一章09・審問


 教会の集会室に、続々と修道士が集まってくる。

 窓の外は霧がかった灰色の空。昼間だというのに夕方のように薄暗い。大聖堂とは違い、装飾性のない禁欲的な石造りの部屋に蝋燭の明かりが灯され、そこで数十人の修道士が中央の空間を開けて輪のように垣を作っていた。


「血の匂いが」

「なんとおぞましい……」

 静寂を重んじる修道士たちがざわめいている。彼らに囲まれ、ジルは両手を縄で縛られて床に膝をついていた。乱れた髪も血の酒のシミがついた服も、郊外をさまよっていた時のままだ。その胡乱な姿を見て修道士たちは更に眉をひそめる。


 これだけの修道士が礼拝以外で一堂に会したのは、集会室で行われるジルの審問のためだった。

 傍らに錫杖を手にした大柄な修道士が立ち、ジルが妙な動きをしないかと目を光らせている。正面に並ぶのは異端審問官たち。その中心には眉間に深いシワを刻むダーレンの姿があった。


「病床にある異端審問官長より、私が此度の審問を行う許可を得た。異議がないようであれば、はじめよう」

 ダーレンは力強い声でざわめく修道士たちを静まらせると、ジルに厳しい眼差しを注ぐ。

「ジル・バルツァル、貴様は教会が下した投獄の決定に反発して逃亡後、血の匂いを漂わせて見つかった」

「……逃亡したつもりはありません」

 発した声が強張る。


 子供の頃から嫌悪や恐怖といった感情を向けられてきたのだ。気分のいいものではないが、今更、動じないと思っていた。しかし自分の存在を否定する者たちにこうして逃げ場がないほどに囲まれるのは、さすがに足がすくむほどに恐ろしい。

 息をついて波立つ心を落ち着かせる。せめて顔を上げ、真実を訴えることしか今のジルにはできない。


「行方をくらませたのが事実でも、僕の意志じゃありません」

「逃亡の意志の有無はさほど重要ではない。もっとも重大な貴様の罪は、血を口にしたことだ。それも自らの意志ではないと主張するのか?」

「無理やり血の酒を飲ませたのはオリガ・フィアルカです。僕を教会から引き離したいと彼女は望んでいます」


 フィアルカの名前を出すと修道士たちが動揺した。

 魔女の眷属を産み出した黒魔術の行使者、眷属たちの首領、邪悪の化身であるフィアルカという名前に修道士は畏れを抱く。それはジルや他の眷属たちに対する感情と比べ物にならない。二百年前から語り継がれる彼女の存在は、ほとんど魔女と同一視されているのだろう。


「かのフィアルカが血を強いたとしても、その結果の責任は貴様自身が負うべきだ。貴様が見つかった場所からほど近い廃礼拝堂で、少女の血肉を貪り喰らう貴様の姿を目撃した者がいる」

「何を言って……」

 無意識に立ち上がろうとしたジルを、すかさず傍らに立つ大柄な修道士が錫杖で押さえる。再び床に両膝をついたジルは見開いた目でダーレンを凝視した。


 濡れ衣だ。身に覚えがない。

 身に覚えがないはずなのに、脳裏にちらつく光景があった。

(いや、まさか……)

 見知らぬ礼拝堂でジルによく似た大男が、少女の喉に喰らいつく光景だ。

 背筋が凍りつく。青ざめたジルをダーレンは冷ややかに見下ろした。


「顔色が変わったな。見られたことも気づかないほど夢中だったらしい。血に酔った貴様は高揚し、更なる血を求めて少女の命を奪ったのだ」

「そんなわけが。ありえない……」

 あってはならない。

 しかし血が足りない――と、腹の奥底から湧き上がる獰猛な渇望を覚えている。


「ならば行方をくらませていた間、どこで何をしていたというのだ!」

 血の酒を飲まされてから記憶がない。記憶がない間に、見知らぬ少女を喰い殺す罪を犯したというのか。


「ダーレン、話が飛躍している」

 落ち着いたその声が早鐘を打つジルの心臓をなだめる。クインシーの声だった。

 異端審問官たちの中からクインシーが前に出る。彼はジルをかばうようにジルとダーレンの間に立つと、凛とした表情でダーレンと対峙した。

「廃礼拝堂で殺人を目撃した者は、犯人が大柄な男だったとしか証言していない。それを彼と結びつけるのは短絡的ではないか。疑いを向けるのは仕方がないが、真実を語ろうとする者の言葉に耳を傾けるべきだろう」

 冷静にさとすがダーレンは眉ひとつ動かさない。


「予想外の出来事が身に降りかかり、今の彼の心は乱れている。しばらく休息が必要だ。その後に審問を行っても遅くはない」

「クインシー、貴方はジル・バルツァルに悪しき影響を受けている。信仰心に篤く、女神に仕える者としてあまりに正しい貴方を敬愛するのは私だけではない。幼年の頃より貴方の前に立つと己の未熟さ思い知り、恥じ入ったものだ」

 ダーレンのクインシーに向けたその声は、ジルに向けるものとは明らかに違う。声と眼差しには憐憫の情を感じた。


 ジルに肩入れするクインシーは教会内で孤立しているが、それでもなお彼の人となりを慕う者は多い。ダーレンもその中のひとりなのだろう。

「異端審問官として悪の道に迷いこんだ者の罪に厳しく接するが、悔い改める者の心には深く寄りそう。それだからこそ貴方はジル・バルツァルの境遇を哀れむあまり懐柔され、己を見失った。女神に背く血を継ぐ者を庇護するのが真に正しい行いなのか、今の貴方は自問が必要――」


 その時、ダーレンの言葉をさえぎるように、集会室の扉が乱暴に開かれた。

 全員の視線がそちらへ向く。垣を作っていた修道士たちは派手な音とともに登場した人物に戸惑いながらも道を開け、よく知った匂いが近づいてきた。

 集会室の中央で膝をつくジルの前に現れたのは、漆黒の軍服に身を包んだ眼帯の男――エドガーだ。


「グレゴル伯爵、貴方はこの場に入る資格を持たない。退出を願おう」

 周囲が戸惑う中でも毅然としているダーレンをエドガーは見据え、すっと表情を引き締める。その一瞬で彼は普段の人当たりのいい気配のいっさいをかき消した。

「教会の古き盟友グレゴル家が当主、エドガーが問おう」

 雷鳴のような声だった。


「なんの権利があってこの男を拘束しているんだ。ただちに解放しろ。法が敷かれ、秩序が守られる。罪を裁くのは教会の役割じゃない」

 怒鳴ったわけではない。しかし肌がひりつくような声に誰もが委縮した。


 グレゴル伯爵家は古くからの盟約で、血筋の者を多く教会へ送りこんできた。その者たちは高位聖職者の地位につき、政治的や社会的な繋がりといった純然たる信仰だけでは成り立たない教会組織の運営に貢献してきたのだ。

 つまり、かつて古都の教会は伯爵家の威光を借りていた時代があり、現在、これほどまでに力を持てたのは伯爵家の後ろ盾による部分が少なくない。

 だからエドガーは教会に対して強い態度を見せる。


「い、いくら伯爵といえども、軍刀を提げたまま乗りこんでくるとは……」

「口をつぐめ。俺が問うたことに答える気がないなら」

 恐る恐る苦言をていした修道士はエドガーの片目に睨まれ、あわてて首を縮めた。

 集会室に緊張が漂う。その中でもダーレンはやはり毅然としていた。


「我々はジル・バルツァルの罪を確認しなくてはならない。バルツァルの血筋は教会が管理してきたのだから」

「だからそれは軍警察の仕事だと言っている」

 エドガーが硬い軍靴の音を聞かせるように響かせながら、ゆっくりと歩き出す。集会室に集まった修道士たちの顔をひとりも逃さず射抜くように見回して歩き、言葉をつむぐために息を吸う。


「軍警察の組織が整備されてから、軍の中でグレゴル家が宗教的な異端の疑いがある事件……つまり眷属が関わる事件の処理をしてきたこと、異端審問官と情報の共有において協力し合ってきたことは改めて説明するまでもない」

 グレゴル伯爵家は古くから古都周辺の土地の多くを血族で所有し、本来は労働を美徳としない階級だ。しかし伯爵家の当主自ら軍警察に身をおき、眷属が関わる事件の捜査に加わっている。それは、大衆が存在すら知らされていない眷属たちの悪行から守るのが『高貴たるものの責務』だからだと聞いた。


「まあ、お互い煙たく思っている部分も多いが。それでも役割の分担に関しては納得し合ってきたはずだ。法に触れる事件は軍が、そうでないものは異端審問官が調査を主導する。今回が殺人事件なら、明らかに俺の管轄だ。教会の出る幕じゃない」

「ジル・バルツァルは血を口にして教会との制約を破り、事件はその逃亡中に起きた。我々の審問を受ける必要があるのは明白だ」

 ジルとダーレンの間に立つクインシーの側まで来ると、エドガーは足を止める。エドガーとクインシーがジルをかばうように立っている状況だ。


 決して退かないダーレンを見据えるエドガーの鋭い眼差しには怒りが滲んでいる。昔からそうだ。教会にただただ従うジルの代わりに、彼はその仕打ちは不当だと怒ってくれる。

「状況を整理しよう」

 しかしエドガーは怒りを呑みこんで声を荒げなかった。舞台に立った俳優のように堂々とした態度で修道士たちに語りかける。


「まず今回の事件現場は郊外の廃礼拝堂。十数年前に付近の住民のほとんどが街へ移住し、使われなくなった場所だ。昨夜、目撃者は近郊の集落から戻る途中で馬車がぬかるみにはまり、助けを呼ぼうと徒歩で街を目指していた。そして休息をとるために廃礼拝堂に立ち寄り、殺人を目撃。慌てて教会に助けを求め、行方が分からないジルを捜索中だった異端審問官の耳に入ったという流れだ。教会じゃなく軍に駆けこんでくれれば、お前たちがしゃしゃり出てくることはなかったんだが」

「目撃者いわく大柄な男、あるいは獣だったと」

「ならば獣だろうよ。あの辺りは農作物を狙う獣がたまに寄ってくると聞いた」


「我々は魔女の眷属のおぞましい本性を肌で感じ、知っている。その人ならざる者が廃礼拝堂の近くで血の匂いを漂わせて見つかったのだ。まったくの無関係だと主張するのは無理があるだろう」

 ダーレンが言うように、祈りの日々を重ねる修道士は血の匂いをはじめ、人ならざる気配に敏感だ。だからこそ彼らはジルの存在を生理的に忌み嫌い、決して受け入れることができない。


「ダーレン。お前からは、何がなんでもジルを罪人に仕立てあげたいという悪意を感じる。俺が知る限り、少し前まで次の異端審問官長にと望まれていたのはこの色男だったはずだ」

 クインシーのことだ。

「こいつがその地位に興味を示さないでいる内に、明確な出世欲を持つお前が台頭してきた。出世欲は悪いものじゃない。貪欲さは組織の指導者に必要だろう。だが、お前のジルへの冷遇は私欲が見えすぎる。教会が長らく抱えてきたバルツァルの血筋の問題を、自分が先導して排除したという功績が欲しいんじゃないのか?」

「ここは伯爵の作り話を聞く場ではない」

 ダーレンはエドガーの挑発に乗らない。常に不機嫌そうな表情を変えずに淡々と声をつむぐ。


 しかしエドガーも退かなかった。

「作り話はどちらだろうな。そもそも本当に事件は起きたのか? 被害者の遺体もないじゃないか」

「我々が到着するまでに、食べ残しを隠す時間はあっただろう」

「だったらそれを探せ。被害者の遺体はなく、あるのは目撃者の証言だけ。トラブルで馬車を失い、真夜中に人気のない郊外をさまようことになった者が、夜闇への恐怖と疲労で幻覚を見た可能性は十分に考えられる。お前はそれに気づきながら目をつぶり、ジルをおとしいれるために利用しているんだ。ここへ来る前に現場を見てきたが、血痕すらなかったぞ」

 いっせいに修道士たちがどよめいた。


「なんだ、それは。聞いてた話と違うんじゃないか?」

「いやでも、戻ってきた者たちは」

「精気が抜けたような青い顔で――」

 戸惑いながら口々に囁き合う修道士たちを、エドガーは眉を寄せて見回した。

「廃礼拝堂とはいえ、屋根は壊れていない。雨で血が流れるわけもなく……いや、どうした?」

「グレゴル伯爵。廃礼拝堂へ行き、確かに内部を見たのだな?」

 口を開いたクインシーも声に困惑の色をにじませる。


「祭壇を赤く染めるおびただしい血は私も確認した。ともに確認した者は、今この場に集まれないほどに疲弊している。それだけ凄惨な光景だったのだ。遺体も遺留品も見つかっていないが、あの量の失血であれば間違いなく……」

「どういうことだ。何もなかったぞ」

 不可解な食い違いだった。

 少女が喰い殺された残忍な事件は起きたのか、起きていないのか。


 しかしジルの瞼の裏には、自分に似た男が少女の喉に喰らいつく光景が浮かんでいた。白くやわらかな喉を噛み千切る生々しい感触が、さっきから口の周りに残っている気がしている。芳醇で甘い血の味と温度が口の中によみがえり、おぞましさに震えると同時に余韻を探すように舌で口の中を舐めてしまう。

 遺体や血痕がなくても、これが答えではないのか。


「ダーレン。今一度、廃礼拝堂を調査するとともに、目撃者からもくわしい話を聞くべきではないか?」

 クインシーの提案にダーレンは苦々しい表情で瞼をかたく閉じた。

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