ボクの初体験

山谷灘尾

第1話 ボクの初体験

「なんでそんな色で塗るの?パイナップルがそんな青い色してないじゃないの?」


担任のナカハシ先生は眉を顰め、指さしてボクの絵をいつものように否定した。


「あなたね、いっつも友達とふざけて全然絵を描いてないじゃないの?」


叱責はその後、延々と続いた。腰に当てた細い腕がワナワナと震えている。


余程ボクのことがキライなんだ。


友達は周囲とヒソヒソ何かを話している。きっといつも目を付けられているボクに対する悪評であることは嫌味な嘲笑から自然に推察できる。


ボクは青色でパイナップルを描いたら面白いと思っただけだ。

別に法律に違反しているわけでもないのにいいじゃないか。


「ほら、カスガくんのをみてご覧なさいよ、カスガくんはもっともっと観察して描いているでしょ。もっとよく見るのよ。友達とふざけているからこういう絵しか描けないの」


友達とふざけるのは美術の授業がワンパターンで楽しくないからだ。水の色はこう描け、人の眉毛はこうなっている、みんな校則で指定されているようにナカハシ先生は決めつける。


ボクは黙って俯いていた。涙が思わず溢れて床を点々と濡らす。袖で拭こうとすると先生は嫌悪感に満ちた顔で


「汚いことしないの、ねっ、これで拭きなさい」


美術室に常置されているティッシュを一掴みボクに渡した。ボクは悔しくてその柔らかな塊の中に突っ伏して嗚咽した。


その日の放課後、ボクはいつものように安らげる図書室へ行った。この学校は歴史もあって図書室は広々としていて、まるで市民図書館みたいだ。ああ、それよりやっぱり小ぶりだけど、古い茶色に変色したブックカバーが目につく。


司書のウタフキ先生は笑顔が柔らかい。ボクはその日美術の本が見たくて、高いところにあって手の届かない画集を取ってもらった。


「はい、ピカソとモネ、キミはダリとかマティスとかも見ると好きになるかもよ。はい、中国の斉白石なんかどう?」


ボクは夢中で机に画集を開いて見た。ダリは髭を丸めてピンと上に伸ばし、大きく目を見開いてこちらを凝視するように見下ろしていた。


時計が曲がっている。木に曲がった時計がダランとかかっている。マティスの絵では奥さんの鼻が緑に塗られていた。奥さんはこれを見て、どう思ったんだろう。きっとナカハシ先生以上に怒ったろうな。ピカソの絵はもっと訳が分からなかった。でも幼いとき鳥の絵を描いたら大学の先生だったお父さんが余りに驚いて自信を無くして、もう絵を描かなくなった、ウタフキ先生はそう言った。


中国の斉白石なんか、もっと子供っぽい絵を墨で沢山描いていた。エビの絵はちょっと上手いな、と思ったのは濃淡で描かれた沢山のエビが本当に河を泳いでいるようだったから。


ボクの青いパイナップルなんか普通のことなんだ、少しほっとした。何か世界の画家に背中を押されているようだった。


授業の緊張で急に眠たくなって、机に突っ伏していたボクは背中をトントン叩かれて目が覚めた。


そこは図書館なんかではなく、豪華な調度と本棚に覆われた大きなお屋敷のようだった。


テレピン油の匂いと絵の具の匂いに満たされて、ボクは背中を向けてグラスの赤ワインを飲んでいる人に気がついた。彼は外国語で話しかけてくるのだが、ボクにはそれが何故かわかるのだ。


「こっちへおいで、ほらキミのために用意したイーゼルとキャンバスだよ。そのパイナップルをもう一度このいい絵の具で描いてみて」


「怖くはないよ、ほら自由に遊べばいい。絵を描くって自由になることなんだから」


長い口髭を巻き上げながらその人は言った。ダリだ。ボクが夢中で絵を描いていたらダリはそばへ寄ってきて囁いた。


「いいよ、いい絵を描くなあ。絵をやめたらダメだぞ」


「はい、あの・・・」


言いかけたとき、もうダリの姿は消えていた。ボクが振り返ってきた方向を帰ろうとすると風景が全く変わっていた。それは東洋らしい松がそこここに植えられた庭園の中だった。池には鮮やかな大きな鯉が数匹泳いでいる。


四合院のお屋敷にボクは立っていた。瓦屋根が重厚に見える。観音開きの入り口で顎髭をを摩りながら老人が手招きしながら声をかけた。


「ライライライ!」


こちらへ入ってこいということだ。

書斎に鎮座した黒檀の机と椅子がピカピカに磨かれている。老人はブドウの絵を描いていた。どうもブドウが得意らしい。


「墨を擦ってごらん」


老人は大きく重そうな硯を指さして優しくて手招きした、机の上には少し燻んだ色の画仙紙が一枚広げられている。


「墨なんかで絵を描いたことはありません」



ボクは言った。


「こんなのってありなんですか?」


「もちろんじゃとも。才能のあるキミがそんなこと言っちゃいかん。

何でもやってみることじゃ」


老人は顎髭を撫でながらそう言った。


ボクが墨を擦っていると、老人が優しく手を取って墨を回しながら擦る方法を伝授してくれた。


「斉白石じゃ.北京にある美術学校の先生じゃよ」


油彩や墨で絵を描いたのは初体験だったが、どれも美術の授業とは全く異なるワクワクした体験だった。ボクはブドウを一房描いた。


「上手いもんじゃのう、ワシの子供の頃にそっくりじゃ、アッハッハ」


斉白石も褒めてくれた。


ハッと目が覚めたとき、夕日の赤っぽい光が優しく目を癒していた。ボクは初めて絵を描くことの楽しさと充実感を知った。


終わり










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ボクの初体験 山谷灘尾 @yamayanadao1

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