第2話 揺らぐ月の光

 夜の帳が下り、月光が《ルーナ・ガーデン》を照らす。

 空に浮かぶこの楽園は、世界のどこにも属さない。地上から遥か遠く、雲海の上に浮かぶ神秘の島。


 広大な庭園には、月の光を受けて淡く輝く白い花々が咲き誇っていた。

 静寂の中、冷たい風が吹き抜けると、花弁がふわりと舞い上がる。まるで月の精霊たちが踊っているかのようだった。


 その中心に、たった一人、銀の巫女が佇んでいた。


 「……きれい」


 エレナは庭園の中央に立ち、夜空を見上げる。

 深い青の瞳に、月の光がゆらりと映り込んでいた。


 ——今夜の月は、少しだけ、曇っている。


 胸の奥に、微かな違和感があった。

 巫女としての力を受け継いでから、ずっと月と共に生きてきた。

 だからこそ、わかる。


 月の輝きが、ほんの少し、揺らいでいる。


 「……巫女様?」


 背後から聞こえた声に、エレナは振り返る。

 そこにいたのは、変わらず彼女を守る紅の騎士——リリア・ヴァレンティア。


 月明かりに照らされたリリアの赤髪は、まるで燃える炎のようだった。

 その緋色の瞳が、静かにエレナを見つめている。


 「……どうしました? こんな夜更けに」


 リリアの問いに、エレナはふわりと微笑んだ。


 「少し、月を見ていたの」


 「それなら、部屋の窓からでも見えますよ。夜は冷えます、戻りましょう」


 エレナは小さく首を振る。


 「大丈夫よ。リリアがいるから、寒くないもの」


 その言葉に、リリアは一瞬だけ動きを止めた。

 彼女は困ったようにため息をつくと、静かに歩み寄る。


 「……私がいても、寒いものは寒いでしょう?」


 「じゃあ、もっと近くにいて?」


 そう言って、エレナはリリアの袖をそっと掴んだ。


 ——それは、いつもの仕草。

 けれど、リリアの胸がわずかにざわめく。


 この人は、いつだってこうだ。

 「私の騎士様でしょ?」と、当たり前のように求めてくる。

 ……そんな風に言われて、拒めるはずがない。


 「……ええ。おそばに」


 そう言って、リリアはエレナの肩にそっと外套をかけた。

 それを受け入れながら、エレナは静かに目を伏せる。


 「ねぇ、リリア……」


 「……はい?」


 「もし……私が巫女じゃなかったら、どうしてた?」


 リリアの呼吸が、わずかに止まる。


 「……どういう意味ですか?」


 「例えば……ただの普通の女の子だったら。リリアと、こうして一緒にいられたのかなって」


 リリアは、一瞬だけ言葉を失った。

 エレナが「巫女であること」に疑問を抱くことは、これまでほとんどなかったからだ。


 しかし、それは考えるまでもないことだった。


 「……いいえ。それは、ありえません」


 エレナの瞳が揺れる。


 「どうして……?」


 「だって、巫女様が巫女でなければ、私は巫女様を守ることができません」


 リリアはそう言って、エレナの手をそっと握った。


 「巫女様であるあなたを、私は守る。それが私の誓いです」


 エレナは、しばらく黙っていた。

 風が吹き抜け、白い花弁がふわりと舞う。


 ——巫女だから、リリアがそばにいる。

 それは、きっと間違いじゃない。


 でも、それって……ただの主従の関係なの?


 「リリアは……巫女じゃない私のこと、いらないの?」


 囁くような声だった。

 リリアはハッとして、エレナの顔を見つめる。


 ——違う。そんなこと、あるはずがない。

 この手を離せるわけがない。


 「……巫女様が誰であろうと、私はあなたを必要とします」


 リリアはそっと膝をつき、エレナの手の甲に唇を落とした。


 「ですが……私は、巫女様の騎士です」


 エレナの瞳が揺れる。


 主従として、守る存在。

 ……それ以上の言葉は、なかった。


 「……そっか」


 エレナは微笑んだ。でも、それはどこか寂しげで——。


 その時——。


 ガタンッ……!


 遠くの神殿の方角から、何かが崩れるような音が響いた。


 「……!?」


 リリアが即座に剣の柄に手をかける。

 エレナも驚いたように顔を上げた。


 風が止まり、静寂が広がる。


 しかし——その夜を境に、《ルーナ・ガーデン》に異変が起こり始めることになる。

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