見るような目をした後、ゆっくりと語り始めた――。
第2章:田羽村最初の挫折
田羽村隆一郎(たはむら りゅういちろう)は、小さな土建会社を経営していた。しかし、ここ数年、仕入れ材料の高騰と受注の減少に悩まされ、ついに社員の給料すら払えなくなった。責任感の強い彼は、せめて家族の今後と社員たちに最低限の生活費だけは残したいと考え、絶望の末に死を選ぼうと決意する。
金も底をつき、家にも帰らず、田羽村は行くあてもなく歩き続けた。財布の中には小銭が少しと、しわくちゃになった千円札が一枚。何も食べず、何も考えずにただ歩く。やがて日は傾き、寒さが身にしみる頃、彼は気づけば崖の近くまで来ていた。
断崖の上に立つと、目の前にははるか下まで続く荒々しい海岸線が広がり、白波が激しく岩に打ちつけていた。強い潮風が吹き付け、衣服を翻しながら肌を刺すような冷たさを感じさせる。遠くからは海鳥の鳴き声が響き、どこか物悲しい音色を奏でていた。
田羽村は一歩、崖の縁に近づいた。足元の小石が崩れ、ゆっくりと落ちていくのが見えた。今、自分が飛び降りたら、どんな感覚が待っているのだろう。恐怖か、解放か――。
ふと、視界の端に人影が映った。そこには、彼よりも先に崖の上に立つ男がいた。
「あなたもですか?」
その男は静かに田羽村を見つめ、穏やかな口調で言った。田羽村は一瞬戸惑ったが、隠す気もなければ取り繕う気もなかった。
「ええ……」
男は少し考えるような仕草を見せた後、ふっと微笑んだ。
「今日、一緒に泊まりませんか?」
「……泊まるお金など、もうありません。」
「それなら、私が全額持ちます。どうです?」
田羽村は一瞬、躊躇した。しかし、どうせ明日には死ぬつもりなのだ。一日くらい延ばしても変わらない。そう思い、男の申し出を受けることにした。
駅周辺の寂れた旅館に、田羽村と男は宿をとった。古びた木造の建物は外壁の塗装が剥がれ、入口の提灯も薄暗く揺れていた。受付にいた老女は客が来るのは珍しいのか、驚いたような顔をしていたが、淡々と鍵を渡した。
部屋は六畳ほどの和室で、年季の入った畳にはすり減った跡が見える。壁には染みがあり、天井の梁にはほこりが薄く積もっていた。小さな電球の明かりはどこか頼りなく、寒々しい空気が漂っている。窓の外を見れば、遠くに列車の音が響き、時折、風が軋むように障子を揺らした。
二人は座布団に腰を下ろし、旅館の古びた卓袱台の上に並べられた酒を酌み交わした。酒は安物の焼酎だったが、田羽村の喉を熱く潤した。心の奥に溜まっていた鬱屈とした思いが、アルコールの力でわずかに和らいでいく。
田羽村は、自分のこれまでの経緯を男に語った。事業の失敗、資金繰りの悪化、家族や社員を守るために自ら命を絶つことを決めたこと――。
男は黙って聞いていたが、しばらくして静かに言った。
「あなたと私は、まるで鋳型で作られたように同じですね。」
男の声には、どこか寂しさが滲んでいた。田羽村は、相手のことをもっと知りたいと思ったが、妙に踏み込んではいけないような気がして、それ以上は聞かなかった。
翌朝、田羽村が目を覚ますと、部屋は静寂に包まれていた。隣の布団を見ると、そこに男の姿はなかった。
代わりに、枕元には一枚の袱紗(ふくさ)が置かれ、その上に手紙が添えられていた。震える手で手紙を開くと、そこには端正な字でこう書かれていた。
「あなたは死んではいけない。ここに一千万円あります。これを持って、もう一度やり直してください。私のことは探さないでください。」
田羽村は驚き、思わず袱紗を開いた。中には本当に、一千万円が入っていた。信じられない気持ちで周囲を見回したが、男の姿はどこにもなかった。旅館の帳場に行くと、すでに宿代も支払われており、何も聞かされていない老女が淡々と掃除をしているだけだった。
「……そういえば、お互い名前も名乗らなかったな。」
呟きながら、田羽村は旅館を後にした。
第3章:茨城での再起
田羽村は、男の言葉とその思いを胸に、茨城に戻った。全てを失ったと思っていた彼は、この一千万円を元手に事業の再建を試みた。
最初は慎重に、小さな仕事からコツコツと積み重ねていった。人を雇う余裕もなく、朝から晩まで働き詰めの日々。しかし、努力の甲斐あって、次第に新しい取引先が増え、事業は少しずつ軌道に乗り始めた。
工事現場には活気が満ち、トラックのエンジン音と職人たちの掛け声が力強く響くようになった。以前のように、社員の給料が支払えない日々は終わった。給料日には封筒を手にした社員たちが笑顔を見せ、飲み屋で労をねぎらうこともできるようになった。
自宅に帰れば、子供たちの明るい声が響く。長男は大学受験に向けて勉強に励み、娘は高校生活を楽しんでいる。妻も、以前のような不安げな表情は消え、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「……もう、二度とあんなことは考えない。」
田羽村は、ふと遠くを見つめながら呟いた。しかし、その誓いを破られる日が再び訪れるとは、この時の彼には知る由もなかった。
しかし、会社は再び暗礁に乗り上げた。順調に見えた経営も、次第に傾き始め、資金繰りは限界を迎えていた。かつての失敗がまた繰り返されるのかと思うと、田羽村の心には、再び深い絶望が広がっていった。
社員たちの生活を守ることができない。家族にまた不安を与えてしまう。打開策を探す時間も余裕も尽き果て、彼の頭に浮かんだのは、以前と同じ決断だった。
「もう、終わりにしよう……」
しかし、ただ死ぬだけでは意味がない。前回とは違い、今度は確実に保険金が家族に支払われるよう、計画的に死ななければならない。失踪扱いになれば、保険金は下りない可能性が高い。だからこそ、すぐに発見される場所で死ななければならなかった。
田羽村は、そう考えながら場所を選んだ。遠くの山奥ではなく、人の目につきやすい場所――警察がすぐに動くような場所がいい。そう考えた末に、彼が向かったのは樹海の入り口に近い山道だった。
この場所ならば、誰かしらがすぐに見つけてくれるはずだ。樹海の奥深くまで入ると行方不明扱いになってしまうが、入り口近くなら早ければ翌朝には発見される。死んだ後のことまで考えながら、田羽村は最後の夜を迎えるため、近くの旅館に泊まる。
旅館は寂れた山間にあり、薄暗い灯りがぼんやりと光っていた。受付の老人は無愛想に鍵を渡し、何も聞かずに奥へ引っ込んだ。客の少ない館内は静まり返っており、湿った畳の匂いがかすかに鼻をつく。
田羽村は布団に横になり、死ぬ覚悟を再確認するつもりだった。しかし、思い出すのは、かつて自分を助けてくれたあの男のことだった。
「あの人は……今どこで、どうしているんだろうか。」
田羽村は、思考の波に飲まれながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、旅館全体が騒然としていた。廊下を慌ただしく行き交う宿の従業員の声が響く。田羽村が何事かと部屋を出ると、外では数人の警察官が集まり、話し合っていた。
「何かあったのか?」
不安になりながら、宿の女将に尋ねると、彼女は顔をこわばらせながら答えた。
「近くの林で、首吊りの遺体が見つかったそうです……」
田羽村の背筋に、ぞっとする冷たいものが走った。まさか――。
恐る恐る、彼は現場へ向かった。旅館のすぐそば、小さな林の奥に、警察官たちが集まっている。ロープが垂れ下がる木の前で、シートを被せられた遺体が横たえられていた。心臓の鼓動が異様に速くなる。まさか、そんなはずはない。しかし、警察がシートをめくった瞬間、田羽村はその場に崩れ落ちた。
そこに横たわっていたのは、かつて自分に一千万円を託してくれた、あの男だった。
体は青ざめ、表情は穏やかだったが、確かにあの男だった。見間違えるはずがない。
田羽村は震える手で口元を覆った。男は、自分より先に死んでしまったのか。なぜこんなところで?彼も、また絶望の果て、この地にたどり着いたのか?
衝撃と混乱の中で、田羽村はただ震えながら、その場を立ち去った。彼の中で死ぬという決意は、いつの間にか消えていた。ただ、ここから逃げ出さなければならない、そう思った。
田羽村は、息を切らしながら旅館に戻り、すぐに荷物をまとめた。心臓の鼓動は速く、背筋には冷たい汗が流れている。落ち着くために深呼吸しようとしても、胸が締め付けられ、まともに息ができなかった。
彼は一刻も早くこの場所を離れたかった。足早に駅へ向かい、茨城行きの電車に飛び乗った。揺れる車内で、窓の外をぼんやりと眺めながら、彼はふと呟いた。
「あの人は……俺を助けてくれたのに……」
彼の死を無駄にしてはならない。そんな思いが胸に込み上げてきた。あの男は、何の見返りも求めず、自分に生きるチャンスを与えてくれた。それなのに、自分だけが死を選ぶなど、許されることではない。
「やり直さなくては……死んだあの人のためにも……」
その決意が固まった時、田羽村はまたもや不思議なことに気づいた。
二度目のどん底から這い上がる決意をした途端、不思議と状況は好転し始めたのだ。
田羽村は、再び事業を立て直すべく動き出した。以前は手を出さなかったような仕事も引き受け、営業にも力を入れた。人の繋がりを大切にし、どんな小さな仕事も誠実にこなした。
すると、不思議なことに、仕事の流れが徐々に好転し始めた。新たな取引先が増え、信用を得ることができた。仕事が広がるにつれ、資金繰りも改善し、社員たちの給料を滞りなく支払えるようになった。
「これが……あの人の導きなのかもしれない。」
田羽村は、そんなことをふと思いながら、再び人生を歩み始めた。
しかし――。
三度目の試練が、すぐそこに迫っていることを、彼はまだ知らなかった。
第4章:三度目の挫折
またしても、田羽村の事業は窮地に追い込まれた。順調に見えた経営も、いつの間にか綻び始め、ついには資金繰りが尽きてしまった。二度のどん底を乗り越えたはずだったが、今度ばかりはどうにもならない気がした。
「もう……いいだろう……」
疲れ果てた心が、ふと呟いた。
田羽村は、ただひたすら宛てもなくさまよった。気づけば、潮の香りが鼻をくすぐり、波の音が遠くから聞こえていた。海岸に出たのだ。波は静かに寄せては返し、砂浜に白い筋を残していた。
「明日、ここで終わりにしよう。……ふふ、三度目か。」
自嘲気味に呟き、近くの寂れた旅館に宿を取ることにした。受付で宿帳に名前を記す手が、微かに震える。ここで最後の夜を過ごし、明日、あの海へ――。
そう決めたはずだった。
夜、海岸へ出た。
月がぼんやりと雲間に浮かび、波の穏やかなうねりを照らしている。遠くの街の灯がかすかに揺れ、潮風が肌を冷たく撫でていく。
そのとき、前方にひとりの男が見えた。
男はふらふらとした足取りで波打ち際へ向かっていた。田羽村は、何かに引き寄せられるように、その背中に声をかけた。
「待って……私も、一緒に連れて行ってくれ。」
男はぴたりと足を止め、ゆっくりと振り向いた。やせぎすで、眼の奥にどこか暗い影を落とした男だった。
しばしの沈黙の後、男は田羽村の横に並び、二人は並んで波を見つめながら腰を下ろした。
「俺は入水しようと思っていたんだが……」男はぽつりと口を開いた。「それでは、遺体が発見されず、保険金が下りないかもしれない。」
田羽村は息を飲んだ。まさか、同じことを考えているとは。
男は続けた。「だから、別の方法を考えたんだ。」
そう言うと、男は隣に置いていたカバンを開け、ごそごそと中を探り始めた。そして、そこから無骨なサバイバルナイフを二本取り出した。
ひとつを田羽村の前に差し出し、もうひとつを自分の手に握る。
「ここで、お互いを刺し合って死ぬのはどうだ?」
田羽村は、凍りついたようにナイフを見つめた。
「あなたから先に、俺の心臓を刺してください。その後、俺があなたの心臓を刺す。」
男は淡々とした声で言い、静かに自分の胸に手を当てた。
田羽村は、無意識のうちにナイフを握りしめていた。
「……あなたが先に刺してください。」
「もし、俺があなたを刺したら、あなたは残りの力を振り絞って私を刺せますか?」
「それはあなたも同じでは?」
「いいや、俺は格闘技で身体を鍛えている。ある程度の余力はあると思う。」
しばらくの沈黙。波の音だけが響いている。
「……ここで順番を争っても仕方がないですね。それでは。」
田羽村は、男の心臓にナイフを突き立てようとした。しかし、どうしても力が入らなかった。
刃先が相手の服に触れた瞬間、全身が強張り、手が震え始めた。
次の瞬間、田羽村はナイフを地面に投げ捨て、砂浜を駆け出していた。
怖かったのか、それとも、まだ生きたいと思ってしまったのか。
自分でもわからなかった。
旅館に逃げ帰った田羽村は、布団に潜り込んだまま、朝まで震えていた。
翌朝、昨日の男が気になって仕方がなかった。だが、海岸に戻るのが恐ろしい。
もし彼が死んでいれば、血が流れ、砂浜に赤黒い跡が残っているかもしれない。もし生きていたら……今度こそ自分が殺されるかもしれない。
そんな時、旅館に泊まっていた老人夫婦が散歩から帰ってきた。田羽村は思わず彼らに声をかけた。
「海岸に……何か異変はありませんでしたか?」
老人夫婦は不思議そうな顔をして首を振った。
「いいえ、ございませんよ。雲1つない日本晴れ、穏やかな海でした。」
田羽村の背中に、嫌な汗が流れた。
男がいなかった?
そんなはずはない。あのナイフ、あの提案、すべてが現実だったはずだ。
田羽村は恐る恐る海岸へ向かった。夜とは違い、陽が昇った砂浜は白く輝き、波が静かに寄せていた。
だが――。
何もなかった。
血の跡も、男の足跡も、何の痕跡も残っていなかった。
昨日、ここで自分と男が座り込んでいたはずの場所も、まるで誰もいなかったかのように、ただ静かな砂浜が広がっているだけだった。
田羽村は、ぞっとした。男は――本当に存在していたのか?
彼は確かに、ここであの男と会い、ナイフを握りしめ、震えながら命を賭けるような会話をした。なのに、まるでそれが幻だったかのように、何の形跡も残っていない。
恐怖が込み上げてきた。田羽村は、これ以上ここにいることには耐えられず、急いで旅館を出た。そして、またもや茨城へと逃げ帰った。
それからの田羽村は、以前ならば断っていたような仕事も進んで引き受けるようになった。生きることへの執着が生まれたのか、それとも、死を目の前にした経験が考えを変えたのか。
仕事を選ばずに努力を続けるうちに、会社は再び安定し、資金繰りも良くなっていった。
自宅では、長男が大学に進学し、娘も高校に入った。かつての苦しい日々が嘘のように、平穏な生活が戻ってきた。
第5章:エピローグ
田羽村:「今後、もう死にたいとは思いません。私を助けてくれたあの人の供養がしたいんです。」
孝謙和尚:「わかりました。よろこんで。」
田羽村の住む街では、供養を頼める寺はここしかなかった。
名前も歳も住所もわからない。ただ、男であったことだけが確かだった。
孝謙和尚は静かに読経を始めた。
風が静かに吹き抜け、鐘の音が遠く響く。田羽村は手を合わせ、目を閉じた。
あの男は、いったい何者だったのか。
答えは出ないまま、ただ心の中で感謝を捧げた。も聞かされていない老女が淡々と掃除をしているだけだった。
「……そういえば、お互い名前も名乗らなかったな。」
呟きながら、田羽村は旅館を後にした。
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