第15話 手紙
凛花は朝、目を覚ますと、大学に行く気力が湧かなかった。昨日の電話の内容が頭を離れず、先生の死が信じられなかった。ずっと冷静で、どこか強い存在に見えていた先生が、こんな形でこの世を去ったことがどうしても受け入れられなかった。
リビングでぼんやりと過ごしていたが、気分転換をしようと、外に出ることに決めた。歩くことで少しでも心を落ち着けようとした。春の光が差し込む中、深呼吸をして玄関から歩き出すと、ふと自分の家のポストに目を向けた。
そこに、見慣れない封筒が一通入っていた。凛花は立ち止まり、封筒を手に取る。手紙の表には、ただ一言『早乙女静子』と書かれている。差し出し人が先生の名前だと気づいた瞬間、凛花の心臓が大きく跳ねた。
「えっ…?」
恐る恐る封を切り、中身を取り出した。紙の上には、先生の文字が綴られている。しかし、それが何であるかを確認する前に、凛花の手は震えていた。手紙の最初の一文に目を落とす。
”遺書”
その文字を見た瞬間、凛花の頭が真っ白になった。まさか、先生からこんな形で伝えられるなんて思いもしなかった。しかし、怖いという感情よりも、今はどうしてもその内容を知りたかった。心のどこかで、静子が自分に残したメッセージが何かあるのではないかと思ったからだ。
息を呑み、ゆっくりと紙を広げていく。その時、凛花はただの遺書ではなく、何か静子の本当の気持ちが伝わるものを探し求めるような気持ちで、その文字に向き合っていく。
遺書
空っぽの人生でした。私は物心が付いた時から、無感情で反応にも乏しいロボットのような人間でした。何にも興味を示さない、つまらない人間でした。そして、何もない人生でした。小学生の頃から、親や教師に怒られることも、生徒から虐められることのない、ただ平凡で中身のない人生を過ごしていました。友達ができることも、恋人ができることもなく、当然青春なんてものもない人生です。
私がカウンセラーをしていたとき、色々な悩みを持った生徒がやって来ました。いじめられている、虐待されている、そんな色々な痛みを抱えている生徒と関わってきました。不謹慎ながら、私は彼らが羨ましかった。悪い出来事ではあるものの、人生にイベントがあり、私なんかよりも意味のある人生を歩んでいて羨ましかったのです。
私の一番の罪は、好奇心がなかったことです。人というものは、好奇心さえあれば人生にどのようなイベントでも作れます。それがない私の人生には何もイベントがありません。気づいた時にはもう遅かったのです。過ぎた人生を、もう取り戻すことは出来ないのです。
私はいつからか、自分の存在を感じなくなっていたのだと思います。どんなに周りの人が私に話しかけてきても、どんなに大切な仕事をしていても、何も心に響かない。恐らく私は、物心が付いたときから、いつのまにか人と関わることが面倒くさくなり、ある種の自己防衛のように無感情でいることが癖になったのでしょう。
でも、気づけばその無感情さが、周りをどんどん遠ざけていったことを理解しています。私は誰とも心を通わせることなく、ただ自分の殻に閉じ込められて生きてきました。それは本当の意味で「生きている」ということをしていなかったのだと今になって思います。
それでも、誰かと関わることが怖くなったわけではありません。ただ、私は無感情のまま生きることが楽で、そこに安心感を感じてしまったのでしょう。
あの時、もしもう少し自分を変える努力をしていれば、何かが違ったのかもしれません。あの時、少しでも好奇心を持って、何かに興味を示していたら、違う人生が待っていたのかもしれない。
しかし、私はそれをせずに、ただ無感情で過ごしてしまいました。心の中で何も感じないまま、ただ時が過ぎていきました。
それが、私の最大の後悔です。
そんな私にも、1人だけ友達ができたことがあります。北村夏美先生です。無機質で何も無い私なのに、彼女は「友達になってよ」と言ってくれました。彼女とは色々なことをしました。ドライブをしたり、映画を見たり、ゲームをしてみたり。私はそういったことをしてもあまり反応を示すことはありませんでした。
それでも何度か聞いたことがあるんです。「こんな何も反応しない私といて楽しいんですか?」と。彼女はにこやかに、「そこがいいんだよ。一緒にいて飽きない。」って言うんです。私はその意味を未だに理解していませんが、初めて人に必要とされているのだと少し嬉しくなったことは覚えています。
夏美先生、あなたが結婚したことを聞きました。このような形で祝うのは不謹慎かと思いますが、お許しください。心から伝えます。結婚おめでとうございます。あなたが私の友達で、私は本当に良かったと思います。あなたと過ごした時間が、どれほど私にとって大切だったか、言葉にしきれません。
こんな私でも、誰かと繋がることができたこと。それは、私にとってただの奇跡ではなく、ほんのわずかな幸せでした。
そして、私にはもう1人大切な人がいます。如月凛花さんです。彼女もまた、私に積極的に接してくれました。初めて会った時、彼女は明るい性格を演じていて、「本当の自分は無機質だ」と話していました。その言葉に、私はふと感じたのです。「私と同じだ」と。まるで自分の過去を見ているような気がしました。そんな思いから、彼女を特別視するしかなかったのです。
だからこそ、彼女に私の映像作品を紹介しました。私と似ているからこそ、きっと理解してくれるのではないかと。そんな私の期待を凛花さんは遙かに超えてきました。彼女は私がYouTubeに投稿した全ての作品を見るどころか、Trivial Thingを見つけるほどに作品を愛してくれたのです。私を理解してくれる人がいること、これほどまでに嬉しいことはありませんでした。
放課後カウンセリングで、彼女が私の作品の感想や考察を話してくれる日々。その時間は、私の人生の中で最も充実していた瞬間だと、今でも断言できます。彼女と過ごしたその瞬間が、私にとって何よりも尊いものでした。
夏美先生と凛花さんは、私の人生の中で唯一のオアシスでした。彼女たちと過ごした時間は、まるで枯れた大地に降り注ぐ恵みの雨のようでした。どこか寂しげで無感情だった私にとって、その温もりは唯一無二のものだったのです。
けれども、時間は確実に流れていきました。夏美先生は結婚し、凛花さんは卒業して、それぞれの人生を歩み始めました。どんなに求めても、私の手のひらからその温かさはこぼれ落ち、私は再び空っぽの世界に戻ってしまったのです。
何も感じないはずだった私が、かつての虚無に戻れなかったのは、初めて人としての充実感を知ったからです。それがあまりにも大きすぎて、耐えきれるはずがありませんでした。私は、もう一度その感覚を得ることができるのか、どうしても自分に問いかけ続けました。
私の人生は、どうしても空白で満たされてしまう。愛されることができても、それが永遠でないことを知っているから。だからこそ、自分の命を終わらせる決断をしました。私の身勝手をお許しください。
そして、夏美先生と凛花さん。彼女たちが幸せな人生を歩むことを、私は心から願っています。私のいない世界でも、二人の幸せが続いていくことを信じています。私は、それを心の中で、静かに祈り続けます。
最後に、私はただ一つ言いたい。私がこうして生きた時間は無駄ではなかったと。私が感じた小さな幸せは、無意味ではなかったと。あなたたちがいてくれたから、私はほんの少しだけでも人間らしい気持ちを知ることができました。
早乙女静子
遺書を手に取ったまま、凛花はしばらく動けなかった。先生の言葉が、まるで凛花自身の心に深く突き刺さったかのように感じられた。涙は自然にこぼれ落ちる。しかし、その涙の中には、彼女に対する敬意が込められていた。
悲しみに浸るだけではなく、先生が残した言葉の意味を、彼女がどれだけの思いを込めて書いたのかを理解しようとする気持ちが強くなった。
「先生…」
凛花は呟く。彼女の名前を呼ぶのは、あまりにも胸が締め付けられる瞬間だった。
先生が生きていたとき、カウンセリングの時間を重ねる中で、彼女が何度も見せてくれた優しさに触れていた。しかし今、こうして遺書を目にしたとき、その優しさがどれだけ彼女の中で切なさや痛みとしてあったのかを知り、凛花はその重みを全身で感じていた。
遺書の内容は、先生がどれだけ無感情で無意味な存在だと感じていたかを物語っている。しかし、それを感じたとしても、先生が決してそのままで過ごしていたわけではない。凛花は、先生がどれほど悩み、苦しみながらも、他者のために何かを与え続けようとした姿を思い返していた。
「先生、私…私、先生が残してくれたもの、しっかり受け取ったよ。」
凛花は、ゆっくりと涙を拭いながらつぶやいた。その言葉は、先生への感謝と共に、決して悲しみに屈することなく、前を向いて生きていこうという決意のようにも感じられた。
再び遺書を読み進める。先生が自分をどれほど特別視していたのか、どれだけ心の中で自分と向き合わせてくれていたのか。それが一字一句に込められていることが凛花には分かった。
先生は、彼女にとっての"本当の自分"を見出そうとしていた。だからこそ、最後の瞬間にまで自分の思いを作品として残し、またそれを彼女に託したのだと感じた。
「ありがとう、先生。」凛花は心の中で先生に語りかける。その思いが、彼女の中で静かに広がっていく。先生の遺したものは、単なる悲しみや後悔ではなく、彼女が最も深く感じた思いを伝えるための"作品"としての形を取っている。
それに気づいた凛花は、静子が選んだ最後の手段を、ただの絶望ではなく、一つの芸術として受け入れることを決意した。
凛花はもう一度、遺書を読み返す。その文字一つ一つに、先生の生きた証が込められていることを感じながら、彼女の言葉がこれからも自分の中で生き続けることを実感していた。
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