一章08・朝霧の雑木林
八
淡青色の朝霧が立ちこめている。
ぼんやりした視界の中をさまよいながら、雲の上を歩いているようだと思った。
冬の匂いと冷たい土の匂いがする。鼻の奥にツンとしみるそれに誘われ、ジルの意識が目を覚ました。
ここは、どこだ。
目に映るのは朝霧と葉の落ちた雑木林。足元は舗装されていないが、土が踏み固められて道になっている。霧で分かりにくいが、少し先に赤茶けた煉瓦造りの民家の影が見えた。
体がだるい。おぼつかない足取りでいつから歩いているのだろう。色々なことが上手く思い出せない。
足を止め、木の幹に背をあずけて白い息を吐く。霧でうっすら濡れて冷えきった肩を抱いた。髪は乱れ、衣服はよれてシワになり、靴は泥で汚れている。防寒具どころか上着も身につけていない。なぜこんな格好をしているのか。
突然、耳をつんざく銃声が空に高々と響きわたり、鳥が木々から飛び立つ。
「……人間、か?」
銃声と声が聞こえた方向を見ると、年老いた男が空に猟銃の口を向けていた。彼はすぐに銃を下ろし、おかしいなと頭をかく。
「すまんね。驚いただろ。また獣が倉庫の食いモノを荒らしに来やがったと思ってさ。でっかい気配がしたんだけどな……って、アンタ酒臭いな!」
何かの間違いだろう。ジルは酒を飲まない。酔いで理性がゆらぐのが嫌なのだ。
「そんな寒そうな格好して。ここが分かるか? ったく、どこで酔っ払ってこんな街外れまで来たんだ」
「どこで……」
思い出した。
おぼろげだった記憶が急によみがえり、同時に嗅覚も戻ってくる。
酒臭い。血の匂いもする。悪寒を覚えてよろめき、思わず地面に膝をついて口元を手でおおった。
「おいおい、吐くのか? 勘弁してくれよ」
老人が呆れて溜め息をつくが、弁解している余裕はない。
こみ上げてくる吐き気を堪えて今日の日付と時間を尋ねると、図書館でフィアルカに会ってから十時間ほどが経過していた。その間のことをまったく覚えていない。
焦燥に冷や汗が浮かぶ。シャツとウエストコートには、ワインがこぼれたような赤黒いシミがついていた。血の酒だ。
はじめて口にした血の味に酔い、記憶が飛んでいるのだ。
「ジル?」
不意に名前を呼んだのは、こんな場所で聞くはずのない声だった。
霧の雑木林の中から現れた人物は、白いローブ姿で修道士だと一目で分かる。
クインシーだった。彼は端正な顔に驚きの色を浮かべ、ここにいるのが確かにジルだと知ると慌てて駆け寄ってきた。
「これはこれは、修道士様。お勤めご苦労様です。コイツの知り合いですか?」
手を祈りの形に結んでかしこまった老人にクインシーがうなずく。
「彼のことは私が」
「ええ、はい。修道士様がそう言うなら」
老人が頭を下げて去っていくと、クインシーはローブが汚れることも気にせず、湿った地面に膝をついてジルと視線を合わせた。
「銃声が聞こえて来てみたが……ジル、今までどこに?」
なぜクインシーがここにいるのか疑問だが、クインシーもジルに対して同じことを思っている。
ジルには教会に居場所を報告する義務があるが、一晩も黙って行方をくらませていたのだ。教会の投獄の決定から逃亡したと、疑われても仕方がない状況だと気がついた。
「とりあえず無事でよかった」
クインシーは安堵を漏らして微笑む。よく見れば彼の目の下にはクマができていた。顔色もあまりよくない。監視対象の行方が分からなくなり、寝ていないのではないか。
「ごめん……」
謝罪を口にしながら胸が苦しい。ジルが望んだわけではないが、彼の信頼を裏切る行為をしたのだ。
話さなくてはならない。しかし言いにくい。
「ためらうのは分かる。私が言おう。君から血の匂いがしている」
クインシーにあっさりと指摘され、ジルは恥ずかしさのあまり目を逸らした。
気づかれていたのだ。清浄な祈りの日々を重ねる修道士は、異質なものに対する感覚が研ぎ澄まされている。隠せるものではない。
「何があったのか話してほしい」
しかしクインシーはそのおぞましい匂いに眉をひそめず、理由があるのだろうと真剣にジルの言葉に耳を傾けようとしてくれる。
「……図書館に眷属が現れて、エドガーの血で造った……血の酒を飲ませられた。酔って、それからの記憶が曖昧で」
「眷属が血の常飲のために造る酒か。伯爵のとは……そうか、右目の時の」
眼球もすべて飲み干した。喉を落ちていくその感触を生々しく覚えている。
「ジル、私は君が偽りを口にしないと知っているが、残念ながら他の者は違う。すぐここを離れてほしい。近くの廃礼拝堂に異端審問官が来ている。先程の銃声を聞いたのは私だけではないのだ。まもなく彼らも様子を見にくるだろう。いったん身を隠し、冷えきった体を休ませ、落ち着いて記憶をたどろう。このままでは――」
手遅れだ。
言葉を途中で呑みこみ、クインシーが苦々しく顔を歪める。こちらに近づいてくる複数の足音が聞こえてきていた。
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